自費出版のこと 2

もう一度、自費出版のことを書いておきます。
今度、幻冬舎ルネッサンス新書というところから、自費出版します。
タイトルは『なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか』。山本博通著、838円。8月末、発売。
基本的にはアマゾンでの注文頼みですが、大きな書店の幻冬舎新書の棚に置いてあることもあるそうです。
前回、こういう宣伝をしたら、いきなりいやらしい中傷のコメントが飛び込んできて、みごとにけちがついた船出になってしまいました。最初はちょっとへこたれて、またその人物がしつこく絡んできたものだから、だんだん腹が立ってきました。
でもそのせいか、「その本、買ってやるよ」と励ましてくれるコメントももらえて、とても感謝しています。「捨てる神あれば、拾う神あり、塞翁が馬」です。
いちおう内田樹先生の向こうを張って書いたつもりのものだから、多少は口コミで売れてくれることを期待しています。そういう反応がまるでないのなら、みじめです。そんな低レベルの本を僕のような貧乏人が出すべきではないのは確かです。
反応がないのは、運が悪いのではなく、内容がそのていどだからだ、と思っています。その点は、けっこう世の中を信用しています。
まあ、既存の作家が大ベストセラーを出すかどうかという世界の出来事なら運も左右するだろうが、無名の素人が数千部は売れて格好がついて欲しいと願っているレベルなら、運なんか関係ないはずです。
その中傷のコメントによれば、僕の本は世の自費出版の質の低下に拍車をかけているだけの代物なのだそうです。
まったく、失礼してしまいます。こちらは、内容に関してなら内田先生にだって負けていないつもりなのに。
でも、まったく反応がないのなら、そういわれても仕方ありません。
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『なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか』なんてわかりやすいタイトルだけど、内容に関しては、僕の人生をかけて考えてきたことをこめてあります。とくにここ数年は日本列島の縄文時代から古代にかけての歴史のことをずっと考えてきたわけで、そういうことの上に立って書いたものです。
社会学的なデータそろえてあれこれ分析したとか、そういう内容ではありません。あくまで思考そのものの軌跡というか、評論というより感想文です。
また、世の中には「私のように生きなさい」というようなことばかりいってくるオピニオンリーダーがたくさんいて、そういう言説に対するアンチの立場で書きたかった、ということもあります。
「いかに生きるべきか」という問題なんかない。けっきょく誰だって、「こう生きるしかなかった」というかたちで生きて死んでゆくだけだ。無邪気にただ「かわいい」とときめいているだけのギャルと、「いかに生きるべきか」をああだこうだといっているオピニオンリーダーと、はたしてどちらが「人間の歴史の真実」と出会っているだろうか。
そんなこと、考えるまでもないじゃないか、ではすまない。世のオピニオンリーダーが「いかに生きるべきか」というようなことばかりいってくる世の中で、それが社会的合意となって若者や子供や一部の弱く貧しい人たちを追いつめている、という現実もあるはずです。僕なんか、あのひとたちはどうしてそんなうそ寒いことばかりいいたがるのだろう、と思ってしまう。
「いかに生きるべきか」というような未来のことをいわれたって、もう生きてきてしまったし、明日死なないともかぎらない。そしたら、この人生にどう決着をつければいいのか。「いかに生きるべきか」という問題など、どうでもいいだろう。この世の若者や子供や貧しく弱い人たちは、そういうところに立って人生と向き合っているのですよ。
おまえらのご立派な人生なんか、なぞっている暇はないんだよ。
「いかに生きるべきか」という問題など存在しない。われわれの願いは、すべての人の「今ここ」が肯定されることにある。
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彼らが、「私のように生きなさい」というのは、けっきょく「人間とは何か」ではなく「私とは何か」と問うて生きてきたからだろう。
偉いお坊さんも、若いころには「私とは何か」という問題で大いに悩んだんだってさ。
デカルトが「われあり」という問題を設定したように、それこそが人間の、何より若者の普遍的な悩みである、と彼らはいう。
そうだろうか。まあ、賢い人たちはそんなことを考えるのだろうが、僕なんかあほだから、そんな悩みなど持ったことがなかった。
ただもうわがままでエゴイスティックに生きていただけだ。
自分などうっとうしいばかりで、そんな自分を支配しコントロールしようとする欲求などなかった。
自分のことなんか忘れて何かに熱中していられたら、それがいちばんだった。
人間として「何をなすべきか」とか「いかに生きるべきか」とか、そんな煩悶などまるでなかった。
生きていれば、誰にだってせずにいられないことがある。その「せずにいられない」ことを、「何をなすべきか」とか「いかに生きるべきか」というようなところに閉じ込めてしまうのは動機が不純だと思う。
