死に対する親密な感慨・神道と天皇(5)

現在の未開の民族の宗教が、そのまま原始宗教(アニミズム)であるとはいえない。それは、文明社会から伝播してきた観念のはたらきにすぎない。文明社会が持ち込んだ観念によって、彼らは宗教に目覚めたのだ。
たとえばポリネシアなどの南アジアの太平洋の中に浮かぶ小さな島々では、近代になるまでほとんど宗教らしきものは持っていなかった。なぜならそこでは、たくさんの人が一カ所に集まってきて都市国家=共同体をつくってゆくという歴史がなかったからだ。人類の宗教は、共同体の制度性(=文明)のもとで生まれ育ってきた。彼らは、大航海時代のヨーロッパからやってきた白人が見せつける文明の利器に圧倒されながら、白人の教える「救世主=神」のイメージに目覚めていった。すべての島に白人がやってきたわけではないが、その噂はたちまち周辺の島々に伝わり、そうした「どこか遠いところから『救世主=神』がやってくる」という物語が共有されていった。彼らは、そこではじめて宗教に目覚めた。
そりゃあ自然環境に対する「畏れ」は、未開の民にもある。未開の民こそより強く意識している、ともいえる。しかし、自然環境をつくった「神」を意識する観念性に目覚める契機は、彼らにはない。彼らには、自然をつくり変えたり支配したりする能力はなかったし、人が人を支配するという関係の社会の構造にもなっていなかった。彼らにとって自然環境がもっとも大きく確かな存在であり、その上のさらに大きな「自然をつくった神」などイメージしようがなかった。自然環境の恵みに対する「感謝」や、その理不尽な威力に対する「畏れ」は意識しても、その自然環境を支配しているものを意識していけるだけの契機はなかった。
人類は、自然に対してであれ、他者に対してであれ、「支配する」という関係性を持ったことによって「神=宗教」に目覚めていった。
彼らは、白人がもたらした「神=救世主」の観念によってはじめて「自然環境には神が宿っている」というイメージを持つことができた。そして、そこから「霊魂」や「生まれ変わり」の概念へと思考が発展してゆくことはもう、自然ななりゆきに違いない。自然環境に神が宿っていることこそ、いつかどこかから「神=救世主」がやってくることの証しであり、われわれは「神=救世主」とともに存在している、という自覚になってゆく。
彼らは、白人が持ち込んだ文明の利器によって、神は「万能」であり「救世主」である、ということを思い知らされたのだ。
文明は、自然をつくり変える。農業や漁業等の生産活動はひとまず自然とかかわる行為であるが、「自然をつくり変える」とか「自然を支配する」という自覚を持つほどのことではない。しかし彼らは、白人の文明と出合うことによって、そういうことをしている存在があることを知った。それを「神」というのだと知った。

そしてこの世界観の目覚めはまあ、仏教伝来のときの日本列島の住民のものと同じであったのかもしれない。そのとき日本列島は、共同体の権力による支配の構造が、しだいに形成されつつある時期だった。
仏教以前に土着の宗教があったら、仏教なんか輸入しない。大陸からやってきた侵略者にむりやり仏教を押し付けられたというのなら、そのとき神社はすべて壊されている。そして天皇家の祭祀はすべて仏教式になっていなければならない。
しかし天皇家の祭祀はずっと神道式のかたちを守ってきたし、途中から割り込んできた侵略者が神武天皇以来の歴史伝説をつくり出してもなんの説得力もない。そんな伝説をつくっても誰も信じない。それは、民衆も全員が侵略してきた渡来人と入れ替わっていなければ成り立たないし、だったらそのとき奈良盆地で日本語(やまとことば)は話されていなかったことになる。
まあ「騎馬民族征服王朝説」などありえない話だからどうでもいいのだが、そのとき日本人が仏教を輸入したということはそれまで土着の宗教がなかったことを意味するのであり、日本人が朝鮮半島まで出かけて行って仏像などを仕入れてきたのであって、朝鮮半島の人間が大挙して押しかけてきて仏像を持ち込んだのではない。
