自費出版のこと

自費出版することにしました。
今週末の8月27,8日ころが、発売日です。
タイトルは、『なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか』。
著者名は、山本博通。幻冬舎ルネッサンス新書。838円
たまに大きな本屋の幻冬舎新書の棚の隅に並ぶこともあるらしいけど、基本的にはアマゾンでしか手に入りません。
以前に「かわいい」について書いたものをもとにしてまとめたものです。
タイトルは、編集者が考えてくれました。ずいぶんわかりやすいタイトルだけど、中味はけっこう力を込めて書いた若者論であり、日本人論であり、内田樹先生をはじめとする既存の新書ライターに対抗するつもりで書きました。
「かわいい」とときめいている現在の若者こそじつはほんらいの日本人の姿だ、というような内容です。
縄文時代以来の日本の歴史に加え、戦後とは何か、という問題も意識しました。
まあこのタイトルで少しは売れてくれるのなら、ありがたいです。
売れなければ、話になりません。どこかの社長さんが自己満足のために出した本とはわけが違う。
貧乏人が、有り金はたいて出した本です。女房には、そんなことをするなら離婚するとかなんとか言われながら。
一円でも出したお金を回収したい。
そして、なるべく近いうちにもう一冊出したい。原稿なら、いくらでもある。今すぐ10冊出すことだってできる。金があるのなら、そうしたいところです。
とにかく二冊出してまるで反響がないのなら、自分の書くものなどそのていどのものだとあきらめよう、と思っています。
あの人たちが書かないことや書けないことを書いたつもりです。あまり正面切った悪口は書いていませんが、おまえらの良識や常識などくそくらえだ、という気持ちはこめてあります。
気取っていわせていただくなら、この世の追いつめられている人すべてに向かってことばを差し出したかった、ということです。
まっとうな市民や幸せな人たちが喜ぶようなことは何も書いてありません。
おまえらよりそのへんのバカギャルのほうがずっと本格的な日本人なんだぞ、というコンセプトです。
そして、現在のこの国から世界中に発信されようとしている「かわいい=ジャパン・クール」の文化の基礎になっていることを考えようとした試みの本です。
もしよかったら……。
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このページの下に、明日、続きを書きます。
いいたいことはたくさんあるけど、本を出したことの感想はといえば、よくわかりません。べつにうれしくもない。達成感もない。自分の書いたものが活字になる、ということの喜びなんかありません。それほどウブじゃない。こんなことをしてもみっともないだけかな、という思いのほうが強い。
でも、とりあえず、出してみるしかなかった。
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僕の書くことは、内田樹先生をはじめとする世のオピニオンリーダーたちには、足元にも及ばないのだろうか。
彼らに対して、俺のほうがずっと深く遠くまで考えている、つまり俺のほうが根源的(ラディカル)なところを問うている、という思いがどこかにある。少なくとも、彼らには書けないことを書いているつもりでいる。彼らと僕のあいだに知識にどれほどの差があろうと、知識なんか関係ない、という主義で書いている。
「俺たちバカかだから」といって苦笑いしている若者や「かわいい」を連発する「なんちゃってギャル」だって、どこかで内田先生たちが見ることのできない人間の根源を見ている。
だから僕だって内田先生にかなわないなんてぜんぜん思わないし、そういう者たちに代わって、内田先生の書くものなんかどうしようもなく薄っぺらだということを証明してみせたくて、今回「かわいい」について考えてみた。
それにしても、自分の書くものがどのていどのレベルでどんな色合いなのかということがよくわからない。自分にしか書けないことがあるという思いがあるけど、それはただの勘違いかもしれない。
どのように自分の書くものを計量したらいいのか、よくわからない。
だから、とりあえず自費出版してみた。
まあ、僕がいいたいことは、内田先生や養老先生とは違う、ということだけはたしかだ。そして、既存の文筆家の誰かが僕に代わってそれをいってくれているという思いになれればいいのだが、どうもいまいち誰も信用できない。
僕は、勘違いして思い上がっているのだろうか。
しかし、少なくとも一般的なブロガーよりは、多くのものを支払って書いている。
僕は今、あなたたちみたいにこざっぱりした暮らしはしていない。憲法で保証されているらしい「健康で文化的な暮らし」なんかしていない。
