埋葬の起源・ネアンデルタール人と日本人・12


人類学でいう「ボトルネック現象」とは、ある集団が何かの理由でいったん小さくなってしまって遺伝の多様性を失い、前とは違うひとつの特徴的な形質を持った集団になってゆくことをいう。
たとえば100人の集団が5人になってしまったとしたら、その5人はその地域で生き残るための特徴的な形質を共有しているはずであり、その特徴が特化した集団になってゆく。
また逆に、いくつかの集団から生き残れない特徴を持ったものたちが飛び出してきて新しい集団をつくったとしたら、生き残れない形質・気質を持った集団になってゆく。その形質・気質を共有しながら、新しいかたちの集団をつくってゆく。
生き残ろうとする意欲も資質もしっかり持っているものたちは、そうした意欲や資質の薄いものは追い払おうとするし、薄いものたちはその集団から逃げ出そうとする。
そうやって人類の生息域は、外に外に、集団から逃げ出した(あるいは追い払われた)ものたちの新しい集団が生まれていった。この繰り返しの果てに地球の果てまで拡散していった。
それは、生き残れないものたちばかりの集団になってしまうかたちの、いわばボトルネック現象だった。そしてこの生き残れない体質・気質を共有した集団の方がより豊かな集団になってゆくというパラドックスをもたらすところが、人間の人間たるゆえんだ。
この気質は、ボトルネック現象として、拡散すればするほど特化していった。そこでは生き残れない気質を共有しているのだから、生き残ることが困難な住みにくい土地でもいとわなかった。みんなが、その住みにくさを受け入れていった。
生きられない土地で生きるためには、みんなで助け合わないといけない。その「生きられない」という「嘆き」を共有していることが、集団の連携になり結束力になっていった。個人の力では生き残れないものたちだから、助け合い連携してゆく。それが、住みにくい土地に住み着いてゆくことの醍醐味であり、この醍醐味とともに人類は拡散していった。
人類拡散は、拡散すればするほど生きることが困難になってゆくと同時に、豊かな連携を持った大きな集団になっていった。
そのようにして行き止まりの地にたどりついた人々、すなわち氷河期の北ヨーロッパネアンデルタール人は、体質的にも気質的にも、もっとも「生きられない」ことを受け入れてゆくメンタリティともっとも豊かに連携してゆくことができる生態を持っていた。
彼らは「生きられない」ことを共有している人たちだったから、人を殺そうとする衝動は持ちようがなかった。生きられない人間を殺す必要はない。殺さなくても死んでしまうのだ。彼らは「人間とは生きられない存在である」と思い定めて生きていたし、それが彼らの連携のエネルギーだった。
人類史は、最終的にはもっとも連携のエネルギーを持った北ヨーロッパがもっとも戦争の能力をそなえていった。
しかし戦争の生態から連携の文化が生まれてきたのではない。
人類で最初に戦争の生態を確立していったのは四大文明の地だが、そこにおいてもっと連携の文化が豊かに花開いていったのではないことは、その後の歴史が証明しているところである。
連携の文化は、最初から四大文明の地よりも行き止まりの地のヨーロッパや日本列島の方が豊かにそなえていたし、今でもそうなのだ。その連携の文化は、戦争によって生まれてきたのではない。人類拡散のなりゆきから生まれてきたのであり、連携の文化を豊かに持っていたから、四大文明の地よりも戦争が強くなっていっただけのこと。



僕は、この世の中には「人間の本性には殺意や憎悪の感情がある」とか「原始人は戦争ばかりしていた」というようなことを本気で信じている人がいることに対する実感がなかった。「そうはいうもののよくわからない」というのならなんとなくうなずけるが、自慢げにそれが動かしがたい真実であるかのように吹聴されると、アホだなあ、くだらないなあ、と思ってしまう。そんなことは、時代に踊らされて生きるしかない凡人・俗物の考えることだ。
現代の競争社会は、たしかに殺意や憎悪が生まれてくるような構造になっている。
しかし、人間を根源のところからというか、人類史の起源のところから考えてみれば、そんなことはありえない話なのだ。
というわけで、このことはちゃんと検証しておかないといけないと、あらためて思い知らされた。