6世紀前半のそのころ、朝鮮半島の船が日本列島にやってくることなどなかった。彼らは目と鼻の先の対馬にやってくることさえなかったのであり、すべて日本人のほうが出かけて仕入れてきたのだ。日本人の船が朝鮮半島に行くことはあっても、朝鮮半島の船が対馬に来ることはなかった。対馬朝鮮半島の影響を受けているとしても、あくまでそういうかたちの関係だったのだ。目と鼻の先の対馬さえ占領できない民族が、どうして大和朝廷を滅ぼすことができるというのか。
これは、沖縄と中国大陸との関係においても同じなのだ。中国大陸の船がかんたんに沖縄にやってくることができるのなら、沖縄は薩摩の属国にされる前に、とっくに中国王朝に占領されている。
そのとき日本列島には共同体支配の基盤となる宗教がなかったから、大和朝廷のほうが朝鮮半島に出かけて仏像を仕入れてきたのだ。「神=救世主」の化身としての仏像を。
そのとき奈良盆地はたくさんの人口を抱えた共同体になりつつあったわけで、支配者たちはすでに宗教的な肥大化した自意識になっていた。
民衆を支配するためには、いつかどこかからやってくる「神=救世主」の存在を信じさせなければならない。それが、民衆を土地に縛り付ける力になる。そのときそういう宗教が、日本列島にはなかった。あったのならわざわざ仏教を輸入する必要はなかったし、あったのならそれこそがもっとも民衆を信じさせるものだったのだ。

仏教は、侵略者によって押し付けられたものではない。
そのとき日本人は、「神」というものを知らなかった。
宗教は文明という国家制度から生まれてきたのであり、現在の未開社会は、その「神=救世主」という観念が文明社会から持ち込まれることによって宗教に目覚めていった。
日本列島だって、仏教が定着していったきっかけは、「仏=救世主」という観念に引き寄せられていったことにある。そのとき金色に光り輝く銅製の仏像はひとつの文明だったのであり、人々に「救世主」の存在を信じさせた。
まあ近代以前は、いつの時代も民衆は死と背中合わせのような暮らしをしていたのであり、飢饉や疫病が広がれば何かにすがりたくなるし、それがいったん収まれば、「仏=救世主」のおかげだということが説得力になってゆく。
日本列島の仏教が本格的に民衆のあいだに広まっていったのは中世以降のことであり、それはまさしく「末法」の世に阿弥陀如来大日如来が「救世主」としてあらわれるという教えだった。そのころには権力制度の機能がすでに成熟しており、民衆の意識に「被支配者」の観念が植え込まれていた。そうなって、ようやくアニミズムではない本格的というか文明社会的な「神(仏)に支配されている」という宗教意識が生まれてくる。そうやって心の中に「神と自分との関係」を持つという自意識が芽生えてくる。
ともあれ日本列島では、仏教の仏と神道の神という二つの世界観を併せ持ちながら歴史を歩んできた。しかし、神道の神は「救世主」ではない。神道の神は何もしてくれないし、姿も現さない。基本的には、ただもう「祝福」するだけの存在としてイメージされてきた。人々は一方的に神を祝福してゆき、神もまた一方的に祝福してくる、という関係でイメージされてきた。
神道の神は、人間をつくったのでも、人間を支配する存在でもなかった。神が人間になった。昔は神ばかりの世界で、人間はいなかった。神といってもいろいろあって、高貴な神もいれば卑しい神もいる。われわれ庶民は卑しい傍流の神の子孫で、天皇は、もっとも高貴な神(=天照大神)の子孫だということになる。まあ、そのことを証明するための系譜づくりとして古事記や日本書記が生まれてきた。
人々はひとまずそういうかたちで神を信じていたわけだが、その神は「創造主」でも「救世主」でもなかった。高貴と卑賤の差はあれ、人間は誰もが神の子孫であり、その高貴な神ですらこの世界の創造の一俳優であって、監督でも作者でもなかった。古事記における神は、世界の混沌の中から現れてきたのであって、世界をつくったのではない。また神は人間になっていったのだから、人間を支配する存在にもなりえない。
まあ、いまなお神のままでいるのは天皇だけだ、と思っていた。ようするにそういうことにしていたということだが、深くそう信じてもいた。それが、神を持たない歴史を歩んできた日本人の神を信じる流儀だった。
