あきれ果てて、ものも言えない

承前

空々しい「緊急事態宣言」なんか出されても、なんのこっちゃ、という話である。

僕はすでに老人だし不健康な生き方をしてきたから、もしもコロナウイルスに感染したら、志村けんのようにあっという間に死んでしまうにちがいない。

それでも、とくに切迫感とか恐怖というようなものは湧いてこない。おそらく、感染してかはじめてうろたえるのだろう。

まあ、世の中のほとんどの人がそんなところかもしれない。それに若くて健康な人は、感染しても重篤化しないといわれているから、なお平気でいられる。

また日本列島には、死に対して親密な文化の伝統がある。だから権力者はもともと民衆の命と生活を守ろうというような心意気というか責任感など持ち合わせていないし、民衆自身も守ってもらえるとも思っていない。そもそも歴史の無意識として、自分の命を守ろうとする意欲が希薄な民族なのだ。

われわれにとって大切なのは、自分の命を守ることではなく、自分の命をどう使うかということだ。つまり、貯金なんかしない、欲しいものを買う、というようなこと。それが、人として生きものとしての本能であるらしい。

自分のお金を減らさないためには貯金をするのがいちばんであるように、自分の命を守るためには、自分の命を使わないことがいちばんだ。したがって「自分の命を守るために自分の命を使う」という本能は原理的に成り立たない。

自分の命を使うことは自分の命を消費することであり、「死んでゆく」ことだ。自分の命を使って息をしたり飯を食ったり体を動かしたりすることは、それ自体「死んでゆく」行為でもある。

「生きる」という行為は、「死んでゆく」行為なのだ。

死に対する親密な感慨がなければ、生きるという行為は成り立たない。

根源的には、「生きようとする本能」などというものは存在しない。生きることは命を消費して死んでゆく行為であり、「生きたい」ということは「死にたい」ということでもある。この生のはたらきは、死んでゆくはたらきである。それはもう、哲学的にも生物学的にもそうなのだ。

われわれがときどき「死にたい」と思ってしまうのは生きものとしての本能であり、それ自体この生の命のはたらきから生じてくる感慨にほかならない。

そりゃあ死にそうになったら多くの人があわてふためくのだけれど、それが人間性の本質だとはいえない。われわれが「生き延びたい」と願っているのは「自我」という観念であって、「命=身体」のことを想っているのではない。

身体を動かすことは身体のエネルギーを消費することであり、エネルギーが大切で貯め込もうと思うのなら身体を動かすことはできない。身体を動かすことは身体を「空っぽの空間」として扱うことであり、筋肉に貯め込んだエネルギーが大切で失くしたくないのなら、身体なんか動かせない。身体を動かすことは、身体を忘れてしまうことだ。人は足のことなど忘れて歩いているから、どこまでも歩いてゆける。そうして、足が耐えがたいほど痛くなってしまっていることに気づいて顔をゆがめ、ようやく歩くのをやめる。生きるいとなみだって、まあそのようなことだ。死ぬ直前になって、はじめて命のことを想う。

 

「生きる」といういとなみの根源は、「命」のことを忘れてしまうことの上に成り立っている。つまり人は、「自分は死んでしまうかもしれない」ということを切迫して感じることはできない、ということだ。そしてそれが確定したときに大いにうろたえる。しかしそれでも最終的には、もともと「命」のことを忘れて身体を「空っぽの空間」として扱いながら生きている存在だからその事実を受け入れることができる。心配しなくてもいいんだよ‥…ということになる。

したがってたとえコロナウイルス感染が蔓延しても、すべての人が自分の命を心配して外出を自粛するとはかぎらない。もし自粛するとすれば、自分がすでに感染して「ほかの人に移すわけにはいかない」と考えたときだ。

意識はつねに何かについての意識である……これは現象学の定理であるが、つまり「意識は二つのことを同時に意識することはできない」ということを意味する。二つのことを同時に考えているようなときでも、じつはそれぞれを交互に思い浮かべているのだ。

であれば、われわれは、自分のことと他者のことを同時に思い浮かべることはできないのであり、他者のことを思い浮かべているときは、自分のことは忘れている。言い換えれば、自分のことを忘れているときには他者のことを思い浮かべている、ということ。すなわち、自分の「命」のことを忘れて生きている存在であるわれわれは、つねに他者のことを思い浮かべて生きている存在でもある、ということだ。他者のことを思い浮かべていなければ、生きていることにならない。

人は、他者が生きていて(存在していて)くれないことには自分が生きてあることのできない存在であり、自分が生きてあるためには自分(の命)のことは忘れていなければならない……人は根源において、自分の命を他者に捧げている存在である……まあ突き詰めて考えれば、そういうことになる。

