加藤君のことなど

このところ僕は、つまらないことばかりやらかしている。
このブログは、じつは「友達の輪」をつくりたくてやっているつもりだが、じっさいにはよけいなことをいっては、どんどん友達をなくしていっている。それはたぶん、秋葉原事件を起こした加藤智大君がやっていた携帯サイトの成り行きと似ている。
おたがい、よけいなことをして墓穴を掘るタイプだ。もっとも僕は、彼ほど大それたこともできないのだから、なおみっともないのかもしれない。
秋葉原事件の公判が始まって、彼の証言に対するマスコミの反応にはちょっと違和感があり、そのことを書いておこうと思った。
まず、事件の動機について彼は、「けっきょく、携帯サイトに対する嫌がらせのコメントをやめさせたかったのがいちばんの動機だったと思う」と語った。
これに対して、マスコミをはじめとして多くの人が、「彼は正直に語っていない、がっかりした」と不満を洩らした。
「親に対する恨みや派遣切りに対する不満」と答えてほしかったらしい。彼らにとっては、それがいちばんつじつまが合う因果関係であるのだろう。
しかし、そんなことを、おまえらが勝手にきめるなよ。彼がなんと答えようと彼の勝手だし、彼なりにこの二年間自問自答してきた結果の結論かもしれないじゃないか。
僕は、正直に答えている、と思う。
彼はいつだって、人との関係につまずき、その不満をアピールしようとして行動してきた。
高校卒業後の進路だって、自分がどこの大学に行きたいかということよりも、お母さんへのあてつけのためにその道を選んだのだとか。そして大学を中退してその後何度も職を転々としてきたのも、そのたびに人との関係に対するつまずきがあったからだ。
以前に自殺未遂を起こしたことがあって、それは母親の理不尽な態度に対する「アピール」だった、と語っている。まあ、「アピール」というより、「あてつけ」だな。そういうことばかりして生きてきたから、こんな事件を引き起こすことにもなった、と自分で語っている。なるほど。
だから、今回の事件の直接の動機は嫌がらせコメントだった、という彼の自己分析は、ちゃんとつじつまが合っている。
自分の境遇に絶望したのじゃない。人との関係に絶望したのだ。
嫌がらせをするものたちは、されたものがどれほど深く傷つくかということをよくわかっていない。あるいは、傷つけたくてやっている。自分が深く傷ついた体験を持っているから、それをせずにいられなくなってしまうのだろう。それが嫌がらせとしていかに有効かということを、ちゃんと知っている。
人間なんて、誰もが他人に嫌がらせしながら生きている。すべての人間が、他人に対する嫌がらせとして存在しているのだ。なのに自分だけ無傷なような顔をして、「愛」とか「人の道」などという。そんなしゃらくさいことをいう前に、おまえら、自分がいかに他人に対して目障りな存在かということに気づけよ……と加藤君はいっているのだ。そして、それはたしかにそうだ、と僕も思う。
「派遣切り」なんかたいした問題ではない、と加藤君がいえば、まわりは「彼は正直じゃない、変わってしまった、がっかりした」という。冗談じゃない。派遣切りが直接の動機だということにすれば、問題が解決すると思っているのか。そんなことで解決するのは、おまえらの薄っぺらな思考が免罪される、ということだけだ。
おまえらがそんなことをいっているかぎり、派遣切りがなくなっても、「人を殺してアピールしたい」という衝動はなくならないのだ。そしてそれは、「自分を殺してアピールしたい」という衝動も含まれている。
追いつめられた者たちは、人を殺して(自分を殺して)、自分の人生をちゃらにしてしまいたい、という衝動を不可避的に抱いてしまう。われわれが考えたいのは、そのことであって、まあ「派遣切り」なんか二の次であってもいい。自動車工場の「派遣切り」をされたのなら、牛丼屋のアルバイトでもやるしかない。それでいいのだ。それでも、誰かと仲良くして生きていけるなら、それでいいだろう。つらいのは、能力のある人間にしか人と仲良くできる機会が与えられていない社会であることだ。能力のある人間が魅力的な人間であるかのような社会的合意があることだ。
能力を持つことが男(女)を磨くことや人間を磨くことであるかのような社会的合意があることだ。そういう薄っぺらなことばかりいっている知識人がたくさんいて、みんながその理屈にしてやられている世の中だ。
