ずいぶん横道に逸れてしまったが、僕は、人類史における言語の発生からやまとことばの誕生までの過程を考えようとしていたのだった。
進化論について考えるときの僕の原則はこうだ。生き物は、環境に適合しようとしているのではなく、環境に対する不適合を生きようとしている。なぜなら、そこにおいてこそ命のはたらきのダイナミズムが起きているからだ。
人間の心の動きだって、根源的には、生き物であることのそうした与件の上に起きている。
ひところ「人間は本能が壊れた存在である」という言説が大いに幅をきかせたが、本能の何たるかもうまく説明できないできないくせに、ずいぶんあつかましい言い草である。生き物の根源に遡行できない思考停止した連中の、たんなる戯れ言にすぎない。
ようするに、人間は特別な存在だ、という古い古い人間中心主義から一歩も進んでいない悪しきアカデミズムの思考なのだ。だから、浅田彰をはじめとする多くのアカデミズムの学者連中に受け入れられていった。つまり彼らは、そうやってみずからの知能指数の高さを正当化し悦にいっていた、ということだ。
しかし、人間だって、生き物であることの与件の外に出た存在であるはずもなく、たとえ観念のはたらきであろうと、そうした与件の上に成り立っているにちがいないのだ。
       1<ミニスカートと環境に対する不適合>
すなわち、生き物の命が環境に対する不適合の上に成り立っているように、人間の心もまた、この世界と和解していない、ということだ。
われわれのこの身体は、世界と和解しないで孤立しているからこそ、かくも限度を超えて密集した群れをつくることができる。こんなに密集してもなお、生き物の根源的な存在の仕方である身体の孤立性をつくりあうことができるのであり、その機能としてことばが生まれてきたのだ。
どんなに群れが大きく密集しても、人間は、まださびしいのだ。人間がさびしい存在であるかぎり、どこまでも大きく密集した群れをつくってゆくことができる。
人間存在の孤立性……人は、この世界の空気をひりひりしたものに感じるときに生きた心地を汲み上げている。
ミニスカートとは、この世界の空気をひりひりしたものに感じさせてくれる衣装である。ただ見せびらかしているというわけではないが、人間存在は、すでに見つめられている存在なのだ。その存在の仕方を、ひりひりしたものにするアイテムとしてミニスカートが成り立っている。彼女らは、見られることがうれしいわけではないが、見られたくないのでもない。いや、見られたくはないのだが、「すでに見られている」という意識で生きようとしている。
ミニスカートは、そうしたダブルバインドの、いわば悲劇性の表現である。悲劇を生きていることの孤立性の表現である。
今どきの女子高生のスカートがあんなにも短くなってしまったのは、そこまでしないと身体がこの平和で豊かな世界にからめとられてしまって身体の孤立性を保てない、と感じているからだ。彼女らは、そういう不安を背負いながらこの現代社会を生きている。この世界と和解させられてしまったらおしまいだ、という思いが彼女らにはある。
それくらい平和で豊かな社会であり、それくらい大人たちがのさばって若者を監視・管理している社会でもある。彼女らは、そういうところから追いつめられながら、そこからの逸脱としてスカートを短くし、「かわいい」とときめいている。
世界と和解しないことによって人間の群れが成り立っている。そこにこそ人間としての生きた心地も醍醐味もあるということを彼女らは本能的に知っており、そうやってみずからの「身体の輪郭」を確保しようとしている。
彼女らのスカートがあんなにも短くなってしまうところまで追いつめているのは、いったい誰なのだ。
彼女らを追いつめている社会の構造がある。そういう構造を、大人たちがつくっている。
彼女らは、大人たちを無視している。無視することによって、その監視に耐えようとしている。大人たちに見られているという意識なんか持っていない。しかしだからこそ、あそこまで過激にスカートを短くしないと、「見られている」というひりひりした感覚が起きてこないのだ。
彼女らの無意識は、快適さを追及しようとする大人たちの社会的合意に抗して「不適合」を生きようとしている。それは近代合理主義に対する抵抗でもあり、彼女らをうながしているのは、生き物の自然であると同時に、それこそが人間の自然でもあるのだ。
生き物の根源に、環境に適合しようとする衝動などというものはない。それは、現代社会の観念制度にすぎない。そういう大人たちがつくる観念制度に対して、若者はつねに自然であろうとする。
ミニスカートは、少女たちの大人に対するレジスタンス(抵抗運動)なのだ。
それにしても人間社会は、いつからこんなにも強迫的に快適さを追及するようになってきたのだろう。
        2<トカトントン
トカトントン」という太宰治の小説がある。