もしもネアンデルタール人が戦争ばかりしている人たちであったのなら、アフリカからやってきたホモ・サピエンスの集団などあっという間に殲滅してしまったことだろう。戦争のための闘争心も組織力も、ネアンデルタール人の方がはるかにまさっていた。ホモ・サピエンスの方が武器においてまさっていたというのなら、そんなものはすぐに真似されてしまうわけで、原始的な戦争がもしあったとしたら、それは闘争心と連携の能力で優劣がついていったはずである。
氷河期明け以降のエジプト・メソポタミアで共同体(国家)が生まれてきたのが5千年前ころのことで、それから2千年後にはもうヨーロッパに追い付かれ、やがて逆転されていった。
アフリカのホモ・サピエンスがヨーロッパに移住していったのは4万年前ごろだといわれているのだが、そこから1万年以上たった後でもネアンデルタール的な集団は残っていた。たとえ武器が劣っていても、追い付くにはじゅうぶん過ぎる時間である。もしも蹴散らされたのなら、ネアンデルタール人だって黙って逃げてばかりいるものか。たかが石器の違いくらい、追い付くのに百年も必要としない。
とにかく闘争心や集団の連係プレーは、そうやって何万年も集団的な狩りを続けてきたネアンデルタール人の方がはるかに優れていたのだ。
そのころヨーロッパに移住していったアフリカ人など一人もいないし、ネアンデルタール人も、戦争ばかりしていたのではない。
そのころ北ヨーロッパで戦争ばかりしていたのなら、人類の最初の文明は北ヨーロッパから生まれてこないとつじつまが合わない。氷河期の彼らは、集団の連係プレーでマンモスなどの大型草食獣をを次々に倒していたのだ。
しかし彼らには、エジプト・メソポタミアの人々のような、戦争をしたがる殺意や憎悪などは持っていなかった。
人類拡散の行き止まりの地で育つのは、連携の文化である。連携しようとする衝動があるのなら、戦争をして相手を抹殺してしまうことなど発想しないだろう。連携の衝動は、戦争の衝動と逆立している。しかし戦争をするなら、最終的には連携の能力がものをいう。
北ヨーロッパが世界の戦争の時代の覇者になっていったからといって、大昔から戦争ばかりしていたわけではない。
まあ氷河期以前の原始時代は、世界中のどこも戦争などしていなかったのだ。せいぜい集団の中の余分な個体を追い払ったり逃げ出したりしていただけで、ネアンデルタール人の集団は、そういうことすらもせずにひたすら連携しようとしていった。
ネアンデルタール人は世界でいちばん過酷な環境で生きていた人々であり、しかも命知らずの狩りや出産の生態を持っていたわけで、彼らの社会ではたくさんの生きる能力を失った人が介護されていた。それはもう、考古学の発掘証拠として示されている。
彼らは、戦争よりも介護の意欲が旺盛な人々だった。そういう意欲が旺盛だったから、ひとつ間違えば死んでしまう狩りや出産に果敢に挑んでゆくことができたのだ。



人類発祥の地であるアフリカのサバンナでは、小集団で移動生活をしていた。このような生活では、生き残れない個体は置き去りにされたり、移動の途中で肉食獣に襲われたりするだけで、埋葬の生態はなかなか生まれてこない。
定住生活をすることによって、はじめて生きられない個体と一緒に暮らすという生態が生まれてくる。
ネアンデルタール人の社会では、余分な個体を追い払うことも見捨てるということもしなかった。行き止まりの地では、当然そういう生態になってゆく。もともと誰もが余分な個体として地球の果てまで拡散してきた集団なのだ。そういう遺伝子を共有しているというか、誰もが余分な個体であるという自覚を歴史の無意識として持っていた。そしてその原始人が生きられるはずがない厳しい環境の下では、誰もが明日には死んでしまうかもしれない存在であり、余分な個体だった。それはもう、狩りができる大人の男たちだって例外ではなかった。そういう男たちだって、夜になれば女と抱き合って眠らないと凍え死んでしまった。それは、女から介護されているということだ。誰もが介護し合って暮らしていた。介護し合わないと誰も生きられなかった。
現在の西洋人の抱き合って挨拶するという習性も、ネアンデルタール時代のそういう生態から生まれてきたのだろう。
