やまとことばと原始言語 5・教育とは人間の連携をつくる場である

直立二足歩行の起源がみんないっせいに立ち上がったことにあるように、歴史は天才によってつくられてきたのではなく、みんなでつくってきたのだ。というか、人がつくったのではなく、時代=環境によってつくられてきただけなのだ。
「人間にはロールモデル(お手本)が必要である」という言い方は、教育者にはとても都合がいいらしく、おおむね誰もがこんな主張をしている。子供は、大人や天才や偉人をお手本にして生きていきなさい、という。子供を大人にしてやるために「教育」があるという。
そして内田樹先生は、最新のブログでこんなことをいっておられる。
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人間が教育を受けるのは、「自己利益を増大させるためである」という考え方そのものが現代教育を損なっているということについては、これまでも繰り返し書いてきた。しつこいようだが、これが常識に登録されるまで、私は同じ主張を繰り返す。教育の受益者は本人ではない。直接的に教育から利益を引き出すのは、学校制度を有している社会集団全体である。共同体の存続のためには、成員たちを知性的・情緒的にある成熟レベルに導く制度が存在しなければならない。それは共同体が生き延びるために必須のものである。だから、子どもたちを教育する。いくらいやがっても教育する。文字が読めない、四則の計算ができない、外国語がわからない、集団行動ができない、規則に従うことができない、ただ自分の欲望に従って、自己利益の追求だけのために行動するような人間たちが社会の一定数を越えたら、その社会集団は崩壊する。だから「義務教育」なのだ。ほとんどの子どもたちは「義務教育」という言葉を誤解しているが、子どもには教育を受ける義務などない。大人たちに「子女に教育を受けさせる義務」が課せられているのである。それは子女に教育を受けさせることから直接受益するのは「大人たち」、すなわち社会集団全体だからである。社会集団には成熟したフルメンバーが継続的に供給される必要がある。学校は畢竟そのためのものである。
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まったく、鬱陶しい物言いではないか。
子供は、大人にならなければいけないのか。大人たちは、子供から子供らしさ、若者から若者らしさを奪って大人にしてしまう権利があるというのか。
内田先生、あなたはどうしてそんなくそあつかましいことがいえるのか。この世の若者や子供たちが、何が悲しくてあなたみたいなグロテスクな大人にならなければならないのか。
人がどんな動機で大学にいこうと、人それぞれの勝手じゃないですか。大学に行ったから社会の役に立つ人間にならなきゃいけない義理なんか、誰にもない。
学生たちはこういえばいい。「こっちは授業料を払ってお前らの生活を養っているんだぞ。いちいち勉学の動機まで指図するな」と。
ガールフレンドをつくるためだけに行ったっていいじゃないですか。かわいくて暇を持て余している女の子がいっぱいいるんだもの、そういう気にもなるだろうし、たしかにガールフレンドをつくるには便利な場所かもしれない。
この社会になぜ教育制度が生まれてきたのか。
共同体の正義を守り、共同体の繁栄を推進するためか。
そうじゃない。こういう論理は、本末転倒もいいとこなのだ。
共同体が高度で複雑になってくると、人々の知りたいこともいろいろ高度で複雑になってくる。人々のその要請にこたえて、教育制度が生まれてきたのだ。
内田先生のいっていることは、話があべこべなのだ。
法律家になりたくて、法学部に行くのだろう。法律家になりたい若者のために、法学部がつくられたのだろう。いくら共同体が法律家を養成しなければならないといっても、法律家になりたい若者がいなければ、その学部は成り立たないのである。
学校に行きたい若者がいなければ、いくら共同体の必要があっても学校なんか成り立たないのである。
学校に行きたい若者の要請にこたえて、学校が生まれてきたのだ。昔の塾とか寺子屋は、みんなそのようにして生まれてきたのだ。そこのところ、教育者は、肝に銘じておいたほうがいい。お前らの支配欲を満足させるために学校があるんじゃないんだぞ。
内田樹なんて、支配欲の権化なのだ。
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人は、「なぜ?」と問わずにいられない存在である。人間存在のそうした根源の要請から「教育」というシステムが生まれてきたのだ。