終戦直後、朝目覚めると、いつも家を建てる大工のかなづちの音が「トカトントン」と聞こえてくる。その音が耳に残って主人公は、何をする気力もなくなってしまう、という話。
トカトントン」とは、うまいことをいう。ただの「トントン」ではない。大工が「トカトントン」と上手に細工している音だ。
しかし、この「細工」がくせものなのだ。人間は、この生を細工し、世界を細工してつくり変えてゆく。そうやって、生き物としての自然からどんどん逸脱してゆく。それが、主人公の気持ちを萎えさせる。なんとなくわかる。その音のせいで、自分の中の感動とかときめきという自然な心の動きの何もかもが無意味なものにさせられてしまうような心地がする。
戦争というのは、よりあからさまにこの生や世界を細工し、つくり変えようとする行為である。そういうことを散々やってきて、戦争が終わってもまたそんなことばかりしている。人間というのはなんと因果な生き物だろうか、と主人公は思う。やめてくれよ、と思う。そんなことばかりされると、毎日飲んだくれて成り行きまかせで暮らしている自分なんか、ここにいてはいけないのではないか、生きていてはいけないのではないか、と思えてくる。
女子高生のミニスカートも、ようするにこれと同じなのだ。この生や世界が快適なものであるのなら、私たちの気持ちはどんどん萎えていってしまう、と彼女らは訴えている。
飲んだくれていようとその日暮しであろうと、生き物の命なんか、この世界に適合できなくて、ただあぶくのように漂っているだけだ。しかし、その状態においてこそ、命はもっとも豊かにはたらいている。
なのに「トカトントン」と、命を細工し世界を細工して、命(身体)を世界にはめ込んでゆく。しかし、そんなことをされたら、若者は生きてゆけない。命の根源で、拒否反応がはたらいている。生き物は、世界に対する不適合を生きようとする。
       3<弱い存在になること>
身体が世界と適合していたら、命は動き出さない。不適合だから、その状態を何とかしようとして動き始めるのだ。命のはたらきのダイナミズムは、その状態にこそある。だから適合してまったら、あえて不適合の状態に戻ろうとする。そうやって直立二足歩行がはじまり、そうやって人類は地球の隅々まで拡散していった。そうやって、現代のこの国の女子高生は、短いスカートをはいている。それは世界に適合させられることへの拒否反応である。それが、生き物の命のはたらきの根源のかたちなのだ。本能なのだ。人間だってまぎれもなく生き物なのだもの、不適合を生きようとする本能は壊れていない。「トカトントン」という細工だけでは逃げ切れない。
直立二足歩行前夜の原初の人類の群れは、過剰に環境に適合してしまっていた。たとえば食うに困らないとか天敵がいないとか、おそらくそういう奇跡的な条件があった。だから、群れの個体数が限度を超えて増えてゆき、しかしそれでも食うに困らないから、余分な個体を追い出す理由がなかった。つまり、それでも余分な個体を見つけることができなかった。言い換えれば、限度を超えて密集しているのだから、余分といえば、全員が余分な存在だった。
そういう状況から、全員がいっせいに立ち上がっていった。ここは、大事なところだ。全員が余分な存在だったのだから、全員がいっせいに立ち上がっていった。二本の足で立ち上がることによって、たがいの身体のあいだの空間(すきま)が確保されていった。
それは、不安定によろけながら、胸・腹・性器等の急所をさらして、完全に戦う能力を喪失してしまう姿勢だったのだ。
つまり、いつ殺されても仕方のない姿勢だったのだ。だから、一頭だけが率先して立ち上がるわけにはいかない。もしそれが群れのボスだったら、たちまちボスの座から引き摺り下ろされてしまう。だってそれは、群れでいちばん弱い存在になる姿勢なのだもの。
みんなでいっせいに立ち上がらなければ、それは実現しない姿勢だった。
現在いわれている「生物多様性」の原則は「共存共貧」ということにあるのだとか。つまり、すべての種が弱い存在になってやっとこさ生きている状況において「生物多様性」が実現されている、ということだ。
そのとき直立二足歩行の開始は、自然の摂理である「生物多様性」の「共存共貧」を実現する行為だったのだ。そのとき人類は、本能を失ったのではなく、本能にしたがって立ち上がっていったのだ。意図なんか何もなかった。本能だから、気がついたら立ち上がっていたのだ。そうしてそれによって、たがいの身体のあいだに空間(すきま)が生まれたことを祝福しあっていったのだ。
また、そういういつ殺されても仕方のない姿勢だからこそ、のちに自殺や人殺しをする習性も生まれてきたのだ。
原初の人類は、直立二足歩行をはじめることによって、より「弱い」存在になったのであり、それが生き物の自然だった。