そのとき日本人は、「創造主」とか「救世主」というものをうまくイメージすることができなかった。その「神」は、侵略者から押し付けられたものでも、自分たちの歴史の中から自然に生まれてきたものでもなく、みずから出かけていって拝借してきたものだったのだ。だから、自分たちの使い勝手のいいように工夫していった。
仏教が輸入されていったとき、民衆に広めるために、さまざまな仏教説話の物語が語られていたに違いない。そうした物語における神は、たとえば「阿修羅」のように、最初は仏に背きながらやがて仏の弟子になってゆく存在として語られており、人々はその多彩なキャラクターに魅せられていった。おそらく、そうした神々をアレンジしたり換骨奪胎しながら、古事記におけるさらに多彩な神々になっていったのだろう。

戦後の大本教のように、神道を宗教のように標榜する一派では、日本列島の神はもともと「荒ぶる神」だったのだ、と説いていたりする。まあ阿修羅などは、自分の子を食ってしまったりしてたしかに「荒ぶる神」だったわけだが、古事記においては、そういう神をそのまま取り込んだのではなく、自分たちで「神の発生」のところから系統立てて考えていったのだから、単純にそれだけですむはずもない。
スサノオヤマトタケルは「荒ぶる神」だが、それなりに人間離れした聖性というか清純なところもそなえている。
古事記は、神の「聖性」を探求する物語でもある。
「聖性」とは、人間離れしていること。共同体の制度が生まれてきて、人々は人間であることの「けがれ」をより強く意識するようになってきた。まあ人口が密集しているということがすでに「けがれ=鬱陶しさ」であり、人と人の関係がどんどんややこしいものになり、不純な側面も生まれてきた。
清純・清浄でありたくても、清純・清浄であることができない。
「聖性」は、人間であることから超出していったところにある。日本列島で最初に国家共同体の制度の中に置かれた古代の奈良盆地の人々は、そうやって古事記とともに神の聖性を造形していった。彼らは、神に「創造主」であることも「救世主」であることも求めなかった。もともと「神」の存在を知らなかった民族なのだ。それでも国家共同体の制度の下に置かれてこの生の「けがれ」深く意識するなら、この生を超出したなんらかの「聖性」に憧れてゆくのは避けがたいなりゆきだった。
神道において神が姿をあらわさないというのも、ひとつの「聖性=清浄」のかたちであるのだろう。古事記が語る最初の神々は、天地のはじめにあらわれてすぐに姿を隠してしまった。それは、「神は存在しない」といっているのと同じであり、その「存在しないもの」に導かれながら天地のかたちが出来上がっていった、ということになっている。
「存在しないもの」を想うことが、神道なのだ。
死んだら「存在しないもの」になる。そして、「存在しない」ことの尊厳を想うこと、そうやって古事記の神々が語られている。それは死者を想うことであり、死と親密な関係になってゆくことだった。
それは、宗教的な非宗教であり、非宗教的な宗教だった。
人類は、文明(=国家)の発祥とともに、生きものとしての根源であるところの「死との親密な関係」を失っていった。文明(=国家)の発祥とともに生まれてきた宗教はひとつの「生命賛歌」であり、だから「天国」や「生まれ変わり」とともに永遠に生き続けることを語るわけだが、神道の場合は、原初の「死との親密な関係」に遡行しようとするコンセプトの上に成り立っている。
そのとき日本列島の民衆は、政治家(支配者)と一緒になって新しい国づくりをしていこうとする意識はなかった。支配者がそうしたければすればいいが、われわれは「死との親密な関係」とともに浮かれ騒いでゆく「祭り」を手放すわけにはいかない。そうやって仏教の教えに逆立した「古事記」という「神」の物語をつくり上げていった。
