鬱の時代23・夢を持ちなさい、だってさ。大きなお世話だ

今や「鬱」というのは時代の気分で、世代を問わない。若者も、働き盛りの中年男も更年期の主婦も、お迎えを待っている老人たちも、誰もが明日はそんなところに落ちてしまうかもしれない身だ。
「夢を持ちなさい」という。そんなふうに人生の目的をつくってしまったら、挫折しても夢=目的が叶っても、もうその先は生きていてもしょうがない人生になってしまう。
 人間の生きようとする夢は、必ずいつか挫折する。
 現代人は、「夢や希望」とか「人生の目的」とか、そんなものをスローガンにして生きているのだが、じつはそのスローガンこそ鬱を生み出す元凶ではないのか。
 東大に入ることだけが人生の目的で生きてきてめでたく合格し、そのあと鬱になってしまう若者もいる。そりゃあ、そうだろう。彼にはもう、生きる張り合いがない
「次の目標をつくりなさい」だって?。そんなことばかりして生きているから、いつか引き返せない鬱になってしまったりするのだ。生きてゆけば、最後の最後で、もう「次の目標」をつくれなくなる。そのとき、どうするのか。天国や極楽浄土があります、というのか。それもけっこうだけど、天国や極楽浄土は、けっして生きてあることの目標にはなれない。さっさと死んでしまうための切り札にはなるが。
つまり、「目標をつくれ」と迫ってくる社会だから、いざとなると死が目標になってさっさと死んでしまいたくなるのだ。
「夢や希望を持ちなさい」だなんて、あなたたちは、どうしてそんなふうに人を強迫するような言い方ばかりするのか。あなたたちがそうやって人を強迫することばかりいっている社会だから、燃え尽きて鬱になったり、取り返しがつかないほどの挫折感を味わってしまう人間が生まれてくるのだ。
人生の目的をつくれない人間は、生きてゆくことができないのか。夢や希望を持っている人間しか生きていてはいけないのか。
人生の目的をつくれない人間が「もう生きてゆけない」と思うのは、そんな人間は生きている資格がないし生きていられるはずがない、とみんなして決めてかかっている世の中だからだ。
人生の目的なんかなくても人間は生きられるものだし、なくてもかまわない、という合意があれば、彼らだって追いつめられなくてもすむ。追いつめられさえしなければ、人生の目的なんかなくても人は生きていられる。もともと人間の体や心は、そのようにできている。腹が減ったら飯を食おうとし、世界や他者に他愛なくときめいてゆくことができるのなら、人生の目的なんかなくても人は生きられる。「今ここ」の他愛ないときめきや動物的身体的衝動があれば、生きられる。
生きものに、生きようとする衝動なんかない。生きてゆくように仕向けられる体や心の構造を持っているだけのこと。
心は、「こんなところにいられない」と「今ここ」からせめたてられる。そのたどりついた未来に何が待ち構えているからわからないし、べつにそれでもかまわない。人間なんて、そのていどの生きものではないだろうか。未来のことなんかわからないまま生きているからこそ、新しい事物や人と出会うときめきも生まれてくる。
この国の古代以前の人びとが「死んだら何もない<黄泉の国>に行くだけだ」という生命観を持っていたということは、未来のことなんかあれこれ考えるな、夢や希望なんかどうでもいい、という態度で生きていたことを意味する。われわれは、そういう歴史の水脈を身にしみこませて現在を生きてある。だから、「目標や夢や希望を持て」と強迫されることに、ときに耐えがたくなってしまうのだ。
社会が、人生の目的を持っていない人間を許さないから、追いつめられている気持ちになってしまう。そのようにして、われわれの一挙手一投足が監視され強迫されている。
日本列島の歴史の水脈として流れている「無常観」は、人生の目的を持てない人間を生み出す。つまり、目的に到達したり挫折したりしたとき、ふと日本人になって「無常」を感じてしまう。
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「死んでお詫びをする」という。死ぬことが、ふと怖くなくなってしまう瞬間がある。それは、取り返しがつかない過ちを犯してしまった、と思ったときだ。死ねば、みんな許される。
自分が生まれてきたことは取り返しのつかない過ちだ、と思えるなら、そりゃあ太宰治のように死への情熱も生まれてくるだろう。
鬱病の患者は、死にたいのではない。自分の中の死への情熱と戦いながら、生きようとしている。しかし、お前のような人間が生きていることは取り返しのつかない過ちだ、と追いつめてくる社会の合意がある。みんなのように人生の目的を持っている人間でなければ生きていてはいけない社会であれば、もう死を選択するしかない。
「人生の目的を持ちなさい」と諭すことは、それを持てない人に、「おまえなんか死んでしまえ」といっているのと同じなのだ。そのようにして彼らは追いつめられている。「おまえなんか死んでしまえ」という声に、どうしても抗することができなくなってしまう瞬間がある。
