現代社会の憂鬱・ネアンデルタール人と日本人・13


人間は、心の奥のどこかしらに生きてあることに対する幻滅=嘆きを抱えている。その幻滅=嘆きを共有しながら人間的な関係性が成り立っている。人間の、不安定で危険な二本の足で立つ姿勢は、不可避的にそうした幻滅=嘆きをもたらす。人間であるかぎり、そのことからはもう逃れられない。しかしそこから、人間的な知性や感性や人と人の関係が豊かに花開いてくる。
もしも人間が猿よりももっとときめき合う関係を持つことができる存在だとしたら、そうした嘆きを心の底に持っているからだ。
そしてそれは、「悩み」とか「絶望」などということとは違う。現代人は、人生や人との関係が自分の思うようにならないことに悩んだり絶望したりしている。しかし嘆きが深ければ、そんな欲望も希望も絶望も持たない。
自分の思うようにならないことに苛立って、憎悪や殺意を抱く。それは、自我の肥大化という問題だ。
現代人は、この生やこの世界を自分の思うようにつくりたがる。
しかしその前に、この生やこの世界はどうなっているのだろう、という問題がある。そうやってみずからの命や目の前の他者や世界と対話してゆくことを人間性というのだろう。そういうことができる嘆きを抱えているのを人間性というのだろう。
そういう人間であることの与件との対話を失ってなにもかも自分の思う通りにつくろうと発想してゆくことが、現代的な自我の肥大化という病理現象ではないだろうか。まあ社会的に成功した人たちはその流儀で生きてゆけるのだろうが、誰もがというわけにはいかないし、社会的な成功を失ったときに鬱病というかたちで大いに悩んだり絶望したりするということも起きてくる。また、自分の思うようにつくってゆかないといけないということがプレッシャーになって鬱の症状を招くこともある。現代は、そういう流儀の生き方を迫る社会の構造になっている。そのとき人は、みずからのうちなる生きてあることに対する幻滅=嘆きから裏切られている。人間はそういう流儀では生きられない存在なのに、そういう流儀で生きよと迫ってくる社会の構造がある。「希望」を失えば「絶望」に浸されなければならないという不安、強迫観念、それが鬱病を引き起している。
希望も絶望も悩みも必要ない。まあ人は、この生を嘆きながら、ちょっとだけ希望し、ちょっとだけ絶望し、ちょっとだけ欲望して生きている。
生命賛歌などというものは、社会的に成功したものや死ぬのが怖いものたちの勝手な「希望=欲望」にすぎない。彼らは生命賛歌という希望=欲望に邁進して生きている。しかしその背中には「絶望という鬱」がぴったり張り付いている。そういう人は、表情が乏しいか、わざとらしく大げさになったりする。
ほんとうに知性や感性が豊かな人や魅力的な人は、心の底に生きてあることに対する幻滅=嘆きを宿している。彼らは、希望や絶望や悩みにのめり込んだりはしない。
人間なんか滅びてしまってもいいのだ。滅びてしまってもいい存在だからこそ「今ここ」のこの世界や他者に深く豊かにときめかずにいられないのだ。少なくとも氷河期の北ヨーロッパを生き抜いたネアンデルタール人の社会の豊かさとダイナミズムは、そのようにして成り立っていた。
つまり、現代社会のむやみな生命賛歌が鬱病を引き起している。ネアンデルタール人には、自我の肥大化した現代人のような「悩み」も「希望」も「絶望」もなかった。ただもう「今ここ」があり、生きてあることに対する「嘆き」があっただけだ。
この世の中には、ネアンデルタール人と同じように、どんなに悲惨な境涯にあっても発狂しない人がいる。彼らの生の基調は、希望でも絶望でも悩みでもない。彼らの生の「嘆き」は、自我がフェードアウトしてゆく心の動きをもたらし、人間の知性や感性はそこから生まれてくる。



『悩む力』という本が一時期大いに売れたらしい。自意識過剰の男の悩みがそんなに立派か?笑わせてくれる。自分の思う通りにならないといって勝手に悩んでいるだけじゃないか。
それだけ悩んでいる人がたくさんいる社会なのだろうが、自分の悩みを正当化する前に、自分はどうしてこんなにも騒々しく悩んでしまうのだろう、という問いがあってもいい。そういう悩みを笑い飛ばしてしまうことができるのは、生命賛歌ではけっしてなく、じつは生きてあることに対する幻滅=嘆きなのだ。そこには、希望も絶望も悩みもない。そしてそこにこそ、この生や世界や他者に対して豊かに反応してゆく知性や感性のはたらきがある。
「悩む力」なんて、みずからの生との関係も世界や他者との関係も自分でつくろうとしているだけで、何も「反応」していないのだ。だから、その力の持ち主の表情に細かなニュアンスがなく、乏しいかわざとらしく大げさになるかしてしまう。
人間の心の動きには、たくさんのニュアンスがある。ただ悩めばいいというものではない。そうやって心が硬直して停滞してしまうことが、そんなに素晴らしいか。それは、人間的な心の動きを喪失している状態だともいえる。
人の心は、希望と絶望のあいだに無限のニュアンスがある。愛と憎しみのあいだに無限のニュアンスがある。



