ネアンデルタール縄文人に「大人」などいなかった。原始人の社会はみんなそうだった。
人間性の基礎というか人間の自然において、「大人」という人種など存在しない。
平均寿命が30数年というネアンデルタールの社会は、20代の若者が中心になって運営されていた。人類700万年の歴史はこうして流れてきたのであって、40代50代の「大人」が運営する社会が出現したのは、1万年前以降のことにすぎない。
日本列島では、大人社会は2500年の歴史しかない。それ以前の1万年続いた縄文社会は、20代の若者が中心になって運営されていたはずである。
日本列島には、「若衆宿」という若者の自治組織の伝統がある。この習俗は、日本ほど完成されていないが、世界中にある。それは、人間の社会がもともと20代の若者によって運営されてきたからだろう。
若者の興味の中心は、いつの時代も、恋とセックスと思いきり体を動かすことだろう。
村に災害が起こったら命知らずの若者が率先してこれに当たる。その代わり、「夜這い」などの多少の恋やセックスの放逸乱行は黙認されていた。そのようにしてこの国の「若衆宿」の伝統は、つい数十年前まで残っていた。
ネアンデルタールの社会だって、おそらく恋とセックスと冒険が中心の社会だったのだろう。彼らが、原始的な石器で果敢にマンモスなどの大型草食獣との肉弾戦を挑んでいったのは、若者らしいひとつの冒険だったに違いない。20代の若者が中心の社会だったから、こういう狩猟方法が追求されていったのだ。
また、氷河期の極寒の地では、そういう大型草食獣の脂肪分の多い肉を食べていないと生き残れなかった。
若者には、共同体を大きくして運営してゆこうというような志向はない。
だから、ネアンデルタール縄文人も、大きな共同体をつくろうとしなかった。
人々がもっとも結束して盛り上がってゆくことのできる集団は、100人から200人くらいのレベルだろう。若者は集団をつくるのが好きだが、大きな共同体をつくって運営してゆこうとするような、そんな支配欲権力欲はない。
人類の歴史は若者の「遊び」として流れてきたのであって、大人の生き延びようとする「労働」であったのではない。
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原始社会に階層などというものはなかった。それぞれの役割の違いがあっただけだ。リーダーだって、役割のひとつにすぎなかった。
共同体の階層としてのリーダーと、原始社会の役割としてのリーダーの違いはどこにあるか。前者の命令は強制力があり、したがって命令に従わないと罰が与えられる。一方後者の命令には強制力はないが、みんなで選んだリーダーだからそれに従おうという意思があらかじめ共有されている。ネアンデルタールの集団は、おおよそこのように運営されていたのだろう。「若衆宿」だって、みんなに慕われているものが、リーダーになっていった。
若者がつくる集団こそ、人間のつくる集団の基礎である。大きな共同体は規則によって運営されるが、小さな集団においては、リーダーが慕われていないと、どんなに規則で縛っても決してうまく動かない。
大きな共同体の秩序は規則によってつくれるが、小さな集団がうまく機能するためには、規則よりも連携プレーが必要になる。「〜してはいけない」とか「〜しなければならない」という規則で秩序はつくれるが、連携プレーのダイナミズムは心のつながりがなければ生まれない。
人間が集団をつくる生き物であるということの基礎は、高度な連携プレーを生み出すことにある。それが人間の社会性であり、それによって猿から分かたれたのだ。
われわれはひとまず共同体の規範にしたがって生きているが、ふだんの暮らしとしての仕事や遊びの場においては、この連携プレーを持てなければ何も充実しない。そしてこの連携プレーは若者の集団においてもっとも充実した成果が得られているのであって、規則を押し付け合う大人どうしの組織論にあるのではない。
福島の原発事故は大人の組織論によって抜き差しならない事態を招き、それを収拾できるのは現場で働く人たちの連携プレーだろう。
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ネアンデルタールは、集団で大型草食獣を窪地に追い込み、そこで肉弾戦を挑んでゆく、という狩をしていた。これには、高度な連携プレーと、若者らしい命知らずの冒険心が必要になる。発掘されるネアンデルタールの骨には、骨折などの怪我のあとがたくさんあらわれているのだとか。大人は、こんな無謀なことはしない。
ネアンデルタールが頑丈なムスティエ型の石器にこだわってなかなか繊細巧緻な新しい石器に移行しようとしなかったのは、肉弾戦が彼らの伝統だったからだ。彼らは、新しい石器を作る技術を獲得したあとも、なお主たる武器は頑丈なムスティエ型の石器だった。
アマゾン奥地の未開人の集落を訪れたレヴィ=ストロースは、彼らのリーダーに「リーダーであることのいちばんのよろこびは何か?」とたずねた。すると「戦争のときに真っ先に突っ込んでゆけることだ」という答えが返ってきた。この貴族精神にレヴィ=ストロース先生は大いに感心したのだが、そういうことじゃないんだなあ。彼らにとって死は親密なものであり、その瞬間にこそもっと血湧き肉躍るエクスタシーが体験できるからだ。それが、原始人の文化であり、若者の文化なのだ。
「若衆宿」の若者だって、山火事でもあれば、真っ先に火の中に飛び込んでいったのだ。
その勢いに呼応するように、よりダイナミックな結束と連携プレーが生まれてくる。原始社会の連携プレーは、そのような若者文化して成り立っていたはずである。
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ブラジルの子供と日本の子供とどちらがサッカーがうまいか。
ボールを蹴る技術だけなら、日本の子供の方がうまい。
でも、日本の子供はゲームになるとみんながすぐボールに寄っていってしまうのに対して、ブラジルの子供は抜け目なくボールが来るところで待っていることができる。このセンスの違いがある。
