「もう死んでもいい」と思うしかないのか

ここまで世界のコロナウイルス感染が進めば、われわれ低所得者層の老人はもう、死を覚悟するしかない。最終的には人類の7割が感染し、感染した老人の3割は重篤化して死んでゆく、といわれている。ワクチンができるまでにあと2年かかり、そのあいだにウイルスは変異してさらに致死率が高くなるらしい。

しかもこの国の政府の対応は世界でもっともいい加減だから、最終的には世界でもっとも悲惨な事態になるのかもしれない。

なぜこんな愚劣で醜悪な政府が生まれてきてしまったのだろう。

ともあれ僕はもともと不用意な人間だから、感染しない、という希望なんか持つことはできない。感染するかしないか、自分に免疫力があるかどうかは、もはや自分が背負っている運命の問題だ。

僕は生き残ることができるのだろうか……?何が何でも生き延びたい、と思うべきではない。したいことはまだまだたくさんあるが、まあべつにしなければならないことだというわけではない。

もちろん、「もうじゅうぶんに生きた」とか「人生に悔いなし」というような感慨はさらさらない。しょうもない人生だったし、なんとまあ愚かなままに生きてしまったことかと、叫び出したいほどに悔やんでいる。

謙遜とか卑下したりしているのではない。この世の中には、愚かでないとわからないこともある、ということ、そういう自信はある。人間の「愚かさ」をなめてもらっては困る。愚かだからこそ、この世の中の一流の知識人に対して「それは違う、その程度のことしか考えられないのか」といいたいことがある。それをぜんぶ吐き出して死んでゆきたい。そこがまあ、なやましいところだ。

 

国家の危機のときにはナショナリズムが台頭する、とよくいわれるが、現在の政府のコロナウイルス対策は国民に支持されているのだろうか。

ナチスドイツは、ユダヤ人の富を無理やり奪って、とにもかくにもユダヤ人以外の国民の生活水準を底上げした。だから支持されたのだろうし、現在の世界の支配者たちも、ひとまず国民の生活を守ろうとがんばっている。そうやってドイツのメルケルやニューヨークのクオモ市長が支持率を上げている。それに対して現在のこの国の政府は、困窮しはじめている国民を救うための有効な対策を取っていない。こんな絶望的な状況でも、国民は政府を支持するのだろうか。政府は「それでもわれわれは許される」「保障手当なんか出さなくても国民は勝手に自粛する」と思い込んでいるらしい。たしかにそれが大和朝廷発生以来のこの国の権力社会と民衆社会の関係の伝統であるのだが、ただ現在のようにひとまず民主主義と呼ばれなおかつ高度資本主義と呼ばれる社会においては、それだけではすまない複雑なシステムがはたらいている。

こんなご時世においても、「従順」な民衆は働きに出かける。それは、経済の問題もあるが、同じくらい「人は<もう死んでもいい>という勢いで生きている」という命のはたらきの本質の問題も加わっている。生きるとはエネルギーを消費するいとなみであり、生きようとするからこそ死んでしまうかもしれないこともいとわないのだ。

現在のこの国の政府は、国民を救いたくないのか、あるいは責任を取りたくなくて逃げているだけなのか。いずれにせよ今や総理大臣以下の政府官僚なんてサイコパスばかりだ、というような状況を呈しているのだが、それでもナショナリズムが盛り上がるのだろうか。

緊急事態宣言が出されても、政府の目論見通りには外出は減っていなくて、相変わらず多くの人々が満員電車に乗って会社に出かけている。それはお金を稼がないと生きてゆけないからということだけだともいえない人間の生態の本質の問題が加わっている。

半年や一年くらいは生きてゆける貯金を持っている人はいくらでもいるし、それでも満員電車に乗るのは、自分の命を切迫して考えていないからだろう。これによって明らかになったのは、人は自分の命を切迫して考えながら生きているわけではない、ということだ。