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人間を追いつめるのは「状況」ではなく、「他者」なのだ。
たいていの場合は、仕事がつらくて会社をやめるんじゃない、人間関係に追いつめられてやめてゆくのだ。人間関係に追いつめられて、心を病んでしまうのだ。
ある人気ブログの管理人が、「自分のところにもよく嫌がらせのコメントが来るのだが、まあそれによって自分の思い上がった気持ちをさまれることもあるのだから、そういう嫌がらせのコメントをする人にも祝福あれ、と思う」といっておられた。
なんだかずいぶん薄っぺらで欺瞞的な言い方ではないか。それは、自分も嫌がらせをしてもいい、といっているのと同じなのだぞ。いやがらせなんかないほうがいい、とは思わないのか。ないほうがいいと思えるのは、ありったけの思いで傷ついている人間だけだ、加藤君のように。その思いは、おまえみたいな欺瞞的な人間のもとにあるのではない。おまえなんか、自分のことを考えているだけじゃないか。嫌がらせのコメントは、おまえの思い上がった気持ちをさまさせるためにだけ存在しているのか。おまえにもし他者に対する「愛」なるものが多少なりともあるのなら、思い切り傷ついてやれ、加藤君のように。
おまえらは、自分の人格の高潔さを表現するために文章を書いている。しかし加藤君は、自分の人格の卑しさや醜さを表現するために携帯サイトをやっていた。だから「自分がブ男だと思っていたわけではない、ブ男キャラを演じようと決めただけだ」といった。
ああなるほど、と僕は思った。彼は、ブ男を追いつめない人と出会いたかった。それにたいしておまえらは、自分の高潔さを自慢しながら、世の中の能力のない人間やブ男を追いつめている。
追いつめたらいけないのではない。それはもうしょうがないことだ。しかし、自分だって追いつめている存在だということくらいは自覚しろよ、ということだ。加藤君にはそういう自覚があったから、ブ男キャラを演じようとしたのだ。おまえらに、加藤君のそのせつない「愛」がわかるか?
嫌がらせをされたら、追いつめられてしまうのだ。そして、誰もが、どこかしらで他人に対する嫌がらせとして存在している。
「他者は神である」とか「他者に対する愛を持て」とか、さらには「日本人には他者がない」などともいって、何か「他者」という概念が崇高なものであるかのよう語ってえらそぶっている知識人がいっぱいいるのだが、それは、自分を追いつめている凶悪な対象であり、自分が追いつめてしまっている傷つきやすい対象でもあるのだ。
「他者」という存在の凶悪さやもろさに対する自覚が、西洋人はなさ過ぎる。「他者」という概念を止揚すればそれでいいというものでもない。日本人は、「他者」という概念を消去しながら「あなたのことは見ません」というかのように深くお辞儀をする。それは、あなたを追いつめる存在でありたくない、という思いで自分を消去しようとしている態度でもあり、自分を消去することにこそ根源的な生きてあることのカタルシスがある、という文化である。
しかし、追いつめられたら、追いつめ返すしかない。それもまた、日本列島の文化である。われわれは、他者を追いつめるまいとする文化を持っているがゆえに、追いつめられたときの傷つきやすさも西洋人以上に持ってしまっている。
西洋は、追いつめてもいいという文化であり、追いつめられても平気でいられる文化であるらしい。
しかし僕は日本人だから、追いつめられることに耐えられないし、誰かを追いつめてしまっている存在であることも自覚している。そしてどうせ追いつめるなら、内田樹先生たちみたいな、人格者ぶったり知性が豊かぶったりしている人間を追いつめる存在になりたいと願っている。それはもちろん僕が彼らから追いつめられているからだが、嫌がらせのコメントに追いつめられた加藤君はもう、それを百倍にして返してしまった。
彼は、いつも誰かに追いつめられて生きてきたし、いつも追いつめ返そうとしてしてきた。そしてその表現が、いつも自分をおとしめ傷つけるというかたちになっていた。その表現として、ブ男キャラを演じ、自殺未遂という「アピール」になり、ついには人殺しになるというところにたどり着いてしまった。