昔、友達と一緒にはじめてマリファナを吸ったとき、かなり良質のものだったのだけれど、僕だけ「バッド・トリップ」をしてしまった。僕は、生きることの楽しみというのを、あまり必要としないタイプの人間かもしれない。
そば打ちなんか知らない。今はもう、日常の楽しみを見つけ出そうとする趣味は捨てているし、友達とも家族とも、このごろほとんど会っていない。書かずにいられないことがあって、それどころじゃないのだ。楽しみなんか、何もなくてもいい。坂口安吾のように堕落して飲んだくれてもいない。そんなナルシズムなどないし、そんな暮らしが僕の書くことの栄養になるとも思っていない。いや、栄養になることなんか、何もしていない。とりあえず、書きたいだけだ。
では書くことが楽しみかといえば、べつに楽しいわけではない。こんなこと、恥のかきさらしだもの。ときどき、胸をかきむしっている。
それでも、書かずにいられないことがある。
内田先生や養老先生や茂木なんたらという先生や、それからネット界の博識強記のブロガーたちに負けたくないし、負けるわけにいかない、と思っている。
きっと自分は何か勘違いをしている、とときどき思わないでもないが、はっきりと自覚しているわけではない。
それに気づくためにはもう、あの人たちに挑んだあげくに鼻であしらわれて一敗地にまみれる、というような経験が必要なのだろうか。
そういう思いで、自費出版してみた。
このままでは、自分で自分の収拾がつかなくなってしまう。それがしんどいし、人間の真実があの人たちにどんどん歪められてゆくことも、我慢がならない。
この勘違いが、やめられない。ときどき、勘違いじゃないよ、と励ましてくれる人がいるしね。
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内田先生だろうと養老先生だろうと、世の偉い坊さんだろうと、彼らがいわんとしていることはつまり、「私みたいに生きなさい」ということだろう。
現在の出版の世界なんか、「私みたいに生きなさい」といっているライターばかりじゃないか。そして、だれもがそういえる人間になりたがっているから、もう、内田先生や養老先生や勝間なんとかというおばさんや、そういうことを自信たっぷりに書いた人の本ばかり売れる。
内田先生の本を読めば、世間に対する優越感を先生と共有できる。売れる本には、そういうご馳走が盛られている。
しかし僕には、そんなことは書けない。「私のように生きなさい」といえるものなど何も持ち合わせていない。ただ、「自分は、この世の若者やもっとも弱く貧しい人たちから何かを学んで生きてゆくしかない、なぜならそこにこそ人間であることの証明があるのだから」と思っているだけだ。
そして、あの先生たちに対抗してそういう論陣を張ってみたい、とこのごろ思い始めています。
彼らばかりがのさばっていると、「私みたいに生きなさい」というものを持てない人間は、彼らの言説にどんどん追いつめられてゆかねばならない。
現代社会においては、能力のある者や清く正しく生きている者たちによって「人間とは何か」ということの答えが所有されている。
しかしその答えは、この世のもっとも弱く貧しい人たちのもとに返されるべきだ。人間であることの証しは、彼らのもとにある。
日常の楽しみやこざっぱりした暮らしを捨ててみないと見えてこないものがあるのです。
ともあれこの世の中は、「私みたいに生きなさい」といえる存在になりたがっている人たちばかりだから、僕が書いた本なんかきっと売れるはずもない。
それでもまあ、書かずにいられない何かがあるわけで、もう死ぬまで自費出版してゆくしかないのだろうか。
せいぜいバカにしてください。
本が出ることになっても、自費出版なんてみじめだなあ、くやしいなあ、と思うばかりです。
今回は、あの先生方に対抗する場に立つための、ひとまず名刺代わりです。だから、お金なんか戻ってこなくてもいい。
「私みたいに生きなさい」といっているオピニオンリーダーのいうことなんか、僕は信用しない。
僕はけっこう長く生きてきたけど、僕が、人に教えてやれることなんか何もない。
僕には、そんな趣味も能力もない。
まあ「私みたいに生きなさい」という言い方のいちばんあからさまでいちばんバブリーな人気になっているライターが内田樹先生だから、とりあえず今は、内田先生をターゲットにしています。
今回そういう内田批判の本にしようかとも思ったのだが、まわりの人たちから、「そんな無駄でみっともないことはやめときなさい」といわれ、ひとまずこちらの内容の方に落ち着いた次第です。
でも、内田批判なら僕が日本でいちばんたくさん書いているし、いちばん根源的(ラディカル)な批判の立場に立っているとも思っていますよ。
何はともあれ、恥さらしの自費出版です。
軽蔑してくれてけっこう、泣きたくなっても、へこたれはしません。
どうせ、恥まみれの人生なんだもの。