どこかから、「おまえなんか死んでしまえ」という声が聞こえてくる……そのとき意識は、みずからの身体に向いてしまう。そこで、その意識を身体から引きはがして、世界や他者に向かって開いてゆこうとする。開いてゆかなければ、生きられない。なのにすぐまた、「おまえなんか死んでしまえ」という声によって、身体に向けられてしまう。それでもさらに引きはがして、世界や他者に向かって開いてゆく。その繰り返しの果てに、疲れ果ててゆく。彼はまるで、あの「シジフォスの神話」のようなことをしている。神の罰として、大きな岩を山の上まで転がし上げてゆき、そこで手を離すとその岩がふもとまで転げ落ち、それをまた山の上に転がし上げてゆく、ということを永遠に繰り返している。
なんにせよ生きていることは、身体に張り付いてしまう意識をたえず引きはがして世界に向かって開いてゆくいとなみであるのだろうが、それがギクシャクした「苦役」になってしまっているところに生きることの困難さがある。
腹が減ったら、意識は身体に貼り付き、うっとうしいと感じる。それを引きはがすために、食い物という世界に向かって開いてゆく。息苦しい、という身体に貼り付いた意識は、空気という世界に向かって開いてゆくことによって、身体から引きはがされる。しかし彼は、こんないとなみが、とてもギクシャクした「苦役」になってしまっている。
「苦役」にしてしまっているのは、いったい誰なんだ。
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彼らがどんなに死にたいと思っても、とりあえずまだ生きているのだ。
彼らはまだ、意識を身体から引きはがして世界や他者にときめいてゆく、ということをあえぎあえぎ続けている。それは、彼らが生きたいからではなく、人間の体も心もそういう仕組みになっているからだ。そして、生きていたい、生きていなければ、と思った瞬間にそれは、死にたいという思いに反転してしまう。
なぜなら彼には、生きていたいと思ってもいい資格を持っていないからだ。この社会では、自分の人生や命の価値を信じているものしか生きていてはいけないのだ。
人間は生きようとする存在であり、母は子を生きさせようとする本能的な衝動を持っている……そういう前提で「倫理」だの「罪責」が問われる社会であれば、人生や命の価値を信じられないことは、この社会で生きてある資格を喪失することなのだ。
「生きものは生きようとする本能を持っている」なんて、科学でもなんでもなく、ただの共同幻想なのだ。
「今ここ」で死んでしまってもしょうがないのだ。生きものは、そういう存在なのだ。命とは、死んでしまうかもしれないものだ。死んでしまわない命などない。死んでしまうことは受け入れるしかない。「今ここ」で死んでしまうかもしれないのだ。古代人はその運命を受け入れて「死んだら<黄泉の国>に行く」といった。彼らは、「今ここ」でこの生に決着を付けようとして生きていた。そういう歴史の水脈が、われわれの中に流れている。
夢や希望を持たなければならないのではない。夢や希望を持って生きていられる社会が理想であるのではない。夢や希望を持てない「嘆き」それ自体を生きられる社会であれば、とわれわれは願っている。
われわれは、夢や希望を持てない「あはれ」や「はかなし」に美を見出してきた民族なのだ。生きていれば、誰もがいつかどこかでそういう歴史の水脈に浸されてしまう。
いや、アメリカ人だろうとフランス人だろうと、人間なら誰だってどこかしらでそういう「嘆き」とともに生きてあるのだ。
なのにそのとき、「夢や希望を持ちなさい」とか「生きものには生きようとする本能がはたらいている」と合唱している現在の社会的合意(共同幻想)が迫ってきて、彼らを身動きできないところまで追いつめてしまう。
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まあ、アメリカ人やフランス人は、死んだら天国にいけるということをわりと素直に信じてしまうことのできる風土がある。
この国でも、けっこうすんなりと極楽浄土を信じることができる時代があったのかもしれない。
しかし、いまやもうそんな時代ではない。アメリカやフランスには今なお残っていて、なぜこの国ではそんな信心が消えてしまったのか。おそらく、それがもともとこの国の土着の信仰ではなかったし、そんな信心がしんそこ根付くような文化風土になっていないからだろう。
この国では、もともと「死んだら<黄泉の国>に行く」いっていたのであり、極楽浄土の信仰が広まった後世においても、「あはれ」とか「はかなし」とか「わび」とか「さび」といった美意識の世界観で生きてきたのだ。
だから浄土真宗などでは「極楽浄土の行きたいと思ってはいけない、そんなことはぜんぶ阿弥陀如来におまかせするだけだ」といったりする。彼らは、極楽浄土を信じていない。阿弥陀如来を信じているだけだ。「黄泉の国」の伝統(=無意識)を持ってしまっているこの国の浄土信仰は、そういうややこしいものになるほかなかった。
おそらくそういう歴史風土だから、極楽浄土も天国の信仰も完全には根付かせることができなかったのであり、さらには生きてあることの「嘆き」を止揚する文化の国だから、現代の「鬱」がよりやっかいなものになってしまっているのだろう。
われわれは、もともと夢や希望では生きてゆけない民族なのだ。その代わり、「今ここ」の出会いのときめきを止揚して生きてきた。それはもう、縄文時代から現在の「かわいい」の文化まで、ずっとそうだったのだ。