だから、休業補償のともなわない空疎な緊急事態宣言を出してもあまり効果はないし、おそらくナショナリズムが盛り上がることもない。多くの国民は、国のことなど当てにしていない。今のところ国よりも会社に従うし、それは、自分の命のことなんか切迫して考えていない、ということだ。死に近い存在である老人でさえも、のんきに花見や巣鴨の地蔵通りに出かけて行ってしまう。いや、老人だからこそそういう行動をとってしまう。人は歳を取ればとるほど本能的になってゆくわけで、たしか孔子もそのようなことをいっていた。

 

生きものに、自己保存の本能なんかはたらいていない。命のはたらきとはエネルギーを消費して自滅してゆくことによって命を成り立たせるとういう、そういういわば利他的なはたらきなのだ。命のはたらきは、自滅してゆくことによってみずからの身体を生きさせる。命にとってはみずからの身体だって「他者」なのだ。

生きものは、「もう死んでもいい」という勢いでセックスをして子を産み育てる。命はもともとそういう「利他的」なはたらきだから生きものは集団になるのだし、またそれぞれの集団が勝手に自滅してゆくかたちで生成しているから、生物多様性ということにもなる。人間の生態だって根源においてはそれぞれが「利他的」であることによって集団を形成しているのだし、日本列島にはことのほかそうした原始的な集団性の文化を洗練させてきた伝統がある。

会社に行って金を稼ぐことはひとまず社会の経済活動に参加していることであり、本質的生態学的には自分が生きるためというより他者を生きさせるいとなみなのだ。自分の命が大事なら、だれもこんなときに満員電車に揺られて会社になんか行かない。無意識のところでは、みんな死ぬことを覚悟している。人間として生きものとして、「もう死んでもいい」という勢いを持っている。

政府が何もしてくれないのだから、みんな命がけで外に出て働くしかない。感染の事態がさらに悪化したとしても、外出した者たちの責任ではない。彼らだって、罹患することを覚悟で社会のため家族のため他者のために働きに出ているのだし、医者や看護婦ならなおさらに「もう死んでもいい」という覚悟がなければ逃げ出さないでいられるはずがない。まあ、そういう勢いとともに人類の歴史は進化発展してきたのだ。

 

経済的にも衛生的にも安全なところにいる政府や官僚たちは、今やもう、自分たちの立場を守るために多くの国民を殺しにかかっている。彼らのコロナ対応がいかに愚劣で悪辣であるかをこと細かに語る能力なんか僕にはないが、それを受け入れ許してしまっている国民も一定数いるのが現在この国の状況なのだろうし、そういう状況を生み出してしまう歴史風土がある。

とりあえず今年いっぱいは衆議院を解散して選挙をすることなどないのだろうし、この政府に支配され続けることになる。彼らはもうわれわれを殺しにかかっているのだから、あきらめてというか途方に暮れながら覚悟を決めるしかない。

現在のこの世の中には、自粛したくてもできない人や、自粛を余儀なくされながら収入の道が途絶えて途方に暮れている人がたくさんいる。そういう「どこかのだれか」という他者=国民に思いをいたすこともなく、優雅に自宅のソファでくつろぎながら紅茶をすすったり犬を抱き上げたりしている動画をこれ見よがしにSNSの動画に挙げていたあの総理大臣の無神経な思考と態度には、心底むかむかする。彼は利用されているだけだという意見もあるが、利用されるままに嘘をつきまくりながらのうのうとその地位に居座っているというそのことが極悪非道なのだ。ハンナ・アーレントは「凡庸な悪」といったが、ときには凡庸な小ずるさほど残酷な心もないのかもしれない。

ここまでくればもう、こんな国など滅びてしまえばいい、と思えてくるし、日本列島には、そういう思いが募ってくるような歴史風土=伝統がある。

「許す」ことは「幻滅する」ことだ。「幻滅する」ことは「やさしさ=愛」でもある。「やさしさ=愛」は「思考停止」である。そうやって人は他者を許しているのであり、男と女の関係もつまるところそうやって成り立っているのではないだろうか。

