宗教がまとわりついてくる・神道と天皇(6)

原始人がそうかんたんに宗教(アニミズム)に目覚めるということはないし、この国の現代人のほとんどが無宗教だといっても、それでも誰もが心のどこかしらに宗教的な部分を持ってしまっている。
無宗教者が「生命賛歌」で宗教と張り合っているかぎり、宗教は安泰なのだ。宗教はもともと「生命賛歌」の装置であり、たとえ嘘八百であっても、それはそれで究極の「生命賛歌」でもある。嘘八百だから究極になりえているともいえる。
死んでゆくことが天国まで生き延びてゆくことなら、それはとてもめでたいことだろう。そこまでの「生命賛歌」は、無宗教者にはできない。
死んでゆくことは「自分」が消えてなくなってしまうことであり、この生においても、「自分」を忘れるということ、すなわち「自分」が消えてなくなってゆくことによって心は華やぎときめいてゆく。
人の心には「自分を忘れる=自分が消えてゆく」という装置がそなわっている。
豊かなときめきを体験できる人ほど、「自分」が存在することの実感なんか持てない。意識の根源において、「自分の存在」は、世界が存在するという事実から類推しているだけのこと。
われわれが実感できるのは、世界が存在するという事実だけだ。「自分」の「生命」の所在なんか、ひどくたよりない。つまり、「生命賛歌」をする根拠を持っていない。宗教者がそれができるのは、彼らが「自分と神との関係」に閉じこもって、「自分」の外の「世界」を無化してしまっているからだ。彼らは、「自分の外の世界」に対する警戒心がとても強く、「自分と神との関係」しか信じない。そうやって「自分と神との関係」という自己完結した世界に閉じこもり、「自分の外の世界」を無化してしまっているというか、鈍感になってしまっている。それはたぶん、とても不自然なことだ。彼らは、人や世界にあまり「反応」しないで、何もかも「自分と神との関係」で決着をつけてしまおうとする。まあ、そうやって「正義」を振りかざす。
アメリカのキリスト教原理主義者も、イスラム教徒も、ユダヤ教徒たちもみなそうだ。
生きものは、死を厭わない。それは、「自分」という「自己完結した世界」など持たないで、「自分の外の世界」の存在をありありと実感し、それに「反応」しながら生きているからだ。そうやって生きものの体が動き、生きるいとなみが起きている。
生きものの生きるいとなみに「生命賛歌」などはたらいていない。死を厭わずに動いてしまうから「進化」が起きる。それは、「自分の外の世界」の存在を実感しているということであって、「自分」の存在を実感しているのではない。

宗教者は自己意識の延命のためのアイテムとして宗教を信じ、無宗教者は、自分が消えてゆくときのときめきを生きている。前者は「自分=この生」の輝きを目指し、後者は、「自分=この生」を忘れてこの世界や他者の輝きにときめいている。
自分なんか輝いていなくてもいいのだ。世界が輝いていれば生きられる。自分が輝いていないことはとてもつらくかなしいことだけど、心はそのつらさとかなしみを受け入れたところから華やぎときめいてゆく。
自分を忘れて無防備になってしまえば、上手に生きることができなくなる。しかし、そのつらさとかなしみを支払って、はじめて世界の輝きに反応する知性や感性が育ってゆく。
そのつらさとかなしみを受け入れられなくなって、人は宗教に転ぶ。彼らにとってこの生は輝いていなければならないものであり、その強迫観念とともに肥大化した自意識が、神との関係を意識してゆく。
重度の身体障害者が必ず発狂するかといえば、そうともいえない。
目が見えない人は、みんな狂人か?まさか……。
人の心は、どんな不幸にも耐えることができる。そのことを想えば、「耐えられない」という言い訳はできない。どんなにみじめな人生だろうと、自分が輝いているかどうかということなどどうでもいいし、自分は輝いていなければならないという自意識=強迫観念の強い人ほど輝いていなかったりすることも多い。そのあげくに、自分が輝いていないことに打ちひしがれてしまったり、自分は輝いているはずなのに他人はわかってくれないと不平不満を募らせたりしている。
自分の命が輝いているかどうかということなどどうでもいいことで、問題は、自分にとって「世界は輝いているか」ということにある。
宗教者にとって輝いているのは神と自分ばかりで、世界は警戒すべき対象でしかない。彼らは、同じ宗教者どうしの集団で生きながら、その外の世界を激しく憎悪する。
まあ、日本人だけの社会で生きていたいと思うことだってそれと同じような心理で、ネトウヨというのか右翼原理主義者というのか、彼らもまた、知らず知らず彼らなりの「神と自分との関係」に潜り込んで、人や世界の輝きに対するときめきを失ってしまっている。その恨みがましさは、何なのだろう。彼らは、けっして日本列島の伝統の継承者ではない。