殺すか殺されるかの権力闘争に明け暮れる支配者たちは永遠の生を語る仏教にすがっていったが、民衆にはまだそんな切迫した「死の恐怖」はなく、支配者とは逆にかつての「死との親密な関係」に遡行してゆこうとした。そのとき日本列島には、すでに宗教とは逆立するそういう文化が洗練発達していた。そこが、「救世主」を待ち望んだ近代のポリネシア諸島とは少々事情が違った。彼らにとって「永遠の生」や「救世主」を願うことは、ひとつの「けがれ」だった。そんなことはどうでもよくて、「今ここ」で浮かれ騒いでゆく「祭り」によって「みそぎ」を果たし、この生をさっぱりさせたかった。

自意識の肥大化による「けがれ」と、自意識をそぎ落とす「みそぎ」。古事記は、「けがれ」と「みそぎ」の物語なのだ。天地のはじめにあらわれた神々がすぐに姿を消していったことは、ひとつの「みそぎ」であり、物語はそこからはじまっている。
人は、「死」について考える生きものであり、それがそのまま宗教につながるとはいえない。
ネアンデルタール人は「埋葬」の習俗を持っていたが、おそらく「死後の世界」とか「生まれ変わり」というようなことは考えていなかった。ただもう親しい他者に死なれたことがかなしくてたまらなかっただけであり、そこから「死(者)の尊厳」というようなことを無意識のうちに想うようになっていったからだ。それは、宗教ではなかった。宗教など知らなくても、知能が発達し、しかも生きてあることのいたたまれなさに身もだえしながら生きていれば、自然とそんなことを想うようになってゆく。
人類史における「死の尊厳」というイメージは、宗教とともに生まれてきたのではない。死者に対する深い悲しみと愛おしさがあれば、宗教などなくても、人間性の問題として自然に育ってくる。
宗教はむしろ、「永遠の魂」とか「天国」とか「生まれ変わり」などといって死を否定しているのであり、「生命賛歌」の装置なのだ。文明人は、死との親密な関係を失って宗教を生み出した、ともいえる。
人類普遍の「死の尊厳」という感慨というか思考は、宗教から生まれてきたのではないし、それは宗教や文明以前から人の心に存在していた。
ドーキンスは、「遺伝子は個体の死の上に生き残ってゆく<利己的>な存在だから、個体は死の恐怖や悪夢に苦しまねばならない」というようなことをいっているが、死の恐怖や悪夢などは文明人の肥大化した自意識で起きていることであって、原始人にそんなネガティブで騒々しい心の動きはなかった。
現在でも、そんな悪あがきとは無縁の人はいくらでもいるし、自意識過剰の人間ほど悪あがきをする。死の恐怖とは自分が消えてなくなることに対する恐怖であり、そういう体験をして生きてこなかったから、最後の最後でそんな悪あがきをしなければならない。他者や世界にときめくということは、自分が消えてなくなる体験なのだ。自分を忘れてときめき夢中になってゆく。人の視覚が一点に焦点を結んでゆくということそれ自体が、自分が消えてなくなっている状態であり、意識はそういう喪失体験(=死との親密な関係性)を支払って一点に焦点を結んでゆくのだ。
「死の恐怖」よりも「死の尊厳」を想うことのほうがずっと人類普遍の感慨であり、その「死との親密な関係性」は、生きものとしての命のはたらきの自然と通底している。であればドーキンスは、このことをどう説明するのだろう。遺伝子のはたらきは、何も「利己的」といわなくても「死との親密な関係性」という問題設定(パラダイム)でぜんぶ説明がつくのであり、これが『利己的な遺伝子』を読んだ僕の感想だ。

この生=自分を忘れてときめいてゆくという体験、すなわち生きものとしての自然であるところの「死との親密な関係性」によって、人間的な知性や感性が育ってくる。まあ、「愛の問題だ」と言い換えてもよい。セックスは「もう死んでもいい」という勢いでするものだし、男のペニスは「もう死んでもいい」という勢いで勃起する。
自分=自意識に執着して生きているからときめきが薄くなってしまうのであり、宗教はそういう人間を育てる装置なのだ。
あるホスピスのベテラン看護師は、「宗教を信じている人ほど死に対する怖れが強い」と証言している。きっとそうだろう。あるかどうかもわからない(たぶんありもしない)天国や生まれ変わりを信じ込まないと安心して死んでゆけない人たちなのだ。彼らには、人間性の自然としての「死に対する親密な感慨」が欠落している。彼らの「生命賛歌」は、生命を「死後の世界」まで延長してゆく。そして、まさにそれによってこそ、生命や心のはたらきを停滞させてしまっている。
