一体感と孤立性・ネアンデルタール人と日本人・11


「人間の自然状態は戦争をすることにある」だなんて、それでは猿の順位争いと一緒じゃないか。
僕はべつに、理想主義やセンチな感傷で「原始時代に戦争などなかった」といっているのではない。直立二足歩行の起源のところまでさかのぼって無限に思考実験を重ねてゆけば論理的にそう考えるしかない、といいたいのだ。
彼らは、「人間はおまえが考えるほど単純ではない」という。
戦争をしたがる心は複雑なのか。冗談じゃない。戦争をしない心の方がはるかに複雑で豊かで人間的なニュアンスを持っているのだ。
戦争をするほかない複雑な事情というのはきっとあるのだろう。しかしその複雑さに一挙にけりをつけてしまおうとする衝動によって戦争が起きるのだ。人間は戦争の衝動を持っているのではなく、複雑なニュアンスを生きることができない状態で戦争が起きてくるのだ。
現代人が心の奥に殺意や憎悪を秘めているのだとしたら、それは複雑だからではなく、複雑さを喪失しているからなのだ。そうして、仲良くするかいがみ合うか、仲良くするか無視するか、そういう二者択一的な関係になって、その中間の細かなあやで人と人の関係をつくることができなくなってきている。
人と人は、なれなれしく愛し合う必要もいがみ合う必要もない。どちらも自然ではない。その中間のさまざまな関係のあやにこそ、人間性がある。
愛するとか憎むとか支配するとか一体感を持つというようなことは、自我の肥大化によって生じる関係意識である。
もともと人と人の関係は、自我を薄く(フェードアウト)してゆくための装置だった。
人間は生きてあることのいたたまれなさを抱えた存在であり、その自我をフェードアウトさせてゆく装置として人と人の関係が機能している。生きてあることのいたたまれなさは、自分ひとりでは処理できない。自分を離れた人との関係や世界との関係によって鎮められる。



四大文明の地ではフェードアウトのタッチを失って自我が暴走していったあげくに共同体(国家)が生まれてきた。自我が暴走して憎悪や殺意に目覚め、あちこちで集団どうしの戦争が起きてきた。その結果として集団の組織力が高まり、共同体(国家)が生まれてきた。つまり、いち早く共同体(国家)になった集団がその地域を制していったのだ。
人類が戦争をしたがるほどの肥大化した自我を持つようになったのは氷河期明けのことだった。原始時代から戦争ばかりしていたのではないし、言語や埋葬や火の使用などの人間的な文化が戦争によって花開いてきたのでもない。それらは、自我をなだめる、すなわち自我がフェードアウトしてゆく装置として生まれてきた。
人間の本性=自然は自我をなだめることにあり、そこから人間的な文化が花開いてきた。
原始人は、住みやすい土地を求めて地球の隅々まで拡散していったのではない。住みにくさをいとわなかったからどこまでも拡散していったのだ。
住みやすい土地に執着すれば、自我が肥大化してくる。これが氷河期明けに起こってきたことで、住みにくい土地に住み着いてゆこうとするなら、自我は薄くなければならない。原始人は、自我を薄くしながらけんめいに住みにくい土地に住み着いていったのだ。自我がフェードアウトしてゆくタッチを持っていなければ、住みにくい土地に住み着いてゆくことはできないし、その住みにくい土地に住み着いているという追い詰められた心によって文化が花開いていったのだ。
人類の文化は、戦争によって花開いてきたのではない。では平和であればいいかといっても、現代社会は、競争という戦争の代替行為で動いているだけであって、人と人がときめき合ったり文化が花開いたりする源泉である自我を薄く(フェードアウト)してゆくタッチが希薄になっている。
人間は生きてあることから追い詰められている。その追い詰められているということをなだめる機能として知性や感性が発達してくるし、追い詰められてあることに耐えられない肥大化した自我が戦争をしたがる心をつくってゆく。
たとえば、その生きてあることのいたたまれなさをなだめる機能として人類は絵を描くことや歌うことや人と対話することを覚えていった。それはもう、子供の発達段階においてもそうだろう。しかし、あるときそういう発達段階に失敗して自我ばかりが肥大化してゆくという状況が生まれてきて、競争したり戦争をしたりすることが生まれてきたのだ。
自意識過剰というか自我の肥大化は、みずからの存在がこの生やこの世界から追い詰められているという孤立感を持つことに失敗して、自分で自分を追い詰めている状態である。
人間は、自分から追い詰められているのではなく、生きてあることから追い詰められている存在なのだ。いずれにせよ、「追い詰められる」というかたちでしか生きられない。そこから、それをなだめる機能として人と人の関係や学問や芸術が生まれてくるし、それに耐えられなくなって戦争や競争の躁状態になってゆく。
人間は、みずからの存在の孤立感の上に他者と関係を結んでゆく。しかし、他者との一体感に浸るということは、孤立感をなだめてゆく作法を持つことに失敗しているということであり、それは自我が肥大化している状態である。
自我の肥大化は、他者との一体感の上に育ってくる。このへんがややこしい。肥大化した自我の持ち主は、他者と出会うと一体感を希求する。その一体感の希求が、愛という共同体の組織力にもなれば殺意や憎悪にもなる。おそらくそうやって人類は、戦争と宗教の時代に突入していったのだろう。