日本列島の民衆の伝統は、「政治なんかどうでもいい」という気分にある。そうやって古代人はお祭り騒ぎに熱中していった。それは、生きてあることの「けがれ」をそそぎたいという切実な感慨があったからだし、彼らにとっては政治も宗教もひとつの「けがれ」でしかなかった。つまり彼らには、今どきの右翼のような政治や宗教を必要とするほどの恨みがましい気分はなかった。どんなにこの生が生きにくいものであっても、古代においてはそうした自意識の肥大化が起きてくるような歴史風土ではなかったし、たえず「自意識の肥大化というけがれ」をそそいでいこうとして生きていた。まあ、そうやって仏教や政治支配に対して従順でありながら、その一方で神道の祭りの文化を守ろうとしていた。
神道の原型は、「祭り」の文化であり、「みそぎ」の文化なのだ。他愛なく浮かれ騒ぎながら、それはそれで彼らなりに切実な生のいとなみでもあった。
古代の律令制の「租・庸・調」などといって、民衆にとって税を徴収されたり課役を強いられたりすることは、おそらくわれわれの想像以上に苦しいことだった。それは、ほとんどもう、生きるか死ぬかのギリギリの状態に置かれる体験だったに違いない。人間というのはそういう状態を生きてしまう存在であり、その歴史とともに知能や生態を進化させてきたのだ。
古代において、生きることの苦しみやかなしみは、あたりまえのことだった。
たとえば「防人(さきもり)」として東国から九州に派遣されることは、二度と生きて戻ってこられる保証などないことだった。彼らは、そういう覚悟とともに家族と別れて旅立っていったのだ。いやそれはもう、九州の太宰府等の遠隔地に派遣される大和朝廷の役人だって同じで、古代人にとってはそんな死と背中合わせのような生存かたちがあたりまえのものだったらしく、万葉集の詩情は、そういうかなしみや苦しみの上に成り立っていた。
彼らがお祭り好きの刹那的な生き方をしていたといっても、それはそれで人としての切実な契機があった。そのかなしみや苦しみからの解放を「宗教」ではなく「祭り」に求めるのが、そのころの日本列島の住民の生きる流儀だった。それはつまり、それほどに「祭り」の文化が洗練発達していたということであり、そこから神道が生まれてきたのだ。

人や世界に対する憎悪を募らせることは、宗教原理主義だけの問題ではなく、社会の制度性に縛られたり自意識過剰になったりすることの病理でもある。
オタクは、オタクどうしの世界で固まりまどろみながら、外の世界に対する警戒心をどんどん膨らませている。それはもう、そのまま宗教者の生態なのだ。アニメにこだわろうと神にこだわろうと、同じことさ。そうやって「外部」という三次元の世界を見失っている。
現代社会は、この生は輝いていなければならない、という「生命賛歌」に強迫されてしまっている。そうやって保身術にとらわれたり、正義をカサに着て他者を裁いたり差別したりしてゆく。現代社会では、たとえ無宗教のつもりでも、知らず知らず宗教に汚染されてしまっている。
たとえ「神は妄想である」といっても、「生命賛歌」なんかくだらないといえなければ宗教批判にはなりえないし、現代人が「生命賛歌」をするということは、それだけ宗教的になってしまっているということを意味する。
古代人は「生命賛歌」などしていなかった。彼らにとって生きることはつらくかなしいことだったのであり、それを当たり前のように受け入れていたし、心はそこから華やぎときめいていった。
生きてあることなんかくだらないし、「生命賛歌」の上に成り立った正義で人を裁くことは醜い。そうやってあなたは、神の代理人になってしまっている。
たとえ国家であろうと民族であろうと、宗教と同じように「正義」という「神と自分との関係」の上に立って戦争をしている。
共同体の制度性が高度に成熟した現代社会に生きることは、宗教と無縁であることの困難さがつねに付きまとっている。
われわれは、心のどこかしらを宗教に汚染されながら心を病んだり醜くなっていったりしている。

