幸せ自慢という不毛・神道と天皇(4)

『神は妄想である』という本でドーキンスが宗教を否定してゆく語り口は、きわめて過激で説得力がある。無数の宗教原理主義者が跳梁跋扈している現在のこの世界で、よくこんな本が書けたものだと思う。世界中を敵に回している、という感がある。その勇気は、どんなに称賛してもし過ぎるということはない。
とくにアメリカやイスラム社会の原理主義的な状況はもう、信じられないくらい極端で、アメリカ人の90パーセントは「神が人間をつくった」というアダムとイヴの話を本気で信じているのだとか。そして、ドーキンスのもとにはたくさんの「殺してやる」という脅迫状が届いたのだとか。
ただ、この本の読者はとうぜんほとんどが知識階級だから、全体の賛否の割合は、「よくぞ言ってくれた」と賛成している人のほうがむしろ多いのだとか。
現在の世界は、宗教原理主義の嵐が吹き荒れ、宗教戦争そのままの民族紛争は後を絶たない。
そして増え続けるイスラム教徒のヨーロッパへの移民・難民の群れにしても、日本人のような「郷に入らば郷に従え」というようなエチケットの意識などさらさらなく、イスラム教徒のままでいることが当然の権利であるかのような顔をしている。彼らはもう、イスラム教徒であることしかできない。アメリカにしろイスラム世界にしろ、子供のときから徹底的に宗教教育を施され洗脳されてしまう、という社会の構造がある。
日本人からしたら「移民・難民としてお世話になるのだから、自分の宗教なんか捨てるくらいの覚悟で行け」といいたいところだが、本気で宗教を信じている人たちにそんな理屈は通らない。たぶん彼らは、無宗教になることはできても、キリスト教徒になることは絶対にできない。彼らにとってはイスラム教の神以外に神などいないし、「イスラム教の神を信じるか、何も信じないか」の選択肢しかない。そしてヨーロッパが神を信じることが許されている土地であるのなら、「アラーの神を信じて何が悪い?」ということになる。
たいていの日本人が無宗教になってしまえる可能性を持っているし、じっさいほとんどが無宗教であるのだが、彼らはそういうわけにはいかない。神を信じて生きていく以外の道はない。
問題は、欧米の無神論者はとても肩身の狭い思いをしているし、宗教者がむやみに尊敬される状況がある。だからドーキンスは、そういう状況を打ち破ろうとしている。宗教者を無神論者にしてしまうことなんかできないが、せめて無神論者であることをもっと気軽に告白(カミングアウト)できる状況があってもいい、でないと世界はますますひどい状況になっていってしまう、という。
この世に無神論者はたくさんいるが、それでもたとえ無神論者といえども、現代人の心はどこかしらで「神」という概念に支配されてしまっている。「正義によって人を裁く」とか「自意識の肥大化」とか不毛な「生命賛歌」とか「幸福論」とか、すべては「神」という概念から照射されている問題なのだ。
まあこの国は実質的に無神論者の国だともいえるのだが、それでも誰もが「神」という概念とは無縁でいられないという情況がある。そこに「神」という問題の根深さがある。

