鬱の時代30・悲憤慷慨

「服は切実に<服>なのである」と誰かがいっていた。
衣装について僕がいいたかったことも、こういうことなのだ。
吉本隆明さん、あなたにこのことの意味がわかりますか。
30年前ころ、吉本氏は「海燕」という文芸雑誌に「ファッション論」という批評文を発表した。そこで彼は、「裸は究極の衣装である」といっていた。
この一文が、僕はどうしても納得できなかった。自分がもっとも尊敬している人のいったことだから、たまらなかった。
手紙を出した。「裸から逸脱することによってはじめて衣装になったのです。衣装は永遠に裸ではないものとして存在するのです」と。
その衣装と裸との「裂け目」は、吉本氏のごときのうてんきなナルシストには永遠に見えない。見えないまま死んでゆけばいいさ。
衣装は、人類が二本の足で立ち上がったことの「いたたまれなさ」を鎮め、そこからカタルシスを汲み上げてゆく機能として生まれ育ってきた。
まあ、その批評文にはほかにもいろいろ癇に障ることが書いてあった。
べつに吉本氏に対するねたみなんか何もなかった。僕はまだ若造だったし、べつにねたまなきゃならないほどみじめな暮らしもしていなかった。
ただ、どうしようもなく自分が追いつめられれ息苦しくなっているのを感じた。つまり、吉本隆明というカリスマの人間理解の底の浅さに腹が立つと同時に、ああ俺ってマイナーだな、とも思った。なにしろ相手はカリスマなのだから、そのまわりにたくさんの共感する人たちがいるわけで、そういう世界に対する圧迫感と反感だった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
僕には、社会を変革したいという趣味はない。
社会なんか、なるようになって動いてゆくものだし、それでいいと思っている。それでこの国が滅びるのなら、それも仕方ない。
自分だってもうすぐ滅んでゆくのだし、みんないずれは滅んでしまうのだ。
人間はほんらい、どんなに貧しくても弱くても生きてゆけるようにできている、と思っている。そのために社会が存在するのだろうし、飢え死にしてゆく人が最後まで気が狂わないという事実は重く偉大だ。このことは、人間が「下部構造=経済」すなわち食い物のためだけに生きている存在ではないことを意味している。いや、人間でなくても、飢えで気が狂うということなんかないのだ。
マルクスの「下部構造決定論」なんて、まやかしだ。
人間は、それだけですむ生きものではないし、それがなければ気が狂うのでもない。
仕事という経済活動で気が狂う人間なんかめったにいない、たいていは人間関係でおかしくなってしまうのだ。
大きくなりすぎた野鼠の群れが集団ヒステリーを起こして暴走し、次から次へと崖から海に墜落してゆくのは、餓えたからではない、他の個体と体をぶつけ合って行動しなければならないそのうっとうしさに耐え切れなくなったからだ。
生きものは生きようとする衝動(本能)で生きているのではない、「消えてゆく」カタルシス(浄化作用)が生きものを生かしている。もし「本能」なるものがあるとすれば、それは、生きようとする衝動ではなく、「消えてゆく」カタルシスを汲み上げようとする衝動なのだ。
意識が自分(の身体)に張り付いてはがれなくなると、生きものは錯乱する。すなわち生きものは、意識を自分(の身体)に張り付かせて生きようとする意識によって生きているのではない、意識を自分(の身体)からひきはがして世界に向けてゆくことによって生きてあるのだ。
生きものは、意識を自分(の身体)から引きはがそうとする衝動を持っている。
人が餓えても気が狂わないのは、根源において身体を消去してゆく心の動きを持っているからだ。身体を止揚して生きようとする経済活動を本能として生きている存在であるのなら、あっという間に気が狂ってしまうだろう。
衣装は、根源的には、身体を消去する道具である。したがって衣装の究極が裸(=身体)になることは、永久にない。身体が消えてゆくカタルシスの上に、衣装の根源的な機能が成り立っている。
「服は切実に<服>なのである」。
マルクス先生、生きることは、身体を止揚する「経済活動」ではないのですよ。吉本隆明氏の「衣装の究極は裸である」という言説も、まあそういう「下部構造決定論」なのだ。
まったく、内田樹先生にしろ吉本さんにしろ、ドンくさい運動オンチやナルシストのインポ野郎ほど、身体を止揚したがる。下部構造決定論にいかれていやがる。
西洋の女の衣装がときに身体を強調するようなデザインになりがちなのは、多少は挑発してやらないと男のちんちんがちゃんと勃起しない社会だからだ。まあ、吉本さんも内田先生も、挑発してもらわないとちゃんと勃起できない類の人種なのだろう。
ペニスは、自分の意志では硬くならない。なるなら、自分の意志で自然を支配しようとする傾向の強い西洋人ほど硬いペニスの持ち主でなければならない。しかし現実は逆で、自然に身をまかせて意志の弱い日本人のペニスのほうが硬い。
ペニスは、みずからの身体に対する意識を引きはがして他者の身体にときめいてゆくことによって硬くなる。
みずからの身体を消去してゆく意識こそ、「生きられる意識」なのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「悲憤慷慨」はやっぱりあると思う。
敬意を表することだけが人間のたしなみではないと思う。
人間を生きさせる感情としての「怒り」はあると思う。それは、捨てないで大切にしておくのもありだと思う。
それは、自分をかなぐり捨てる、ということだ。フェティッシュに自分をまさぐっているよりずっと健康な感情だと思う。
怒りは、意識を身体から引きはがす作用を持っている。その勢いで、人は殴りかかる。
