進化論について考えたこと 2

誰もが、幸せになりたいとか、強くなりたいとか、賢くなりたいとか、まあそんなような欲望を持っているのだとか。この生は、欲望の実現として成り立っているのか。生きることは、生きようとする欲望の上に実現されているのか。
まあ、おおかたの進化論は、そういうところで発想されている。
「生きようとする」とは、「死にたくない」ということだろう。ゴキブリやトンボに「生」とか「死」というイメージを持っているとは、ちょっと考えられない。そんなものは、人間が抱いているたんなる概念にすぎない。
飯を食いたいと思うのは、「飯を食いたい」という衝動であって、生きるもくそもない。飯を食うことが生きることになるとわかっている生きものなんかほとんどいない。
人間だって、根源的には、生きようとして飯を食っているのではない。空腹でいることがうっとうしく苦痛だからだ。そういう「苦痛」が、飯を食おうとする衝動を生んでいるのであり、どんな生きものも、そういう衝動の源泉となる「苦痛」を抱えている。
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遺伝子の「節約戦略」などという。人間や猿のような生きものには、数億とも数十億ともいわれる遺伝子がそなわっているらしいが、実際に機能しているのは、その中の半分以下らしい。あとの遺伝子は、ただもう無意味に存在しているだけなのだとか。
機能停止に陥った遺伝子まで、そのまま保持されていたりもする。僕はこういう話を聞くと、興味をそそられる。こういういい加減なものが好きなのだ。
自分の中に機能不全の部分を持っていることは、生きてあることのカタルシスを生む契機になったりする。
僕は、自分の意思で自分の体を動かすことが苦手だ。そのへんのところで、ずいぶん「機能不全」を抱えている。しかしだからこそ、無意識に体が動いてしまう、ということはわりと人より多く体験していると思う。
体の弱い人は、人より体のことに敏感だろうし、世界や他者にときめいてゆく契機を豊かにそなえていることだろう。
機能不全の遺伝子だって、もしかしたら、機能している遺伝子がよけいなはたらきをしてしまうことに対する抑制の機能になっているのかもしれない。
また、機能不全の遺伝子を抱えていれば、機能している遺伝子は機能不全に陥るわけにいかない。二人で人の家を訪問して、出された料理を相棒が食わないのなら、自分ががんばって食わないと失礼になる。まあ、そんなようなことだ。
また、何もしないで遊んでいる遺伝子だって、機能している遺伝子が十全に機能してゆくための援護のスペースになっているのかもしれない。「助けてやらない」ということが励ましになってその相手をがんばらせる、ということはある。親の役目は「助けてやる」ことではなく見守ってやることだ、という場合があるではないか。
「遺伝子の節約戦略」といっても、べつに節約しようとしているわけではない。遊んでいる遺伝子も機能不全の遺伝子も、ひとまずセットになって全体のシステムを構成しているのかもしれない。そういう遺伝子も抱えていないと、機能している遺伝子も十全に機能できないのかもしれない。
腹が減っていなければ、飯を食おうとする衝動は起きないのだ。欠落感や苦痛が起きなければ、命の働きとして機能してゆくことはできない。遊んでいる遺伝子や機能不全の遺伝子は、そういう役割を担っているのかもしれない。
この生は、欠落感や苦痛の上に成り立っている。命の働きは、そうであるほかないシステムになっている。遊んでいる遺伝子や機能不全の遺伝子は、そうした欠落感や苦痛をよりビビッドに体感する役割を持っているのかもしれない。
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何はともあれこの生のシステムがそのようになっているということは、生きものは生きようとする衝動とか進化しようとする衝動なんかもっていないことを意味する。
生き物は、身体と環境との関係において生きてあることができるようなシステムをもっている。それは、「システム」の問題であって、生きようとする本能とか衝動とか欲望といったものがはたらいているのではない。
進化論において、「生存戦略」などということばは使うべきではない。生きものは生きようとしているのではない。「今ここ」において「せずにいられない」ことにうながされて生きてあるだけなのだ。息をすることも飯を食うことも、息苦しいとか空腹という今ここにおいて「せずにいられない」ことであり、そういう行為をうながす欠落感や苦痛に急きたてられてわれわれは生きている。
われわれの命の働きは、おそらくそういう仕組みになっている。われわれは、坂道に置かれた石ころなのだ。転がりたいと思わなくても、転がってゆくしかないような命の仕組みを持たされている。