そこでドーキンスは、『神は妄想である』という本の最後の章で、このようにいっているのだが……

私は(…中略…)宗教などなくても幸福で充実した人生を送ることができるという主張を持って、本書を締めくくるつもりである。


こういういい方も、僕の癇に障る。
科学者ともあろう人が、何を通俗的なことをいっているのだろう。
人生は「幸福で充実」していないといけないのか?「不幸でむなしい」人生だったらいけないのか?
「不幸でむなしい」人生でなければ知ることができないものや味わえないものもあるし、どんな人生だろうと取り返しのつかない一回きりのものではないか。幸福で充実していることが、そんなに素晴らしいか?
人生なんか、幸福だろうと不幸だろうと充実いようとむなしかろうと、ぜんぶどうでもいいのだし、ぜんぶそれでいいのだ。
誰だって自分以外の人生は生きられないのだし、誰だって「こうしか生きられない」というところで生きている。
「自分」ということに関していうなら、自分の人生だろうと存在それ自体だろうと、あるのかないのかよくわからない。確かなことはただ、われわれの意識はそこに他者が存在し世界が存在するということをひとつの「事実」として認識している、ということだけだ。世界や他者が存在することの「事実」の尊厳、というようなことはあるかもしれないが、幸福で充実した人生と不幸でむなしい人生の差なんかない。論理的客観的科学的にいって、そんな差はないのであり、ただ肥大化した自意識の主観においてそういう価値意識を持ってしまうだけのことだろう。
ドーキンス先生、あなたがいくら「私の人生は幸福で充実している」と思おうと、もっと強く確かにそう思っている宗教者はいくらでもいる。あなたよりももっとつまらない人生を生きているものでも、宗教者なら、あなたよりももっと幸福で充実していると自覚している。宗教はもともとそのように思い込むための装置であり、そうやって自意識が肥大化し「全能感」に浸されてゆく装置なのだ。
宗教者にとっての「自分」は何にもまして確かな存在として認識されているのであり、われわれ無神論者にとってのそれは、そういう幸せな体験からすでにはぐれてしまっており、「自分」なんかどうしようもなくあいまいで、確かなものは目の前のこの世界や他者ばかりだ。

意識のはたらきにおいて「自分」という存在がいかにあいまいであるかということを知るなら、自分の人生のことをどうこう言ってもしょうがない。
意識のはたらきの自然・本質はこの世界や他者の存在をたしかに認識し「反応」してゆくことにあるわけで、自分の「全能感」や「幸福感」を確認するためにあるのではない。それはむしろ病的なはたらきであり、そこから人間的な知性や感性が豊かに生まれ育ってくることはない。
「自分の人生は幸福で充実している」と思うことのその満足は、知性や感性の停滞であるともいえる。僕はそういうことを自慢げに語る宗教者を何人も知っているし、ドーキンス先生、あなたはもっとたくさん知っているはずだ。それでどうして、人生が幸福で充実したものであらねばならないかのような言い方をするのか。
人の知性や感性のはたらきの自然・本質において、そんなことは「どうでもいい」のだ。
人類の進化の歴史は、そんなことを追求して流れてきたのではないし、生き延びることに汲々としてきたのでもない。ただもう、この世界や他者が存在することの確かさに驚きときめき祝福しながら流れてきたのだ。
ひとまず遺伝子のはたらきのことを「命のはたらき」というとして、それは、生き延びるためのはたらきでもなんでもなく、この世界に「反応」してゆくはたらきなのだ。僕はそう考えている。生き延びようとするから生き延びられるのではなく、「反応」するから生き延びることができたりするのであり、それはまあたんなる「結果」のことにすぎない。
原初の生命が30数億年後のここまで生き延びてきたのは、遺伝子が生き延びようとしたからではなく、この地球環境の仕組みに生かされてきただけではないだろうか。つまり、地球環境に反応して自滅していったり、反応できなくて消えていったり、そうやって「淘汰」されてきたのであり、遺伝子というか命に生き延びようとするはたらきがあるのなら、あまりにもあっけなく、あまりにもたくさん死に過ぎる。「もう死んでもいい」という勢いがあると解釈しないことには、つじつまが合わない。「結果」として環境が生きものを生かしているだけなのだ。
進化なんてただのおっちょこちょいなのだから、たくさん死んでゆくに決まっている。しかしだからこそ、それでもなんとか生き残ることができる形質が抽出されてゆく。
たとえば、思考実験によってひとつの答えを見つけようとするなら、まずできるかぎりたくさんの答えになる可能性のあるものを挙げ、ひとつひとつつぶしてゆき、最後に残ったどうしてもつぶすことができないものが答えになる。それと同じこと、一直線に「これが答えだ」というものが見つかるはずがない。たくさんの答えになりそうなものを「淘汰」してゆくことによって、残ったそれが答えであることの証明になる。生きもの自身に、これが進化の道だ、とわかるはずがない。それは、環境世界との兼ね合いで決定されてゆく。回り道しないと、進化は起きてこない。回り道したがるおっちょこちょいでなければ、進化してゆくことはできない。