身体が動くことは、意識が空間に向かってはたらいてゆくことであって、身体を意識することではない。身体を意識するぶんだけ、動きはぎこちなくなる。
たとえば、手を伸ばしてコップをつかむことは、意識がコップに向かってゆくことであって、普通われわれは手のことなんか何も意識していない。
ピアニストは、鍵盤を意識しているのであって、手を意識しているのではない。
腹が減ったら怒りっぽくなる。怒りによって、意識を身体から引きはがそうとするからだ。
獲物を狙うライオンは、怒っている。空腹のうっとうしさが怒らせている。そのうっとうしい意識を引きはがして、獲物に向かっている。怒りが、ダイナミックに引きはがしてくれる。その勢いで、つかみかかる。
怒りとは、意識を身体から引きはがそうとする衝動である。
人は、仲のよい他者と一緒にいるとき、意識が他者に向いて、意識がみずからの身体に張り付いてしまうことから免れることができている。しかし、仲が悪くなれば、意識はみずからの身体に戻され張り付いてしまう。その居心地の悪さを引きはがそうとして、怒りになる。
悲憤慷慨とは、世界と和解できない意識であり、孤立感である。そこにおいて、意識がみずからの身体に張り付く居心地の悪さが発生し、怒りになる。
仲良しがまわりにいたら、悲憤慷慨なんか起きてこない。まあ、いようといまいと、人は、たった一人でこの世界と向き合っているような心地になる。そういう心地になって世界と和解できないことを感じたとき、意識を自分(の身体)から引きはがそうとして怒りがわいてくる。
覚醒剤は、意識を身体から引きはがす薬である。だから、どんなに疲れていても身体のことを忘れて働き続けることができる。また意識が身体に張り付いているうっとうしさを体験しないで外に向かってはたらき続けるために、外に向かう意識が過剰になって幻覚を見るようになる。そこでは意識が自分(の身体)に張り付いているうっとうしさの体験がないから、孤立感もない。ひたすら世界や他者とともにある。そうして世界や他者に監視されている、という過剰な強迫観念もわいてくる。
孤立感には、過剰な強迫観念はない。逆に、世界から置き去りにされている、という悲哀がある。そのあたりが、悲憤慷慨と覚醒剤の怒りとの違いだろうか。
いずれにせよ、意識を自分(の身体)から引きはがそうとするのは、生きものの根源的な習性である。この習性によって生きものは生きてある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「かっとなる」とか、「かっかする」などという。やまとことばの「か」は、「怒り」を表す音韻であるらしい。
「か」行は、声と息が口の中で離れてゆく発声であり、とりわけ「か」の音韻はもっともスムーズに離れてゆく。そのとき声は「頭に血が上る」という感触で頭から抜けてゆき、息だけが口から出てゆく。
「離れる」という意味の古語は、「離(か)る」といった。
「噛む」は、ひとつの食物を口の中でいくつにも離れさせること。
「刈る」「買う」「飼う」「貸す」「借りる」「勝つ」……別々の存在として関係を持つことを「か」という。つまり、意識が身体から離れ、世界に憑依してゆく感慨から「か」という音声が発せられる。
怒りとは、意識が体から離れてゆくこと。身体から離れた意識が世界に憑依している状態。
怒りによって、身体に張り付いた意識が引きはがされる。怒りとは、身体の消失感覚。
では、覚せい剤の怒りと悲憤慷慨とは、どこが違うのか。
覚せい剤の怒りには、身体がない。意識ははじめから身体を離れている。身体を喪失しているから、身体と世界との距離や空間を認知することができない。たとえば、今自分がどこにいるのかわからなくなってしまったりする。空だって飛べそうな気がしてくる。意識が、完全に世界に張り付いてしまう。身体がないまま、世界に憑依している自意識だけが突出してくる。全能の神になったような気分がしてくる。
であれば、覚せい剤をやめるための大事な修練のひとつは、意識が身体に張り付いている状態のうっとうしさに耐えることにある。彼らはそれに耐えられない。そこから意識を引きはがすすべを忘れてしまっている。それを取り戻すことだ。誘惑に負けそうになったら、「かあ〜」と大きな声を出してみるのもいいかもしれない。
いずれにせよ「自分を見つめる」というようなことばかりやっていてもしょうがない。そうやって自分に張り付いた意識をひきはがすことこそ、できなけければならない。
怒ってはいけないのではない。薬の助けなしに怒ることこそ必要なのだ。
そして、泣くことも有効だろう。声を上げて泣けば、体も心もさっぱりする。
泣きながら怒る。
たとえば、殺人事件の被害者家族の犯人に対する怒りは激しい。それは、それほどに深く悲しんでいるからだ。
悲しみが怒りを生む。そのためには、この世のもっとも弱く貧しい人や死んでゆく人のことを思うのもいい。そのような人たちより自分のほうがまだましだと思うためではない。そういう人になったつもりで、この生に深く悲しむのだ。生きてあることの悲しみを深く味わえば、そこから怒りが生まれてくる。
悲憤慷慨するとは、そういうことだ。
覚せい剤に手を出すなんて弱い人間のすることだ、という人がいる。しかし、弱い人間ほど、その胸の奥のどこかしらにひといちばい清純なものを持っている。というか、誰だってそうした原始的な心性を持っている。そこに遡行して、悲憤慷慨すればいい。
天に向かって泣きながら怒り叫ぶ。そういう原始的な感性を呼び覚ますことが、治療のきっかけになるのかもしれない。
悲憤慷慨は、原始的根源的な感性なのだ。
_______________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/