人間は心の底に生きてあることに対する幻滅=嘆きを持っているから、われを忘れて夢中になってゆくことに深いカタルシスを覚える。「人間とは自己意識である」というようなバカなことをいっている評論家もいたが、自分を忘れて夢中になってゆく(ときめいてゆく)という体験の醍醐味を知らないのだろう。たぶんこの「悩む力」の著者もそれを知らない。
「悩む」とは、自分にこだわる心の動きなのだろう。自分=この生は素晴らしいものであらねばならないという強迫観念だ。
自分を忘れるとは、自分が生きてあることを忘れるということである。そうやって「自分=生きてあること」に対する意識がフェードアウトしてゆくことがカタルシス(快楽)になる。
生きようとすることは、いまここの「生きてある」という状態に対する意識が希薄になって、未来の時間に向かってしまっている状態である。
たとえば、飯を食っているときに、われわれは飯を食おうとしているか?すでに食っているのだから、そのときに食おうとする衝動なんか論理的にいって起きるはずがない。そのときわれわれの意識は、すでに食っている状態のあとを追いかけなぞっているだけである。だからこそ、食っているものの味がわかる。意識が未来の時間に憑依してしまったら、味なんかわからない。
正しく生きようとか、とにかく作為的に生きている人は、味音痴の人が多いはずである。まあ、何事につけても世界に対する「反応」が希薄なのだ。そういう「作為=自分」を忘れてこの生のあとをなぞってゆく心にならなければ味なんかわからないし、実際われわれはそうやって食い物を味わっているのだ。
正しく生きようとして意識が未来にばかり向いている人は、この生を味わいつくす能力が欠落している。すなわちこの生やこの世界や他者に対する反応が希薄である。
彼らは、自分がどう生きるかということばかり考えている。世界や他者は自分の生のたんなる道具というか背景にすぎないと思っている。
しかし意識の根源的なはたらきは、はじめに世界や他者が存在し、それに反応してゆくようにできている。自分を忘れて反応してゆくのだ。
人は、正しく生きるために自分という意識を持っているのではない。自分を忘れる醍醐味味わうための装置として、自分という意識を持っているだけのこと。すなわち人間は、この生を忘れる醍醐味を味わうための装置として、この生や死を意識するようになってきたのだ。そうやって「自分」とか「生きよう」という意識がフェードアウトしてゆくことが人間の生きるいとなみなのだ。
フェードアウトのタッチを持っていないから悩まねばならないし、世界や他者に対する反応が鈍くなってしまう。そういう状態を、「鬱病」というのだろうか、よく知らないが。



悩みを解決するのではない。悩みはフェードアウトしてゆけばよい。
人は「解決」という答えを求めて袋小路に入ってゆく。
自分は社会的に成功した人間であらねばならない、人にちやほやされる存在であらねばならない、若くて健康であらねばならない、自分は死んではならない……そういう悩みは解決されるだろうか。そうやってつねに自分に対して命題を課し、自分をまさぐりながら生きてきた人は、自分を忘れるというフェードアウトのタッチを知らないから、そうした解決できない問題の袋小路に入ってゆく。彼らの自我は、悩みは解決しなければならない、という思い込みとともにある。解決できるはずのない悩みを解決しようとして、どんどん袋小路に入ってゆく。そして、そのような悩みを自覚していない。なんとなく憂鬱なのだ。彼らは、自分がとくべつな存在だと思いこんでいる。その思い込みが満たされないから憂鬱になる。その思い込みが満たされるという解決に向かってもがいている。彼らの解決はそこにしかない。そんな思いこみなど欲しがらなければいいのだが、それがなくなれば自分は自分でなくなってしまう。自分のことなんかかまわないというかたちでしか解決はないのに、あくまでも「自我を安定させる」というかたちで解決しようとする。
僕は現代社会の鬱病の治療法なんか何も知らないが、ようするに世界や他者に対する「反応」がスムーズに起きてくればいいのだろうし、それは、自我をフェードアウトさせてゆくというかたちでしか成り立たない。
そして自我をフェードアウトさせてゆくことこそ人間の自然なのだ。原初の人類はそうやって二本の足で立ち上がったのだし、ネアンデルタール人はその人間の自然を携えて、氷河期の北ヨーロッパという極限状況の中を暮していた。そこでは、自我をフェードアウトさせてゆくというタッチを持っていないと生きられなかった。彼らは、人間の自然の究極を生きた人々だった。彼らは、アフリカのホモ・サピエンスより知能が劣っていたわけでも文化が遅れていたのでもない。
われわれ現代人は、ネアンデルタール人から学ぶことがたくさんある。
何はともあれ、人間の自然は、自我を安定させることにあるのではなく、自我をフェードアウトさせてゆくことにあるのだ。そこから、世界や他者に豊かに反応してゆく心が生まれてくる。
この「フェードアウト」という言葉は、とても気になる。人間の普遍的な心の動きの問題であると同時に、日本列島の伝統文化のかたちでもあるのではないだろうか。そしてたぶんヨーロッパ人は、日本人のこのタッチがわかるのだ。
たとえば、小津安二郎の映画が欧米で高く評価されているのはそういうことだろうと思う。それはすべて、フェードアウトしてゆく人生の物語を描いている。ドイツの映画監督であるヴィム・ヴェンダースは、「小津作品は映画の聖域だ」といった。彼らはそこに「人間という体験」の普遍性を見ているらしい。
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