そりゃあねえ、彼ほど鋭敏で、彼ほど深く追いつめられて生きてきた人間も、そうそういないんだよ。そのことを考えると僕は、太宰治や寺山修治を生んだ青森という土地や縄文人のことにも、つい想いが向いてしまうわけですよ。
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「あなたは、秋葉原で人を殺しているとき、どういう心地がしたのか?」と問われて加藤君はこう答えた。
「相手の<なんで?>という表情を見たとき、ひどく気持ちが悪かった」と。
これも、正直な答えだろう。
この答えに接した遺族の人々は、大いに不愉快でたまらない気持ちになったことだろう。そしておおかたの人は「ふざけるな」という気持ちになったらしい。
それはそうかもしれないが、そのとき加藤君に求められたのは、嘘でもいいからみんなが納得する答えだったのではない、正直な気持ちなのだ。彼は、それをそのまま告白した。
おまえらは、おまえらの正義さえ守られるのなら、事件の真実など明らかにならなくてもいいのか。正直に言えといいながら、自分に都合のいい答えしか認めないなんて、あまりにも虫が良すぎる。
「そのときもうしわけなさで胸がいっぱいになった」とでもいえばいいのか。「自分はなんと醜い人間かと頭が狂いそうになった」と答えて欲しいのか。それとも「この世の派遣切りをしている経営者連中の顔が脳裏をよぎった」とでも答えさせたいのか。
彼は彼なりに、誠実に正直に答えようとしているのだ。そのことだけは、僕はひとまず認める。
この世の人間なんて、みんな社会の制度性に骨の髄まで染め上げられ、制度性の仮面をかぶって生きているだけかもしれない。青森の親はもちろん、会社の上司だってみんな、仮面をかぶってくだらないことばかりいって俺を追いつめてくる。友達も、フーゾクの女たちだって、いっさいの仮面を脱ぎ捨てているとはいえない。
彼女のいない彼は、仮面をかぶった人間しか知らない。仮面が人間の顔だと思って生きてきた。まあ、幼いときの彼が親を肯定してゆこうとするならもう、そう思うしかなかった。
この世のたいていの子供が、制度という仮面をかぶった親の顔を人間の顔だと思うほかない情況に追いつめられて生きている。そうして、社会に出ても仮面をかぶった人間ばかりの世の中だ。いや、社会の人間のほうが、もっとあからさまな仮面をかぶっている。しかし、生きてゆくためにはもう、それを人間の顔だと思うしかない。
それに対して、彼のトラックにはねられ、彼に刺される瞬間の人間は、「なんで……?」といいたげな、じつに生々しい人間の素顔をさらけ出してきた。彼にとっては、今まで出会ったことのない顔だった。
「え、人間というのはこんな顔をしているのか?」と彼は、ひどく気持ち悪くなった。
幸か不幸か、社会的動物であるわれわれは、生々しい人間の顔と出会うと、気味悪いと思ってしまう。
夫婦や親子だって、適当に「たてまえ」という仮面をかぶっていたほうがいいのかもしれない。親の生々しい素顔と出合うことが「トラウマ」になることもある。
だが戦場に行けば、人間の生々しい顔と出会う。敵を殺す兵士は、誰もがそういう「なんで……?」という生々しい人間の顔と出会い、「気持ち悪い」と思い、そのあげくにPTSDとかいう心の傷を長く引きずってしまう。
加藤君の「気持ち悪かった」という言葉は重いし、彼は、正直に語ったのだ。われわれは、そういう感慨を負って戦争の歴史を歩んできたんじゃないか。
殺そうとする顔も、殺されようとする顔も、生々しい素顔になってしまっている。おそらく殺されたものたちも、ひどく気持ち悪かったのだろう。
大阪の育児放棄した彼女も、衰弱した子供たちのすがるような表情が気持ち悪かったのだろうし、子供たちも、お母さんの生々しい女の顔が気持ち悪かったことだろう。
人間は、生々しい素顔であっても仮面であってもいけない。であればもう、自分を消してしまうしかない、とりあえず深くお辞儀をして。
僕の知り合いにも、若いころ自分の兄貴を包丁で刺した経験のある男がいる。彼もやっぱり、その瞬間ひどく気持ち悪かった、といっている。たぶん、おたがいひどく気持ち悪かったのだ。
加藤君を責める者も、加藤君を神とあがめる者たちも、何もかもおまえらの都合のいいようにはいかない。それくらいは思い知れ。