宗教は、共同体の制度性とどこかでつながっている。もともとそれは、共同体の制度性から生まれてきたのだ。
われわれの心に宗教がまとわりついてくる。
この世の中は、きっぱりと宗教から決別する人よりも、かんたんに宗教に転んでしまう人のほうがずっと多い。欧米のキリスト教社会やユダヤ社会やイスラム社会やヒンズー社会や仏教社会ではすでにほとんどの人が宗教者であるのかもしれないが、この国のようにどちらかというと無宗教の人間のほうが多い社会では、かんたんに宗教に転んでしまうことが少なからず起きている。もともと無宗教のくせに、かんたんにスピリチュアルを信じてしまったり、オウム真理教などのさまざまなカルト宗教にあっさりと勧誘されていったり、伊勢白山道とかいう妙なオカルティストにあっけなく洗脳されたりしている。それはきっと、この社会そのものが、宗教的な構造になってしまっているからだろう。そういう空気が、蔓延してしまっている。たぶん「生命賛歌」という空気が。そして「肥大化した自意識」という空気が。
人が「生命賛歌」をしたがるのは、自分がこの世に生まれてきてしまったことに対するルサンチマンがあるからだ。
どうしてこの生が素晴らしいものであらねばならないのか。この生は愚劣だし、愚劣でいいのだ。その「嘆き」を携えて心は華やぎときめいてゆく。輝いているのは、あなたの外のこの世界であって、あなたの命ではない。
「生命賛歌」という恨みがましさ、それが問題だ。
原始人は「生命賛歌」などしていなかった。死をも厭わず二本の足で立ち上がり、地球の隅々まで拡散していった。そして日本列島では、その歴史そのままに「祭りの文化」を洗練発達させてきた。それは、「宗教など持たなかった」ということだ。

日本列島では、宗教はひとつの「けがれ」である、という思いがある。われわれが宗教的になってしまうことは憂き世で暮らすことの避けがたいなりゆきではあるが、その「けがれ」をそそぐこともしなければ生きられない。そうやって「祭りの文化」を守ってきた。「宗教」を換骨奪胎して「祭り」にしてしまうのが、日本的なメンタリティの伝統なのだ。そうやってわれわれは、正月の初詣に出かけてゆき、クリスマスやハロウィンに浮かれ騒ぐ。
中世の浄土真宗においては、「死んだら極楽浄土に行けるということなど思うな、すべてを阿弥陀如来におまかせしてひたすら念仏称名に励め」と教えた。それはつまり「極楽浄土」を想うことはひとつの「けがれ」だといっていることになり、「ひたすら天国に行けることを信じよ」というキリスト教の教えとは逆になるわけで、宗教そのものが「けがれ」である、という宗教なのだ。
能の「卒塔婆小町」は、小野小町が現世と他界のあいだをさ迷う霊となってあらわれる話だが、「鉄輪」や「四谷怪談」の嫉妬に狂った幽霊の話にしろ、日本列島では「霊魂」だってひとつの「けがれ」として認識されているのであって、「聖なる霊魂」というような話はあまり聞かない。きれいさっぱりと「消えてゆく=隠れる」ことができなければ「聖なるもの=清浄なもの」にはなりえないのだ。
「けがれ」がいけないというのではない。それはもう、人が生きてあるかぎり避けられない事態で、そこから「みそぎ」をはたしてゆくことができるかどうかが生きるいとなみの問題になる。これが原初的な神道のコンセプトで、宗教を知らない古代の日本人はそのようなかたちで宗教を模索していったわけで、それは宗教になりえない宗教だった。
宗教的な「生命賛歌」ではなく、「死との親密な関係」を持つことの、その「ときめき」という「官能性」こそが救いであり解放だった。
まあ古事記は、基本的には、神と神が「契り」を結んで神を生みまくるという話なわけで。