彼らは、「生きられない」という自覚を共有した集団だった。老人や怪我をしたり病気になったりしたものだけではなく、誰もが生きられない存在だった。彼らにとって生きてあることは、介護をし介護をされることだった。かわいそうだから死にそうなものを介護したのではない。それは、当たり前の生きるいとなみだった。
人類学では、ネアンデルタール人が埋葬をはじめたことを、「生まれ変わり」とか「死後の世界」とか、何かそうした宗教的(あるいは象徴的)な思考をするようになったからだといわれているのだが、そんなことではない。それは、たんなる日常的な介護の延長の行為だった。
死にそうなものをけんめいに介護すれば、死んでしまったからといってそれでもういいというわけにはいかないだろう。死が納得できないとか、もっとなんとかできたのではないかという後悔とか、いろんな思いが残る。思いが残っているあいだは、そうかんたんに捨ててしまうわけにはいかない。だから、しばらくはそばに置いておいた。極寒の季節のもとでは、そうかんたんには腐らない。しかし永久に、というわけにはいかないし、それでもまだ思いが残るなら、自分たちの暮らす洞窟の下に埋めてさらに一緒に暮らしてゆこうとする。
起源としての埋葬は、死者と一緒に暮らす行為だった。それだけのことさ。死後の世界のイメージを持ったとか死に対する象徴思考を持ったとか、そういうしゃらくさい考え方はやめてくれよと思う。
その「死者と一緒に暮らす」という生態に、どれほど彼らの切実な思いがこめられていることか。それはもう象徴思考などというものよりずっと深く豊かな心の動きというか脳のはたらきだったのだ。
けんめいに介護をするという段階がなければ、埋葬の生態は生まれてこない。それは、ネアンデルタール人の社会におけるそういう切羽詰まった人と人の関係から生まれてきたのだ。



「象徴思考」などという概念を使ってわかった気になっている人類学者たちなど、みんなアホだと思う。ネアンデルタール人に対して失礼だ。
僕は、彼らの心がやさしかったといっているのではない。そういう行為をせずにいられない状況があった、といいたいのだ。そんな「象徴思考」などというしゃらくさい観念のはたらきだけで埋葬という行為がはじめられるものか。
「起源論」は、日常の生態の延長というか連続性で考えるべきであって、象徴思考を持ったからとか遺伝子の突然変異が起きたからとか、そういうことではないのである。
突然変異の遺伝子が生きやすい状況になっていたからその遺伝子が残っていったのであって、突然変異の遺伝子がイノベーションをもたらすのではない。突然変異の遺伝子は淘汰されてしまうのが通常の歴史なのだ。
あくまで日常の生態の延長でイノベーションが起きてくるのだ。
まあ、埋葬の起源は、ネアンデルタール人の社会における人と人の関係の問題であって、知能の進化などという問題ではない。原始人の生態やメンタリティに対する想像力や思考力が足りない連中が、そうやって安直に知能の進化などという結論ですませてしまおうとする。
ネアンデルタール人の社会には、けんめいに他者の介護をせずにいられない状況があった。行き止まりの地にたどり着いたものたちには、自然にそういうメンタリティと生態が生まれてくるような遺伝子というか歴史の無意識を持っていた。
戦争の衝動と介護の衝動は逆立する。戦争ばかりしている社会なら、介護の衝動も埋葬の生態も生まれてこない。
何はともあれネアンデルタール人の心は、埋葬をせずにいられない状況に追い詰められていたのだ。象徴思考を持ったとか知能が進化したということなどは、その「結果」のことであって、その生態が生まれてくる「契機=原因」としてあったのではない。



現代人なら誰しも憎悪や殺意を抱いてしまう体験はあるのかもしれない。しかし人間なら、その感情がフェードアウトしてゆく体験もしている。苦痛が消えてゆくとか、そういうフェードアウトの体験がなければ生き物は生きられない。フェードアウトを繰り返し、やがて死に向かってフェードアウトしてゆくのが生きるいとなみである。
ところがこの文明社会には、憎悪や殺意をフェードアウトしてゆくことができない人がいて、できない状況があり、そうやって戦争が起きてきた。