共同体の利益なんか、どうでもいいのだ。
共同体が利益を生み出そうとして人々を教育の場に引っ張り込もうとしても無駄なこと、はじめに利益を生み出している高度で複雑な共同体があり、その状況から教育の場に参加しようとする人々の衝動が生まれてくる。
若者がまじめに勉強しようとしないのなら、それは、共同体がそれに見合うだけの高度で複雑なかたちを持っていないからだ。それだけのことなのに、若者の劣等性をあれこれあげつらうなんて、ナンセンスだ。そうやって大人たちは、自分を正当化しようとしている。やつらが、他人をけなして自分を正当化するということばかりしている世の中なのだ。内田樹先生の「下流志向」という本は、まさにそういうことを主張している本なのですよ。それがどんなにグロテスクで下品な衝動の上に書かれてあるかということを、あなたたちはなんにもわかっていない。
若者の劣等性をあれこれあげつらって、若者を派遣社員にしたり若者を追いつめてノイローゼにして平気な会社や大人たちばかりの世の中で、人間について深く考えることができない大人ばかりの共同体であるのなら、教育の場に参加しようとする若者の意欲だって起きてこないに決まっているじゃないか。
誰だって、自分が「なぜ?」と問わずにいられない領域においては、それなりの探究心を持って生きている。それが、ガールフレンドをつかまえることであっても、他人がとやかくいえることではない。
個人的な利益の追求のために大学に行って何が悪いのか。
音楽大学の学生は音楽に興味があるのであって、社会の利益に興味があるのではない。
物理学部の生徒は物理学に興味があるのであって、社会の利益に興味があるのではない。授業料を払ったのなら、社会の利益に奉仕しなければならない義理なんか何もないのだ。
奨学金を借りたといっても、返せば文句はなかろう。ただでもらったわけじゃない。
教育や学問はほんらい、人々の「なぜ?」と問わずにいられない衝動の上に成り立っているのであって、共同体の繁栄のためにあるわけではない。
内田先生のこういう言い草には、まったく、腹が立つ。
>ほとんどの子どもたちは「義務教育」という言葉を誤解しているが、子どもには教育を受ける義務などない。大人たちに「子女に教育を受けさせる義務」が課せられているのである。それは子女に教育を受けさせることから直接受益するのは「大人たち」、すなわち社会集団全体だからである。<
子供が学校に行きたがるのは、みんなで何かを共有してゆくカタルシスがあるからであって、それこそが人間の根源的な情動だからだ。そしてそのカタルシスを供給するシステムとして、本来的な義務教育があるのだ。
大人たちや社会集団の利益のために義務教育があるのではない。そんなくそあつかましいことをいうな。
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内田先生がこんなことをいいたがるのは、ようするに彼の倒錯した歴史観からきているのだろう。歴史は、天才や偉人や大人たちによってつくられてきた。だから子供は、天才や偉人や大人たちをロールモデル(お手本)にして生きてゆかなければならない……といいたいのだ。
しかし、直立二足歩行の起源も言語の発生も、そうしたロールモデルが生み出したのではない。みんなで生み出してきたのであり、時代という環境が生み出したのだ。
人間社会に、猿山のボスみたいなロールモデル(お手本)など必要ない。みんなが弱い存在になってロールモデルを失ったところから、人間の歴史がはじまったのだ。だからこそわれわれは、直立二足歩行をはじめ、ことばを覚え、かくも限度を超えた群れをいとなむことができるようになってきたのだ。
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直立二足歩行の起源においては、みんないっせいに立ち上がった。
誰かボス的な一人が模範を示して立ち上がったのではない。なぜならその姿勢は、とても不安定で、胸・腹・性器等の急所をさらして攻撃されたらひとたまりもない姿勢だから、立ち上がった瞬間からその一人はボスの座から引きずりおろされてしまう。それは、誰よりも弱い存在になってしまう、ということなのである。したがって、誰かひとりが率先して立ち上がった、ということは原理的にありえない。
みんないっせいに弱い存在になったのだ。そしてまさにそれによって、他者にさらに深くときめくという体験をし、そこから猿にはない人間的な連携が生まれてゆき、群れはどんどん大きくなっていった。知能も発達していった。