文明社会を覆う制度的な観念(日常=穢れ=ケ)から解き放たれて生きものとしての本能(非日常=禊ぎ=ハレ)に遡行してゆく……そうやって人はセックスをしているのであり、それが日本列島の民衆社会の伝統的な無意識(=集団性)としての「祭りの賑わい」でもある。そこにこそ人類普遍の人間性があり、そこから真に人間的で豊かな感受性や心映えが育ってくる。

人類の関係性や集団性は「非日常=ハレ」の心を共有しながら活性化してゆくのであり、世界中のどの地域においてもそこから「伝統」が生まれ育ってきた。そしてそれはたんなるポピュリズムというようなことではなく、もっとも高度な「知性」のはたらきだって、「非日常=ハレ」の世界に超出してゆくことができる思考のことをいうのだ。

人類の伝統としての「歴史の無意識」であれ、高度な知性であれ、愚かな民衆社会の集団性を基礎にして生まれ育ってくるのであって、凡庸でさかしらな政治家や資本家やインテリの観念的思考の中に宿っているのではない。

「非日常=ハレ」の心を持っていなければ、人としてのセックスアピールも知性もない。

 

人の心は、「非日常=ハレ」の世界にあこがれている。

こんなにも嘘ばかりつきたおす現在の政府や官僚をわれわれ民衆はなぜ許してしまうのかといえば、嘘もまた「非日常=ハレ」の世界だからかもしれない。嘘を抱きすくめてしまうのは人間の性(さが)のようなものだし、日本文化にはことにそうした要素がある。

安倍晋三麻生太郎にセックスアピールなんかあるはずもなく醜悪なだけだが、それでも人の心は「嘘=非日常=ハレ」の世界にまどろむように彼らを許してしまう。まあ嘘をつかない安倍晋三麻生太郎なんか、なお醜悪でみすぼらしいだけだろう。嘘こそが、彼らの支配のための武器なのだ。

とはいえ、こんな嘘ばかりの政治はそろそろやめにしていただきたいものだと思う。世界に対して恥さらしだし、今回のような疫病禍の事態においては、少なからず他国に迷惑をかけてしまう。また、嘘を糊塗しようとして、他国との外交交渉で足元を見られていいように転がされてしまうことにもなる。

公文書を改竄するとか、統計をごまかして景気が良くなってきているように見せかけるとか、史上最大規模の財政出動のコロナ対策だと大見得を切るとか、彼らにとっては現実を取りつくろうためのただのごまかしでも、聞かされる民衆はその嘘の「非日常性」を抱きすくめてしまう。まあ、結婚詐欺師の嘘と何も変わらないのだから、民衆もそろそろ目覚めてもいいころかもしれない。

現在のこの国の政治状況は、傷口が放置されたまま膿が出まくっているような事態なのだろう。

ここまでくれば、あの政府が垂れ流す嘘にまどろんでいた人々の意識もようやく変わってきて新しい時代(=ルネッサンス)がやってくのだろうか。

すでに新しい時代の新しい意識に目覚めている人は一定数いるはずだ。そしてそれは、今までにはないまったく新しい意識になることではない。人類普遍の人間性=集団性を取り戻す、というだけのことだ。すなわち、ただ他愛なくときめき合い助け合う関係になろうとすること、それだけのことだ。

この非常事態の最前線に立っている医者や看護士は、みずからの死を賭してがんばっている。われわれは、そのことを想わねばならない。そして、世界中の死にそうな人々に対して「どうか生き残ってくれ」と願わねばならない。さらには、この国の政府や官僚がいかに醜悪かということに気づかねばならない。その向こうに「新しい時代」がある。

 

この事態が長引けば新自由主義膨張主義的な社会経済の構造が変わってくる、といわれているわけだが、そうなれば人々の意識も避けがたく同じではいられなくなってくる。もちろん既得権益者たちの多くはぎりぎりまでその流れを押し返そうとするだろうが、民衆の側はあんがいスムーズに順応してゆくにちがいない。難しいことじゃない。「もう死んでもいい」という勢いで他愛なくときめき合い助け合ってゆくこと、そういう人類普遍の伝統に還ればいいだけのことだ。人類の民衆社会にはそういう「原始性」が残っている。