アメリカのキリスト教原理主義者たちも、イスラム原理主義者たちも、ユダヤ教徒たちも、ヒンズー教徒たちも、自意識の満足ばかり追いかけて、自分を忘れて他愛なく他者にときめいてゆくという人間的な体験が希薄になってしまっている。恨みがましく、他者を裁いてばかりいる。レイプや殺人は、そうやって起きてくる。「裁く」ということ自体が、すでにレイプであり殺人なのだともいえる。まあ、この国も含めてそういう人間がどんどん増えてきている時代なのかもしれないが、それは、人間的な心のはたらきが停滞してしまっていることなのだ。
心のはたらきが活性化しているのなら、「もう死んでもいい」という感慨が自然に湧いてくる。人の心は、「もう死んでもいい」という感慨とともに活性化してゆく。人類の知性や感性は、そうやって進化発展してきたのであって、生き延びようとする悪あがきによってではない。
「天国」や「生まれ変わり」を信じるなんて、生き延びようとするただの悪あがきではないか。そうやって心のはたらきが停滞してゆく。
生きてあることに感謝したりよろこんだりする必要なんか何もない。生きてあること(=自分の存在)なんか忘れて世界や他者の輝きにときめいてゆけばいいだけではないか。むやみに「生命賛歌」をしたがる宗教者には、そういうタッチが欠落している。
人間性の自然は、「死に対する親密な感慨」にある。自分の死、すなわち「自分を忘れて」世界や他者の輝きにときめいてゆくという心の動きが、人類の知性や感性を進化発展させてきた。
原初の人類は、「もう死んでもいい」という勢いで二本の足で立ち上がった。そこから人類の歴史がはじまっている。

古事記の神々なんか、かんたんに死んでしまう。それを「隠れる」という言葉で表現しているわけだが、それはもう最初にあらわれた神からすでにそうで、あらわれてたちまち隠れてしまわれた、と記述されている。イザナミの神は、火の神を生むときに性器を焼かれて死んでしまう。そんなかんたんに死なせてしまっていいのかという話だが、それは宗教なんか知らない民族の神の物語であり、「死に対する親密な感慨」の上に成り立っている物語なのだ。そうしてイザナミは何もない真っ暗闇の「黄泉の国」に旅立ってゆくわけだが、神の世界にそんな国を設定すること自体、神は不死の存在であるという、世界の宗教の常識からすればとんでもない話に違いない。
古代人にとって「神の死」は、「死の尊厳」の証明でもあった。
それは、「神が人間になった」というコンセプトによって「神の不在」を表現している。それでまあ天皇だけが今なお神であり続けているということなのだが、宗教を知らない民族でなければおそらくこういう物語はつくれないだろう。彼らは、神の存在を知っていたのではなく、神を造形していったのであり、造形することによってその存在を実感していった。
いずれにせよ、人間が造形しなければ神の存在なんか信じることはできないし、「創造主」とか「救世主」というのは古代人の趣味ではなかった。純粋な民衆の語り伝えであろう上巻はともかく、国家共同体のはじまりである中巻の神武天皇の登場はひとまず奈良盆地の救世主ということになっているわけだが、そこから先はもう国家共同体の仕組みを整えるための話にもなっている。
国家共同体は、避けがたく「救世主」としての神を生み出してしまう。そういう「共同幻想=宗教」の場になってしまう。
少なくとも古事記の上巻は、神を知らない民族が神を造形し生み出してゆく物語なのだ。
とにかく、古事記以前の日本列島に宗教などなかったのであり、そのことをここで考えてみたい。
それでもこの国では、人間性の自然としての「死(者)の尊厳」を深く想う文化は、大陸に負けないくらい洗練発達していた。だから、仏教の仏を信じるだけではすまなかったのであり、そのことを考えてみたい。この国で仏教と神道が並立しながら歴史を歩んできたことは、それほどに宗教的だったのではなく、もともと宗教など持たない民族だったことを意味する。