人間の社会から国家が生まれてきたことの根源には、この体験がある。
人間の集団は、みんながいっせいに弱い存在になるというコンセプトの上に成り立っている。だからこそ、猿などには及びもつかない高度な連携が生まれてくる。
猿の集団は、一頭のリーダーが率いている。そういうかたちでは、連携プレーも、群れの規模を大きくしてゆくことにも限界がある。
つまり人間の群れは、ひとりの強いリーダーがみんなを率いて大きくしてきたのではない、ということだ。みんなが「弱さ」を共有しながらどんどん寄り集まってきたのだ。その弱さを利用して専制君主が生まれてくるのはずっと後の時代のことだし、弱さを共有していることが専制君主が生まれてくる地盤になっていったのだ。
たとえば、日本列島の国家の発生は、みんなが天皇という存在を祭り上げてゆくことによって生まれてきたのであって、天皇がみんなを支配してつくり上げていったのではない。だから天皇は今日まで存在し続けているのであり、今日の存在の仕方が、原初的なかたちだったのだ。天皇は、存続の危機に陥ると、つねに権力を放棄して生きのびてきた。それが天皇のほんらいの姿であり、天皇もまた「弱い」存在なのだ。
そうして江戸時代の武士の権力は、農民をはじめとする庶民が「弱さ」を共有してゆくことの上に成り立っていた。人間の群れは、根源において「弱さ」を共有してゆこうとする衝動を持っている。そして、だからこそ高度な連携が生まれてくる。
みんながいやいや嘆きながら生きて助け合ってゆくのが、いちばん人間的な社会なのだ。「共同体の利益」などという倒錯したお題目を振り上げながら天才や偉人や大人たちという立場の「強者」を正当化し、それをロールモデルにしてゆくことから、人間的な連携が生まれてくるのではない。強者であるという自覚からは、人間的な連携は生まれてこない。
人間の群れは、強いものをお手本にして成り立っているのではない。ひとまずみんなが弱いものになって、そこからの弱いものどうしが何かを共有してゆくことから生まれてくる連携プレーの上に成り立っているのだ。どんなに時代が新しくなろうと、これが、人間の群れの根源的なかたちである。
義務教育は、子供たちにその人間であることの根源的なカタルシスを体験させてやる場であり、その基礎の上に立って高等教育がはじまる。内田先生みたいに倒錯的なことばかり主張する大人たちがのさばって、子供たちにそういう基礎をちゃんと体験させてやっていないから、義務教育も高等教育も、あれこれの「ゆがみ」が生じているのだろう。
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現在の若者たちがあまり勉強したがらないのは、たがいに「弱いもの」になってゆくところから生まれてくる連携や友情の醍醐味に気づき始めているからだろう。人間だもの、そういうカタルシスを体験してしまうのだ。
人間は限度を超えて密集した群れをつくっている生き物だから、経済的な利益の追求としてのお勉強ができることよりも、連携や友情のほうが大切なのだ。彼らは、少なくとも現在の大人たちをロールモデルとしてそれを目指していない。だから、大人たちが「勉強しろ」といえばいうほどしなくなる。なぜ目指さないかといえば、大人たちが「強者」になってしまっているからだ。
経済や共同体の繁栄がいちばん大事だといい、それを体現している大人たちは「強者」にちがいない。しかし若者は、そういう意味での「強者」なんか目指さない。「人間の自然」としての連携や友情のほうが大切なのだ。彼らは、そういうところでカタルシスを体験しながら生きている。経済や共同体の繁栄なんか、当てにしていない。だから、そんなところで若者を説得し教育しようとしても無駄なだけだ。「強者」としての大人であることをディスプレイしたって無駄なことだ。
あえていってしまおうか。教育とは、人間の根源であるところの、みんなして何かを共有してゆくことのカタルシスを提供する行為である。
小学校の教室はもちろんのこと、大学のゼミでも、みんなしてひとつのテーマをああだこうだと議論しあうことのカタルシスを提供できているかということこそ、教育者の試金石になっているのではないだろうか。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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