まあヨーロッパは国の人口が半分になってしまうような疫病(=ペスト)を体験したという歴史を持っているから、現在はこの国以上に民衆どうしが助け合っている。しかしこの国の民衆社会だって、江戸時代以前は世界のどこよりも村で完結した自治運営のシステムを持っており、それが疫病の広範囲の蔓延を防いだともいわれている。それに、他愛なく新しいものに飛びついてゆくこと、すなわち「進取の気性」の伝統があるから、いざ目の前に「新しい時代」の空気が漂ってくれば、かんたんにそれまでのことを忘れてしまう。

まあこの国の権力社会はもともと民衆社会の意識と大きく乖離しているのだが、ひとまず民主的選挙制度の世の中だから、民衆の意識が変われば権力社会だって変わらざるを得なくなる。現在の彼らが民衆を無視して政治をしているのは、民衆の意識もまた他愛なく戦後の高度経済成長によって形成された新自由主義的拝金主義的近代合理主義的な社会システムに洗脳されてしまっているし、嘘の世界にまどろんでいたいという怠惰で横着な心性の伝統も持っている。

とはいえ明治維新にしても、民衆社会の「ええじゃないか騒動」や「おかげ参り」等々のムーブメントの盛り上がりに押し上げられながら起きてきたことだったわけで、民衆社会の「祭りの賑わい」のような「盛り上がり」があれば時代は変わる。

この国の権力社会は、大和朝廷の発生以来もともと自立的主体的な存在ではなく、天皇と民衆社会のあいだに寄生するようにして存在してきたわけで、明治維新の幕府対薩長の戦いだって、けっきょく天皇に寄生していったほうが勝利したのだし、そのとき彼らは天皇に寄生することによって戦争の士気が増大することを実感したにちがいない。そしてそれは、民衆を支配する力を手に入れることでもあった。

われわれは天皇を権力者の手から取り戻さねばならない。われわれは今、明治以来の大日本帝国に先祖返りするか、新しい時代に漕ぎ出すかの岐路に立っている。

これはたぶん、天皇制の問題でもあるのだ。

ただ、この国の伝統=歴史風土のことを考えれば、天皇制を失くせばいいという議論は差し当たって成り立たない。天皇に責任はない。天皇は「神」ではない。それが天皇という存在の本質であり、絶対的な「法」によって人を支配する「神=ゴッド」を持たない歴史を歩んできた日本列島の民衆社会は、他愛なくときめき合い助け合いながらなんとなくの「なりゆき」で社会を運営してゆくためのよりどころとして、さしあたって「神=ゴッド」ではないところの「かみ=天皇」を「祭りの賑わい」とともにみんなして祀り上げていった。「神ではない」ことが、天皇が「かみ」であること証しなのだ。

「かみ」は「人間」であり、「人間」が「かみ」になる。「かみ」を漢字で書けば「上」であり、古代の大和朝廷発生以前の時代のことを「上代(じょうだい=かみよ)」という。すなわち古代の人々は、昔の時代ことを「かみのよ」といった。それが人間の世の中だったことは当然だが、「かみの代」は「神の代」と記すこともできるのであり、そうやって「古事記」という神話が生まれてきた。

したがって、戦後の天皇による「人間宣言」はまさに天皇ほんらいの姿に戻ることだったのであり、民衆はそのことに何の違和感も持たなかった。そしてそれは、天皇を民衆の手に取り戻すことだった。

なのに今また、戦前の大日本帝国に逆戻りしようとしている。

明治以来、天皇が右翼思想の玩具にされてきたことが問題なのだ。大和朝廷発生以前の天皇は、民衆社会が他愛なくときめき合い助け合うためのよりどころとして生まれてきたのであり、その原点を改めて問うてみることは無駄ではないのではないだろうか。

 

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