「節約」しているのではない。不足の状態でなければこの命は動き出さないのだ。それは、物理学の問題であり、「応力」がはたらいているのであって、「衝動」によって動いているのではない。
「本能」などという生物学の概念は、ただの資本主義的な「ファンタジー=物語」にすぎない。われわれは、そんなものによって生きているのではない。生きものは、生きようとしているのでもないし、遺伝子を「節約」しようとしているのでもない。そんなことは、たんなる「結果」なのだ。そういう「生きようとする意志(志向性)」などというものを設定するべきではない。
それは、たんなる「システム」の問題なのだ。
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こんなことを唐突にいっても説得力があるはずもないが、生きものの遺伝子のはたらきがつねに「節約」の状態になっているということは、生きものは「生きよう」としているのではなく、「消えよう」としている、ということを意味するのではないだろうか。
この生を「生産」しようとしているのではなく、「消去」しようとしているから「節約」の状態になっているのではないだろうか。
生きものの身体は、つねに適合できない状態に保たれている。「節約」するとは、そういうことだ。だから、空腹が苦痛になり、その苦痛を消去しようとして飯を食う。身体が適合してまどろんでいれば、空腹の状態になっても苦痛なんか起きてこない。
われわれは、「適合」の状態を獲得しようとしているのではない。「不適合」を消去しようとしている。生きるとは、ようするにエネルギーを消費する行為であって、エネルギーを獲得しようとする行為ではない。
体を動かすという行為は、エネルギーの消費であって、エネルギーの生産ではない。われわれは、消費の衝動しか持っていない。
エネルギーの生産は、意志ではできない。それは、身体が勝手にやってくれている。いいかえれば、消費の行為が、生産の行為にもなっている。息を吸ったり飯を食ったりする行為は、身体のエネルギーを消費する行為であるが、同時にエネルギーの生産にもなっている。ようするに、身体を動かすという行為なのだから、消費の衝動によってしかそれは起こりえない。
われわれの命は、消費の衝動が起きるようにできているのであって、生産の衝動が起きるようにできているのではない。
つまり、この命を消してしまおうとする衝動。それによって命が生産されている。
命を消してしまおうとするためには、命は、苦痛であらねばならない。命とは、苦痛を生み出す装置なのだ。だから、環境に適合できない欠損状態にセットされてある。
命は、生きてゆくための装置ではない。消えてゆくための装置なのだ。生きてあることのカタルシスは、消えてゆく感覚にある。消えてゆくことは、究極の欠損状態である。
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生きるとは、環境に対して不適合であり続けることだ。だから原初の人類は、住みにくいところ住みにくいところへと、地球の隅々まで拡散していった。
だから恐竜は、さっさと滅んでしまえば楽であったものを、あんなにも体が大きくなってしまうまで不適合を生き続けた。
生きものに不適合を克服しようとする衝動があったら、恐竜はあんなにも体が大きくならなくてもすんだにちがいない。あえぎあえぎ不適合そのものを生きたから、あんなにも大きくなってしまったのだ。
あんなにも体が大きくなってしまったことは「進化」といえるのか。スーパーサウルスのように、一日中草を食い続けてもまだ足りないような体になってしまうことが、幸せなのか。ティラノザウルスのように、どたどたと動き回って大きな草食獣を死に物狂いで倒しにゆかねばならないことが、彼らの望んだことなのか。
彼のあの体の大きさは、一種の「奇形」である。この地球の歴史で、彼らほどあえぎ続けて生きた生物もいないのだ。
いや、鯨だって、ほんらいは陸上の生物のはずが水の中で暮らしているのだから苦労は多いにちがいなく、だからあんなにも大きくなってしまったのだろう。
生きものに、進化しようとか、環境に適合してゆこうとするような衝動はない。不適合それ自体を生きようとした結果として、体の形質が変わってしまうのだ。
生物の根源において、適合しようとする衝動や、適合できる命の仕組みがあるのなら、彼らはあんなにも大きくならないでもすんだにちがいない。
生き物は、不適合の状態をあえぎあえぎ生きてゆくしかない存在なのだ。
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どうもまだうまく着地できない。僕は、人間について考えたいのだ。
もう一回だけ、蛇足を書きます。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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