したがって、「自分の命を守るために外出を自粛してください」という要請は、人間の本質にかなっていない。自分の命なんかどうでもいい、大切なのは他者の命なのだ……人は根源においてそのようにして生きている。それはもう、倫理道徳の問題ではない。生きものとしての命のはたらきにおいてそうなのだ。

 

命のはたらきとは「エネルギーを消費する」ことであり、「死んでゆく」ことである。あの有名な『利己的な遺伝子』の著者であるリチャード・ドーキンスは、生物とは「生存機械」であるといったが、そうではない、それは「死んでゆく機械」であり、「遺伝子」だろうとそれを構成するひとつひとつの原子だろうとそれ自体では生存=存在することができずに他者の生存=存在を必要とするのであれば、根源において「利他的」なはたらきであるというべきではないだろうか。

遺伝子とはいくつかの原子が集まった分子のことをいうわけで、そのこと自体が「利他的」であることを意味している。遺伝子=分子だってそれ自体では生きられないから無数に集まって、ついには人間や猿や鳥や魚や虫や花や草木になっていった。こんなことは、小学生でもわかる理屈ではないか。

またライオンは食料となる草食動物がいないと生きられないし、すべての動物は植物が二酸化炭素を吸って酸素を吐き出してくれないと生きていられないのであり、そうやって「生物多様性」が構成されているのであれば、それはべつにドーキンスがいう「利己的な生存競争」の結果だとは僕は思わない。

ここでは詳しくは書かないが、「適者生存」というダーウィニズムおよびナイーブな生命賛歌を基礎にしたドーキンスの思考=認識は根源的原理的に間違っている、と僕は考えている。

ライオンの死は、バクテリアの生存を助けている。すべての死は、すべての他者の生を助けている。これが「生物多様性」の原理だろう。まあ、女が子を産み育てることだって、原理的にはみずからの死と引き換えに他者を生きさせる行為なのだ。

すべての生命体は「やがて死んでゆく」という前提の上に存在しているのだし、人間だって本能的無意識的なところではその前提で思考し行動している。それはもう、生命が素晴らしいとか素晴らしくないとかということとは別の問題であり、そういう事実があるというだけのことだ。

命は「利他的」なはたらきであり、生きものは自分の命を投げ捨てて(=忘れて)他者を生きさせようとする本能を持っている。つまり、個体であろうとその中の遺伝子だろうと遺伝子の中の原子であろうと、存在それ自体が「利他的」であるということ。それが、ドーキンスいうところの「生きものは<自己複製子>をつくる」ということだろう。

 

疫病が広がれば、多くの人が人間性の自然に立ち還る。あのトランプやボリス・ジョンソンでさえ立ち還るのに、この国の総理大臣をはじめとする政府官僚ばかりがなぜ立ち還れないのか。それは、この国の伝統がいかに蝕まれているかということを物語っている。もともと伝統文化として世界のどこよりも人類の原始性を洗練させてきたはずのこの国において、それがもっとも失われようとしている。まあ、「洗練度」が高いからこそ、「脆弱」だという一面も持っている。そこが、この国の文化伝統の危うさだろうか。

疫病対策の本質は、他者(=どこかのだれか)を生きさせるためのいとなみであり、もともと人は「自分が生き延びるため」という目的を切実に持てるような存在ではない。だからこんなご時世でも年寄りがらふらと花見に出かけてしまうし、サラリーマンは危険を承知で満員電車に乗って出勤することができる。何より医者や看護婦は、よく逃げ出さずにやっていられるものだと思う。彼らの献身性にこそ人間性の本質があるわけで、現在のこの国の政府官僚をはじめとするどこかの犬畜生以下の人間たちを基準にして人間性を考えることなんかできない。

命のはたらきとは死んでゆくはたらきであり、死んでゆく(=エネルギーを消費する)かたちで活性化する。この地球上の生物は、みずからの死と引き換えに他の生物を生きさせるというかたちで進化してきたのであり、そうやって現在の生物多様性が成り立っているし、そうやって人間の「献身性」が成り立っている。

われわれは今、世界でもっとも「献身性」の希薄な者たちにこの国の運営を任せている。この国はもう、滅びるしかないのかもしれない。しかし、滅びることはめでたいことで、滅びたのちに生まれ変わる。

現在のこの国は世界でもっともダメな国らしいが、滅びたのちに世界でもっとも早くポストモダンの新しい時代を迎えるのかもしれない。

まあ、滅びるほかないようなダメな国になってしまうのも、この国の歴史風土なのだ。現在の支配者たちがどれほど醜悪であろうと、戦前戦中の支配者たちだって大差なかったのだし、古代の大和朝廷の発生以来何度でも見てきた顔にちがいない。そして民衆がそれを許してしまうのも、つまりは死に対して親密な文化の歴史を歩んできたこの国の伝統であり、いいとか悪いとかということ以前の問題だ。