ネアンデルタール人は、フェードアウトのタッチの上に成り立っている社会だった。彼らは、死と背中合わせの環境で暮らしながら、命が消えてゆくものだということをいつも意識していた。フェードアウトこそ生きてあるかたちだということをよく知っていた。いちいち苦痛の記憶を引きずっていたら生きられなかった。例えば、寒いからといって洞窟の中にいつまでもじっとしているわけにはいかない。そんなことは忘れて狩りに出かけないと、みんなが飢えて死んでしまう。そしてそのマンモスの狩りで死にそうな目にあったからといって、マンモスの狩りはもうやめようというわけにはいかない。
ネアンデルタールの胎児は11カ月も胎内にいるから、出産は大変だ。初産の女は、死にそうな目に会う。しかしだからといって、二人目はもう産まないという発想はしなかった。
誰もが死と背中合わせの状況に置かれているのに、それを忘れて暮らしていた。忘れられないのなら南に移住してゆくはずだが、しなかった。
彼らは、その環境の過酷さと完全にフィットしていたわけではない。ろくな文明を持たないでしかも体毛を失っている原始人がフィットしてゆけるはずがない。その苛酷さを忘れる(フェードアウトしてゆく)ことができていただけだ。
彼らは、定住生活をしていたから、アフリカのサバンナのように体の弱ったものを置き去りにして移動してゆくこという習慣はなかった。だんだん体が弱って死んでゆくという現象を、いつも目の前にしていた。彼らは、人類で最初に死んでゆく命を見続けた人たちだった。そんな体験を何万年も繰り返していれば、そのあいだに手をこまねいて見ているだけではすまなくなり、やがて介護をして生き返らせるという生態も生まれてくるだろう。そして、死体に対する最後の介護として、埋葬という行為が生まれてきた。死体もまた、フェードアウトしてだんだん骨だけになってゆく。そこまで見届けようとしたのだ。
日本列島の昔にも、骨だけになるのを見届けてから埋葬するという「もがり」の習俗があった。これは、命がフェードアウトしてゆくことを見つめる体験である。
とにかく、「フェードアウト」という心の動きを持っていれば、憎悪や殺意という自我が肥大化して暴走してゆくという戦争の衝動なんか起きてくるはずがない。ネアンデルタール人の社会は、自我を薄く(フェードアウト)してゆく文化を持っていた。
氷河期の北ヨーロッパは、自我を薄くしておかなければ生きられなかった。現代は「人間とは自己意識である」などとくだらないことをいうアホがいっぱいいる世の中だが、その「自己意識=自我」を薄く(フェードアウト)してゆくことこそ日本列島の伝統であり、ネアンデルタール人の文化だった。人類の文化はそのようにして自我のフェードアウトとともに生まれてきたのであり、そちらの方がずっと高度で人間的な意識のはたらきなのだ。
ほんとうに知性や感性の才能を持った人や魅力的な人はみな、「自己意識=自我」を薄く(フェードアウト)してゆく作法を持っている。いやそれは、人類が普遍的にそなえている心の動きである。その心の動きによる生態が、ネアンデルタール人のところで極まり、それが現代まで続く人間性の基礎になっている。このことを考えるなら、彼らが戦争ばかりしていたはずがないし、現代人が憎悪や殺意の感情をフェードアウトできなくなっているとしたら、それはもう人間性を逸脱した病気なのだ。
そのネアンデルタール人のフェードアウトの作法は、日本列島においてもっとも色濃く引き継がれ、洗練されてきた。にもかかわらず今どきはそれができなくなっている人がたくさんいるということは、すでにその伝統を喪失してしまっているということだろうか。いや、喪失してしまっているわけではないが、フェードアウトできない人間の方が有利な社会になっているから、いろいろと生きにくいことが起きてくるのだろう。そしてなんのかのといってもこの国では、フェードアウトできない人間は嫌われる傾向にあり、そういうことを嫌う伝統がどこかに残っているのだろう。
憎悪や殺意は人間性の基礎であるといいたければ勝手にいえばいいが、そんなことが人類の真実ではないし、その程度のことしか考えられないという限界もおおいにある。戦争ばかりしていた四大文明の地はその程度のことしか考えられなくて停滞してゆき、やがてネアンデルタールの連携の文化を引き継いだヨーロッパに凌駕されていった。
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