べつに、ブラジルの子供の方が知能指数が高いわけでもないだろう。
日本の子供はボールを蹴るのがうまいし人恋しいからパス交換の連携プレーをしたがる。ブラジルの子供は、他人なんか当てにしていない。人のいないところでボールをもらった方がプレーしやすいことをちゃんと知っていて、人のいないところに行こうとする習性を持っている。それはもしかしたら、奴隷として連れてこられた歴史を背負っているからかもしれない。いや、国そのものが、ポルトガルの支配から逃れるようにして独立したという歴史を持っている。
この国には、そんな伝統はない。原始的な人恋しさの上に立った連携プレーを洗練させてきただけである。
まあ、大人の文化と若者(子供)の文化の違い、といってもよい。
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人間性の基礎としての原始的な連携プレーは、若者文化としての人と人の心のつながりの上に成り立っている。大人社会のような規則(規範)の上に成り立っているのではない。
心と心が響き合うこと、それが人間的な連携プレーだ。
規則なんかない。
ネアンデルタールは、どのようにして狩の獲物を分け合っていたのか。
狩をした男たちに、最初の権利がある。中でも、最後に肉弾戦を挑んで仕留めたものに所有権がある。
チンパンジーはときどきコロブスという小型の猿をつかまえて食べる。寄ってたかって一匹を追い詰めてゆくのだが、最後のところで待ち構えていて捕まえたものが所有者になる。ブラジルサッカーのセンスである。
ではネアンデルタールも、この所有権を持ったものがみんなに分け与えたのか。
そうではないだろう。そんなことをしていたら、強い男ばかり生き残って、弱い女子供はどんどん先に死んでゆかねばならない。
何はさておいても、子供を生き延びさせてやることが最優先する社会だった。
狩の獲物は、死にそうなものから順番に食べていった。寒さに震えながら居留地に待っていた女子供から先に食べていったのだ。
現代人だって、グループで雪山で遭難したら、きっとそうするだろう。そういうことをネアンデルタールは、日常的にやっていたのだ。
人間社会は、二本の足で立ち上がって以来、つねに子供の死というリスクを背負って歴史を歩んできた。もともと弱い猿だった人間は、より弱いものを生きさせる文化を育てながら生き残ってきたのだ。
だから、未熟児として子供を産んでも育てることができた。
強いものが弱いものに分け与えるのが人間性の基礎であるのではない。それは、猿の文化だ。人間は、弱いものから先に食べさせようとする。
だから、東北大震災の被災者をみんなで助けようとする。べつにほっといてもいいのに、助けようとする。もうすぐ死にそうな老人なんかほっとけばいいのに、がんばって介護をしようとする。
人間社会が強いものだけが生き残るようにできていたら、とっくに人間は滅びている。人間は、同類であるチンパンジーよりずっと弱い猿だったのである。弱いものどうしがそんなことをしていたら、群れの個体数はどんどん減ってゆく。
人間は、弱いものをけんめいに生きさせようとする。それは、若者の文化なのだ。
大人たちは、働かないものや弱いものや劣ったものは死んでゆくしかないという規則(規範)の中で生きている。だから、若者を、そうならないようにと教育しようとする。
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人生において、人を人として肯定してゆく率直さは、10代の後半のころが一番ヴィヴィッドにはたらいている。このまま死ぬまで生きていければいちばんだが、大人になると、利害関係の付き合いとかのさまざまな人間関係に巻き込まれて、しだいにそういう率直さを失ってゆく。
人は、10代の後半ころになると、親の意識の影響下から解き放たれて、はじめて裸一貫のひとりの人間として他者と向き合うことができるようになる。つまり、「大人」であることと「大人」の影響下にあることとの貴重なはざまの季節なのだ。この季節を「青春」という。
この季節に人は、根源的な人間性に気づく。
もっとも人間的な連携プレーは、このころに体験する。このころに、本格的な人との関係に目覚め、生涯を決定するような恋や友情を体験したり、ボランティア活動に興味を持ち始めたりする。なんのかのといってもわれわれは、大人になってもこの季節をなぞりながら生きているのだ。
ネアンデルタールの世界には大人という人種がいなかったから、なお純粋にこの季節のままに生きて死んでいった。
人類史における最初の人間的な連携は、二本の足で立ち上がって、たがいに生き物としての弱みを見せ合いながら正面から向き合ったことにある。
人間は、弱みを見せ合いながら連携してゆく。
男も女も、弱みを見せることのできる人間の方が人に好かれる。
ネアンデルタールが死と背中合わせの環境の下で暮らしていたということはつまり、たがいに弱みを見せ合って生きていた、ということだ。そういうところではもう、規則なんかつくらなくても、自然にいちばん弱いものから順番に食べてゆくという習慣になってゆく。また狩においても、規則なんかつくらなくても、誰かが率先していちばん危険な役割を引き受けながら連携プレーが生まれてくる。危険な役割を引き受けるとは、弱みを見せる、ということである。弱みを見せる行為として、ほかのものを先に食べさせる。そのとき彼は、寒さと空腹の嘆きを女や子供たちと共有しようとした。
弱さを見せ合うとは、「嘆き」を共有する、ということだ。だから人間は、弱いものを助ける。そういうよろこびは、ぎりぎりの過酷な環境の下で生きたネアンデルタールが、いちばんよく知っている。

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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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