西洋には受難を克服しようとする文化の伝統があるのに対して、この国では受難を生きることそれ自体を洗練させてゆこうとする文化の伝統がある。

 

人は、死に対して親密な存在であるがゆえに、利己的にも利他的・献身的にもなる。

この世のすべてのことは許されるのだろうし、政治経済オンチである僕にはもう、現在の政府官僚がとっているこの事態の対策のいかがわしさがどこにあるのかということはよくわからない。ただ、底知れないほどにニヒルで冷酷な思考や態度であることは、なんとなくの直感としてわかる。彼らには、人間として生きものとしての感受性が決定的に欠落している。

無常ということ……あはれ・はかなし……すべてはゆめまぼろし……日本文化の美しい伝統には、ひとつ間違えばそういう無残で無機質な人間を生み出してしまうという側面があるらしい。まあ、ただ小ずるいだけだ、ともいえるわけだが、彼らは人間性の自然である利他性=献身性をすっかり失くしてしまっている。人の心を持っていない。人の心は環境世界によってつくられるわけだが、現在のこの国の権力社会は、人の心が生まれてくるような環境世界になっていない。この国の人の心は、民衆社会の伝統において生成しているのだが、現在のこの国の権力社会の心はあまりにも民衆社会から乖離してしまっているし、民衆社会もまた伝統が大きく蝕まれている。

こんなときに「マスク二枚でどうだ!」といってドヤ顔するなんて、気が狂っているとしか言いようがない。108兆円の事業規模だといっても、中身のないただの目くらましにすぎない。じっさいに国が支出するのはその20パーセント以下で、世界中の国でやっている個別の現金給付をしようというつもりはさらさらなく、国民なんか安っぽい精神論でごまかしてしまうことができると彼らは思っている。その卑劣さは、人格がどうの思考力がどうのという以前に、現在の権力社会は、政治家も官僚も資本家もだれもがそういう発想をしてしまうような構造になっているからだろう。総理大臣はまわりから進言されたことをうのみにしているだけで、彼にはこの程度の対策ではどうにもならないということを判断できる能力を持ち合わせていない。悪意を持った確信犯はまわりの者たちで、総理大臣自身は、悪意も愛もないただのの空っぽの「器」にすぎない。だから、こんな空疎な対策をなんの後ろめたさもなく自信たっぷりのドヤ顔で差し出すことができる。まわりの者たちからしたら、まことに使い勝手のいい「道具」なのだろう。

まあ、だれもが平穏無事に生きていられる世の中ならともかく、彼らの政策でこの非常事態を乗り切れるはずがない。いろんな意味でこの国が「焼け野が原」になって、はじめてだれもが目覚めるのだろうか。

世界中のどれほど強権的な独裁者でも、現在のこの国の権力者たちに比べたらずっと人間的だ。

 

あの総理大臣以下の現在の愚劣で醜悪極まる権力者たちのことを思い浮かべただけで、ほとほといやになってしまう。こんなこと書いていてもむなしいばかりだ。僕のような無知な人間が何を書いてもどんな情報も与えられないし、だれを説得できるわけでもない。それでもこのこと以外のことを書いてはいけないような強迫観念に責められるのは、なぜだろう。

もしかしたらそれは、われわれが今、太平洋戦争の敗戦前夜のとき以来の大きな時代の転換点に立たされている……という思いがあるからかもしれない。あのときの政府も軍も官僚たちも、愚劣で醜悪極まりなかったはずだ。

この国の権力社会は、非常事態になるといつだっていつだって愚劣で醜悪になり、民衆もそれに引きずられてしまうことになるらしい。ふだんは権力社会と民衆社会に「契約関係」がないお国柄だから、民衆社会は国家に対する要求の仕方をよく知らない。だから他愛なく引きずられてしまうし、国家もそれをいいことに民衆に忖度するということをしない。そうやって太平洋戦争のあの無残な敗戦へと雪崩のように崩れ落ちていった。

今回も、こんな場当たり的で中身のない対策ばかり繰り返していたらきっとあのときと同じ結末になるだろう、と多くの識者が指摘している。

それはそれでかまわない。滅びてゆく(=死んでゆく)ことこそこの生の本質なのだ。

ただ、僕のように社会に背を向けて生きてきた人間でも、「時代の終わり」を目撃したいという思いがある。

この国はもう、完全に「自滅」のフェーズに入っている。総理大臣をはじめとする政府や官僚や資本家たちやネトウヨの知識人や庶民などはもう冷酷な差別主義者として完全に狂ってしまっているし、ご都合主義・日和見主義のマスコミや偽善的な知識人や富裕層などもたくさんいて、それを許してしまっている時代の空気がある。

われわれはもう「こんな国、さっさと滅びてしまえ」と呪うしかないのだろうか。

疲れた……。

 

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初音ミクの日本文化論』

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