そんな問題から離れて純粋に「せずにいられない」ことが、「歴史の運命」であり「人間の運命」だ。
人類が直立二足歩行をはじめたのも、道具を持ったことも、地球の隅々まで拡散していったことも、共同体(国家)を持ったことも、戦争をはじめたことも、すべては「歴史の運命」であり、「せずにいられなかった」ことだ。
「なすべきこと」だったのではない。
つまり。「なすべきこと」をなす能力のある人間が歴史をつくってきたのではなく、人々の「せずにいられない」ことのままに歴史が流れてきただけであり、歴史というのはけっきょくそういうところに集約されているようにできている。
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今どきのギャルが「かわいい」とときめくことだって、「なすべきこと」など何も持たない者たちの「せずにいられない」心の動きであり、それ自体日本列島の「歴史の運命」なのだ。
日本列島の伝統的な文化は、「私とは何か」とか「なすべきことは何か」などとは問わず、「人間の運命」としての「せずにいられない」ことに身をまかせてゆくことにある。
「なすべきことは何か」と問うのは、「神」という規範を持っている西洋の文化だ。
西洋は、そのようなコンセプトで人も自然も「あるべきかたち」に支配してつくろうとする。
一方この国では、自然の「せずにいられない」かたちに身をまかせてゆく。
だから、60年前の戦争裁判の被告たちだって、口をそろえて「あの戦争はどうしようもない(せずにいられない)成り行きだった」と証言している。われわれはもう、そういういわゆる「主体性のない」民族なのだ。そのとき欧米人は、「この連中は何を考えているのか」と首をかしげたにちがいない。
日本列島の歴史は、自然としての人間の「せずにいられない」運命に身を任せて流れてきた。
今どきのギャルだって、そういう「人間の運命・歴史の運命」に身を浸して「かわいい」とときめいている。
彼女らは、そういう「無私の精神」を持っている。というか、思わず「かわいい」とときめいているとき、「無私の精神」になっている。
日本列島の歴史の水脈は、今どきのギャルに「かわいい」とときめかせる。
今どきのギャルはおバカで自分というものをちゃんと持っていないから、たやすく歴史の水脈に浸されてしまう。彼女らの「かわいい」と「ときめかずにいられない」心の動きは、自分の「なすべきこと」にしたがって生きている自我の強い大人たちにはわかるまい。
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宗教は、「私とは何か」とか、「いかに生きるべきか」という問題を解決してくれる。無神論者が、そういう問題は宗教の外でこそ解決されなければならない、といったって無駄なこと、そのように問うこと自体が「宗教」なのだ。そして西洋の「神」という概念は、そのような問いを解決する存在として機能している。西洋の「神」は、「私」を充実させてくれる。
それに対して縄文時代以来の日本列島の「かみ」は、「私」を忘れさせ、世界や他者にときめかずにいられない心の動きを呼び覚ます。
日本列島の「かみ」は、「からっぽ」の「空間=すきま」なのだ。「私とは何か」とか「いかに生きるべきか」という問いの解答として存在しているのではない。「存在」ですらない。
「私」が「からっぽ」になることが、この国の「かみ」という概念によってもたらされる心の動きなのだ。
とすれば、「かわいい」と他愛なくときめいているおバカで中味の「からっぽ」な現在のこの国のギャルこそ、この国の歴史の水脈を体現する存在だといえる。
「無私の精神」は、そこにこそある。えらい坊主の「悟り」の中にあるのではない。
「なすべきこと」とか「いかに生きるべきか」というような問題など存在しない。「からっぽ」の自分になって「せずにいられないこと」に身をまかせてしまえばいいだけのこと。それは、「人間の運命」に身をまかせている態度なのだ。
歴史とは、「人間の運命」であって、おまえら賢いやつらがリードしてつくっているものではない。
人間の歴史は、「なすべきこと」をなしてつくられてきたのではない、「せずにいられないこと」によって流れてきただけだ。
人殺しだろうと戦争だろうと、つまりは「なすべきこと」として選択される。しかし歴史として振り返れば、けっきょくは「せずにいられないこと」として流れてきたことに気づかされる。だから、戦争裁判の被告たちは「成り行きだった」と証言した。
「どう生きればよいか」という問題など存在しない。誰もが、最後には、「こう生きるほかなかった」と思って死んでゆく。
人間は、歴史をつくることはできない。それはただ、われわれの「運命」として流れているだけだ。
僕はそれを、えらい坊主の悟りからではなく、今どきの頭の中身が「からっぽ」なギャルの「かわいい」と「ときめかずにいられない」態度から学んだ。彼女らこそ、日本列島の歴史の水脈に身を浸している者たちなのだ。
その水脈は、おまえら賢いやつらのもとに流れているではない。
まあそういう思いで、『なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか』という本を書いてみました。