鬱の時代22・この生の根源
自費出版のことで横道に逸れてしまいましたが、鬱のことにもう少しこだわってみるつもりです。
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けっきょく、命の価値だの人生の夢や希望だのとばかりいっている社会だから、人を鬱へと追い込んでしまうのだろうと思う。
夢や希望のない人間は生きていてはいけないのか。自分の命なんてなんの値打ちもない、と思っている人間だって、生きていたいと思うし、生きていたっていいだろう。
人が生きているのは、命に価値があると思うからでも、夢や希望があるからでもない。
生きものは、生きてあることのできる身体のシステムを持っている。植物人間の状態になっても、まだそのシステムは保たれている。そして心は、そのシステムにしたがおうとする。
腹が減るのは身体のシステムであり、そのシステムにしたがうかたちで飯を食おうとする欲求が生まれてくる。根源的には、生きてゆこうとする衝動などなくても、生きてゆくようにできているのだ。
心は、身体のシステムにしたがおうとする。
自殺するのは、身体のシステムを裏切る行為である。それはおそらく、意識の根源的なはたらきではない。
身体のシステムは、みずからを消去してゆくことにある。息苦しくなれば、息苦しさを消去するために息を吸う。これが基本だ。飯を食うのも、空腹になったうっとうしい身体を消去することだ。そして意識は、それにしたがって、身体のことを忘れてしまう。身体のことを忘れてしまうのが、身体のシステムにしたがう意識のはたらきである。
意識は、みずからを消去しようとする身体のシステムにしたがって、身体のことを忘れてしまうときに「生きた心地」を覚える。
意識は、身体のシステムにしたがって、身体を消去しようとする衝動として発生する。根源的には、身体を消去しようとするはたらきである。それは、「生きようとする衝動」ではない。「消えようとする衝動」なのだ。生きものの根源的な身体のシステムにも意識のはたらきにも、「生きようとする衝動=本能」などというものははたらいていない。
すなわちわれわれは、生きものとしての根源においては、「夢や希望」などというもので生きているのではない、ということだ。「夢や希望」をつむいで生きているというのは、観念の働きとしての釈迦の制度性であり、その「この生の根源」とは逆立した社会的合意が、ときに「抑圧」となって「鬱」を引き起こす。
この社会から逸れていったり落ちこぼれたりしたものは、不可避的に、「この生の根源」と出会ってしまう。そうやって生まれたばかりの子供のような無力な状態でこの社会に置かれてしまったものにとって、人は「夢や希望」をつむいで生きているという社会的合意は、出口のない抑圧として機能している。
彼にとっては、「一寸先は闇」ということこそ救いなのである。
つまり生きものは、未来への「夢や希望」ではなく、「今ここ」においてこの生に決着をつけてしまおうとしている、ということだ。それが「消えようとする衝動」であり、それによってこそ「今ここ」の「生きた心地」がもたらされている。
まあ、「生きものには生きようとする<本能>が働いている」とかなんとかいっているあの連中にはわからないだろうな。
「本能」などというものはない。そんなものはこの社会の制度性にすぎない。そんなものがこの生の根源にはたらいているのなら、この社会になじめないわれわれが追いつめられることもない。
「鬱」は、われわれのうちがわから起こってくるわれわれの「本性」でも「人格」でもない。それは、この生の根源に触れてしまったものに対する「抑圧」という「環境」にほかならない。
「本性」や「人格」が「鬱」であるのではない。「本性」や「人格」が抑圧されることを「鬱」という。
「夢や希望」とか「生きようとする本能」とか、そんなことばかり語りたがる社会であれば、「この生の根源」に触れてしまったものはもう、この社会からきつく「抑圧」されなければならない。
そんなものは見ないで「夢や希望」をつむいで生きてゆきなさい、といわれても、この社会に違和感を抱いたり落ちこぼれたり死にそうになったりしているものたちはもう、不可避的に「消えようとする衝動」としての「この生の根源」に触れてしまうのだ。
「この生の根源」は、この社会にジャストフィットして「夢」とか「希望」とか「本能」とか「未来」などとのうてんきなことばかりいっているやつらが知っているのではない。
おまえら、「この生の根源」といいながら、「社会の制度性」を語っているだけじゃないか。