遺伝子が「生き延びるはたらきである」とか「不滅である」といってしまうことは、「霊魂とは遺伝子のことである」といっているのと同じになってしまう。死んでも霊魂だけが天国に行ったり生まれ変わったりするということと、「自己複製」しながら遺伝子だけが生き残ってゆくということは、けっきょく同じになってしまう。「宗教などなくても幸福で充実した人生を送ることができる」といってしまうことは、「宗教などなくても肥大化した自意識(自我)の充足は得られる」といっているのと同じではないか。だから、そういう言い方をされると、癇に障る。
「自己複製」するということは、「死んでゆく」ということなのだ。人は、死ぬことの恐怖と同時に、死んでゆくことの尊厳というものも意識している。
何はともあれ宗教は、人間性の自然と矛盾する。宗教は本能的に不変不滅であろうとするが、それでも人間性の自然は、宗教を少しずつ換骨奪胎しながら、やがて宗教を清算してしまうのかもしれない。そういう自然のなりゆきはあるのではないだろうか。人間性の自然は宗教とは無縁のところにある、それが人間性の自然の起源であり究極なのではないだろうか、と思う。
日本列島の仏教伝来以前に宗教などというものはなかったし、それ以後もたえず宗教を換骨奪胎してゆくという歴史を歩んできた。宗教の本質である「戒律」なんかどんどんなくなってきたし、葬式仏教だって宗教の堕落以外の何ものでもないだろう。しかしそれこそが、人間性の自然のなりゆきなのではないだろうか。
欧米には「アーミッシュ」と呼ばれるいまだに近代以前の生活様式を守り続けている人たちがいるし、イスラム圏の女性は「ブルカ」という黒いかぶりものをまとっているが、それらもいずれなくなってゆくのだろう。
宗教は、この世界のことも人の生き方も、最初から神が決めた「こうであらねばならない」という法則を勝手に決めつけ押し付けているだけで、知ろうとなんかしていない。すなわち「反応」していない。
われわれの脳のはたらきは、神を信じることができるが、神を忘れることもできる。神すなわち「神と自分との関係」を忘れて、目の前のこの世界や他者に驚きときめいてゆく。自分の中の「神と自分との関係」に執着してしまったら、自分の外の世界に対して「反応」する心はどんどん停滞衰弱してゆく。
原始人は「神と自分との関係」なんか持っていなかったし、おそらく未来の人間もそのようにして生きるのだろう。たとえそれが千年一万年先のことであろうと、たとえそんな未来が来ないとしても、とにかくそれが人としての究極のかたちであるに違いない。
日本列島の縄文・弥生時代に「神(=アニミズム)」など存在しなかった。このシリーズは、ひとまずそこから考えはじめたい。ただ、今の世の中にそんな前提で語っている歴史の書物などないわけで、ここで考えることは最初から「トンデモ説」として退けられる宿命を負っている。
それでも僕としては、そういわずにいられない止みがたい思いがある。そう考えないことには、現在の日本人の宗教に対する意識がこんなにもいかげんであることのわけの説明がつかない。
この国にはいまだに神など存在しないし、それでも神との関係を持っているかのような肥大化した自意識が育ってくる社会や時代の状況も、年々進行しつつある。神という意識はいいかげんだが、神という概念が機能していないともいえない。そこのところがやっかいでややこしい。
「宗教とは何か?」という根源の問題を考えたい。それはきっと、現在の世界のけっして小さくはない問題でもあるにちがいないわけで。