進化論について考えたこと 3

キリンの首は、なぜ長くなったのか。
長くなろうとしたのではない。長くはない「嘆き」を生きたからであり、長くなったのは、たんなる「結果」にすぎない。
遠くを見ようとして背伸びをする。背伸びをさせたのは、背が高くないことの嘆きであり、そのとき体験しているのは、その嘆きを消去していることのカタルシス(浄化作用)である。そうやって、背が高くない自分が消えてしまっていることのカタルシスだ。
このカタルシスは、背が高くなったら、もう体験できない。そんなことを願って背伸びをするのではない。生きものの命に「未来」という時間はインプットされていない。第一、キリンの首が10センチ長くなるのに、いったい何万年何十万年かかるというのか。そんな未来などイメージしているはずがないじゃないか。ただもう「今ここ」の首を伸ばす行為によって、首が長くない嘆きが消えてゆくカタルシスがあったのだ。
キリンは、そういう嘆きを生き続けたのであり、10センチ伸びたといって喜び、20センチ伸びたといって満足しながら生きてきたのではない。それでも「長くない」と嘆き続けてきたのだ。満足したら、それ以上は伸びない。彼らはつねに嘆き続けてきた。嘆きつつ、そのつど嘆きが消えてゆくカタルシスがあった。
キリンが生息するサバンナには、食料となる樹木は少ないし、その樹木は高いところに葉っぱが集まっている。だから、高いところに首を伸ばすだけでなく、遠くまで見渡して木のある場所を探す必要もあった。
シマウマのように地上の草を食べていればよかったものを、あるときから木の葉を食べる困難に魅入られてしまった。サバンナで木の葉を常食にするなんて、こんな効率の悪い生存戦略もない。それでも彼らは、その生き方を選択していった。
それはおそらく、シマウマとのテリトリー争いに敗れたからとか、そういうことではない。そういう困難(不適合)に魅入られてしまったのだ。生きものの命は、そういう困難(不適合)の嘆きを生きるようにできている。
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生きものは、みずからの「今ここ」を受け入れる。「未来」など望んでいない。「今ここ」においてこの生を決着させることのカタルシスがある。
「進化」は「戦略」ではない、「今ここ」の嘆きからカタルシスを汲み上げ続けたことの「結果」なのだ。
命のはたらきには、「今ここ」の嘆き(=欠損)がセットされている。だから、われわれの体の遺伝子には、遊んでいる遺伝子や機能不全の遺伝子が組み込まれている。
環境に対する不適合の嘆きがなければ、命は動き出さない。遊んでいる遺伝子や機能不全の遺伝子は、機能している遺伝子が機能してゆくための「応力」になっている。そいうアンバランスが「応力」になっている。
われわれは、先験的にそなわっている命の働きや心の動きを持っているのではない。それらは、そういうアンバランス(不適合)から「動きはじめる」のだ。
生きものは、みずからの生きてあることとも環境とも和解していない。だから、遊んでいる遺伝子や機能不全の遺伝子を抱えている。われわれの遺伝子は十全に機能していない。それは、満足を得ることができない、ということだ。
満足するとは、いわば床の間の置物の状態である。そこでは、衝動ははたらかない。生きてゆく力が発生しない。何かを成し遂げたという達成感を持てば、しばらくはやる気が起きてこない。ときに鬱病になってしまったりする。マリッジブルーもその一種かもしれない。
命の根源においては、「満足」も「快適」も知らない。われわれの遺伝子は、そういう構成にはなっていない。ただもう環境と適合できない不満と不幸を生きようとしている。そういう嘆きを消し、そういう嘆きを持つ「今ここ」の自分を消して別の場所に立つことのカタルシスを汲み上げて生きている。
生きものにとって「満足」や「快適」は、命の働きの危機的な状態なのだ。
だからキリンは、首が長くないことを嘆き続けた。
人間だろうとキリンだろうと、経済効率だけで生きているのではない。生きものは、「満足」や「快適」の経済効率を求めて生きているのではない。生き物はみんな、遊んでいる遺伝子や機能不全の遺伝子を抱えながら生きているのだ。
知能が低い動物だから食うことだけが目的で生きていると考えるべきではない。この生の根源は、経済効率の問題としては語れない。
キリンに高いところの木の葉を食うというきわめて経済効率の悪い習性に向かわせたのは、食うという目的達成の満足ではなく、不適合の嘆きを消去するカタルシスなのだ。このカタルシスがキリンの首を長くしたのだ。
身体が消えてゆくカタルシスが生きものを生かしている。身体が動くとは、「今ここ」から消えてゆくことだ。生物が生成変化するとは、環境に対する不適合として存在している「今ここ」から消えてゆくことだ。われわれはそれを、「進化」という。
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遺伝子の働きに「戦略」などというものはない。そこでは、未来の時間のことは想定されていない。つねに、「今ここ」をどう生きるか、という問題があるだけだ。
環境に対する不適合として存在しているこの身体は、「今ここ」においてけりをつけてしまわねばならない。未来にいいことが待っているとしても、そんなことはわかることではないし、それで「今ここ」が解決するわけでもない。
「今ここ」において不適合であれば、未来を持つことはできない。したがって、命(=遺伝子)のはたらきに「未来」の時間など組み込まれていないし、「戦略」などという未来を志向するはたらきもない。
われわれの遺伝子が半分しか機能していないということは、「節約戦略」ではない。半分しか機能できないほどに環境に適合していない、と解釈するべきだ。
遺伝子のはたらきに、あらかじめの「戦略」などない。「今ここ」の環境に対する反応としてはたらいているだけだろう。
そしてたぶん、生きものの命は、このレベルにおいて、もっともダイナミックにはたらくのだ。「節約」しているのではない。命のはたらきとは不適合を消去してゆくはたらきなのだから、不適合である状態において、もっともダイナミックにはたらく。
この世界にもっとも豊かにときめいている人は、もっとも深く嘆いている。
キリンは、サバンナの誰よりも深く首が長くないことを嘆き続けたから、首が長くなったのだ。
生き物は、環境に適合することを目指しているのではない。適合することは、命のはたらきが停滞してしまうことだ。命のはたらきのダイナミズムは、不適合を嘆き続けることにあり、生きてあることのカタルシスもそこから汲み上げられる。
人の心の動きだって、おそらくそういうことの上に起きている。
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まあこれが、進化や遺伝子に対する僕の大まかなかな感想であり、ひとまずそういう見当でこれからもっと考えていきたいと思っています。
人さまが読めばずいぶんいいかげんな書きざまなのだろうとは思うが、多少の修正はしても、このスタンスで考えていきたい。僕は、勝手なことや程度の低いことをいっているのかもしれないが、内田先生をはじめとする人たちよりはぶれていない自信はありますよ。
以前からずっと書き続けてきたことの延長で考えてみただけです。
この世でもっとも豊かに深く生きているのはもっとも弱く貧しい人たちで、そういうところから学びたいという立ち位置でいつも考えている。そして、今のところ誰かにこの立ち位置を決定的に突き崩されたという体験もしていないし、まだまだここを掘り進んでいきたいと思っています。
正義とか悟りとか人格とか知識とか、そんなものには興味はないのであり、悪いけど誰かのように天才とか偉人といわれる人物の尻を追いかけまわして何かを語ろうというような趣味はないのだ。
進化論とは、ようするに、この命はどういうところでもっとも豊かにはたらくのか、という問題だと思っています。生命維持の問題でも、知能や能力の問題でもない。それはたぶん、「嘆き」の上に立ったところで起こっているのであり、クラゲやアメーバの嘆きだってあるのだ、ということです。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
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