誰もが弱い存在になることによって、限度を超えて密集した群れが維持されていった。これが、人間が人間になった瞬間であり、ことばもまた、この限度を超えて密集した群れを維持する機能として生まれてきた。
      4<やまとことばの水源としての原始言語>
人間存在には、弱い存在になってしまったことの「嘆き」がまとわりついている。そういう「嘆き」を共有しながら、この限度を超えて密集した群れが成り立っている。
弱い存在になるということは、感慨が深くなるということである。今まで驚かなかったことに驚くようになり、悲しまなかったことに悲しむようになり、些細なことによろこんだりほっとしたりいらだったりするようになる。
感慨が深くなれば、その感慨とともに「声」が洩れるようになる。たくさん驚けば「きゃあ」といってしまうだろう。そんなようなことだ。直立二足歩行をはじめたことによって人類は、さまざまな感慨とともにさまざまなニュアンスの音声を洩らす存在になった。
意図なんか何もなかった。音声を発してしまってから、みずからの感慨に気づいてしまったのだ。そして他者も、同じような音声を発してしまった体験を持っているから、その音声とその意味をしだいに共有していった。
たとえば、驚いたり感動したときは、おおむね「うおっ」という声が洩れる。
「を」と「お」、やまとことばにおけるこの音韻は、「強調」の機能として使われることが多い。「うおっ」と驚く音韻だから、強調の機能として使われている。英語のような論理的な意味は、あまりない。
「飯を食う」とか「空を眺める」といえば、このときの「を」の使い方になにやら法則がありげだが、気分はただ、前のことばを強調しているだけだ。「大学に行っておけばよかったものを」というときの「を」は、残念な気持ちを強調しているだけである。
「をみな(女)」の「を」は、あとに続く「みな」を強調している。
「み」は、気持ちがやわらかくほぐれてゆくときにこぼれでてくる音韻。「身」「実」は、やわらかいもののこと。
「な」は、「愛着」の音韻。「なあ」と呼びかける感慨からこぼれ出てくる。「な、そうだろう?」というときの「な」も、愛着がこめられている。
「みな」とは、親しみ深い集合のさま。
女とは、やわらかい体をしていて世界や他者に深い愛着を示す存在である、というような意味だろうか。そういう「みな」を強調するように「を」がかぶせられている。
「うおっ」とか「おお」と驚いたり、「やあ」とか「よお」とか「なあ」と呼びかけたり、「うん」とか「ええ」とうなずいたり、「え?」といぶかったり、まあそういう思わずこぼれでてくる人間的な音声を、原始言語という。そして原始人は、この音声を集団内で共有していたのであり、共有してゆくことによってそれは「言語」になった。これらの音声は、何を伝えているのでもない。ただ、それを発するものも聞くものも、その現場においてその音声を共有してゆくことのカタルシスがあった。
そのとき、発するものも聞くものも、誰もが「聞く」ものとしてその音声にときめいていったのだ。つまり、誰もが「聞く」ものなのだから、従来の言語論の「意味の伝達」という機能として成り立っていたのではないことを意味する。
言語の発生は、「意味の伝達」の機能を持っていたのではない。意味を込めて発せられたのではない。思わず口の端からこぼれ出たのだ。そしてそれをみんなして共有してゆくことによって「ことば」になった。誰かひとりにの才能によってつくられたのではない。みんなが共有していることに気づいてゆくことによって「ことば」になったのだ。
直立二足歩行の起源と同じように、何か「意図」があったのではない。みんなが共有していることに気づくカタルシスが、それを「ことば」にしていったのだ。
そのように直立二足歩行もことばも、この限度を超えて密集した群れを成り立たせる機能として生まれてきたのだ。
彼らにとっては、食うことよりもこの限度を超えて密集した群れを成り立たせることのほうが第一義的な問題でありもっとも深いよろこびだったから、直立二足歩行もことばも生まれてきたのだ。
したがって、論理的には、ことばの発生は、直立二足歩行のはじまりからあまり間もない時期からはじまっていたことになる。
人類の知能が発達しはじめたのは、七百万年前に直立二足歩行をはじめてから四,五百万年たったあとのことらしいが、おそらく原始言語はそれ以前からはじまっていた。そのとき知能は発達していなくても、いろんなニュアンスの音声を発する奇妙な猿だったのかもしれない。
知能がことばを生み出したのではない。知能なんか発達していない段階でも、人間の集団であれば、ことばが生まれてくる契機ははらんでいたはずである。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
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