ネアンデルタール人の自我は、戦争をするほどに肥大化していたか。
そんなはずがない。
彼らは、氷河期の極北の地という、原始人が暮らせるはずがないところで暮らしていた。寒さを忘れるためにいつもトランス状態で舞い上がっていたのかといえば、そんなことばかりしていたら、いずれ発狂して自滅してしまうだけである。恐怖のあまり塹壕をひとり飛び出して敵の砲弾の中に突っ走ってゆく兵士のようなものだ。生きられるはずがない極限状態に置かれていたがゆえに、その興奮を鎮める体験がなければ生きられなかった。
そこでは、乳幼児の死亡率が異常に高かった。そして乳児はある程度成長した状態で生まれてこないとそのあと生きられなかったから、母体の妊娠期間は現代人よりも一カ月くらい長かったといわれている。そうなるととうぜん難産になるわけで、母体も命がけだった。
彼らは、いつも死と隣り合わせだった。
大人の男たちだって、ひとつ間違えばこちらが死んでしまうようなマンモスなどの大型草食獣の狩りに挑んでいった。実際、それによって骨折したり死んでしまうことはいつも起きていた。おそらくそのとき、恐怖のあまりに無謀な動きをするのがいちばん危険だったのだろう。血を熱くたぎらせることは必要だったが、トランス状態に入ってしまうわけにはいかなかった。ふだんから死を怖れない気持ちになっていなければマンモスとの肉弾戦はできない。ただ興奮してトランス状態になってしまえばよいというものでもない。
まあ、狩りのことだけではない。平均寿命が三十数年という彼らの社会では、男も女も子供も、死を怖れては生きていられなかったし、誰もが他者の命のはたらきを助けようとする気持ちを持っていないと生きられなかった。それはつまり、自分が助けられて生きているという感慨でもある。
人間ひとりが一生をまっとうすることがどんなに大変なことかということを、誰もが骨身にしみて知っていた。そんな社会では、殺意とか憎悪をたぎらせている余裕などなかった。
温暖な気候の四大文明の地ではみずからの命を奪うものは人間(異民族)であったが、ネアンデルタール人の社会では、自然との関係においてすでに死と背中合わせだった。
彼らの命を奪うものは、人間ではなく、不毛で極寒の環境であり、みずからの身体そのものの自然だった。そうやって追い詰められていたその状況は、他者を殺しても解決にはならなかった。
ほおっておいても人はそのうちすぐに死んでしまう……そういう意識があれば、殺そうとする発想は生まれてこない。殺すよりも、人の命を助ける方が心は高揚する。助けようとする衝動が自然に生まれてくる社会だった。そしてそれによって、極限状態に置かれている興奮(自我)が鎮められる。
彼らの生きるいとなみは、興奮(=クライマックス)を目指すことではなく、興奮の鎮静、すなわち自我をフェードアウトさせてゆくことにあった。それはつまり、「戦争」と「介護」の違いなのだ。
彼らには、人が生きてあることに対する感動があった。
彼らが他者の援助や介護をすることは、自分がその他者の存在に癒されるという体験でもあった。死の恐怖という自我の肥大化は、自分ひとりだけでは収拾できない。他者の存在に癒されてはじめて自我が収束(フェードアウト)してゆく。他者の苦痛が収束してゆくことを目の前にすれば、死と背中合わせのみずからの命と和解する体験になる。
人間が他者の介護をするのは、その他者から深く癒されるからだ。べつに、かわいそうだからでも自己満足のためだからでもない。言いかえれば、被介護人は、介護するものを癒す存在になれなければ介護される資格はないということだ。人間の介護=被介護の関係は、根源的にはそのようにして成り立っているのであり、被介護人は先験的に介護される権利を持っているのではない。



僕は、ネアンデルタール人の心が清らかだったといっているのではない。人の命を助けようとする心の動きを持っていないと生きられない環境だった、といいたいだけだ。
彼らは、かんたんに死がやってくる命というものと、けんめいに和解しようとしていた。
現代社会にだって、生まれつき病弱とか障害を持っているとか、病気や老いによって死に瀕しているとか、死と向き合ったかたちで「今ここ」に存在している人はいくらでもいる。彼らはまさにネアンデルタール人と同じ状況に置かれているのであり、彼らの現在が何であれ、最終的には多くの人が命というものと和解してゆく。そうしないと死んでゆくことも生きることもできない。死と和解してゆくのが人間の自然であるのだが、自然であることをさせてくれない現代社会の構造がある。
今どき流行りの、自我を暴走させてまわりに迷惑をかけまくっている病人や障害者や老人が幸せというのでも、人間の自然だというわけでもあるまい。
ネアンデルタール人は、たとえ健康な体でもそういう死と背中合わせの状況に置かれて数十万年を生きてきた人たちだった。その長い歴史に洗われながら彼らがどのようなメンタリティになってゆき、どのような社会や人と人の関係をつくっていったか。
彼らの生のそういう切実さを想像し人間の自然というものを考えるなら、「原始人は戦争ばかりしていた」とか「ネアンデルタール人は滅んだ」などとかんたんにいってもらいたくないのだ。
心だって「自然淘汰」はあるのだ。自我は無限に肥大化してゆくのではなく、やがてフェードアウトしてゆくのが人間の自然であり、フェードアウトさせてゆくところから人間的な文化が発展してきたのだ。
自我が暴走してしまうなんて、人間の自然でもなんでもなく、凡人の世界のことだ。知性においても感性においても、ほんとに才能がある人は自我を薄くしてゆくタッチを持っている。自我(自意識)によって才能が育つのではない、自我(自意識)を薄くしてゆくタッチが才能を育てるのであり、それが人間の自然なのだ。
現代人は、追い詰められれば、状況が受け入れられなくて自我が暴走する。それは、人が自我をよりどころにして生きている社会の構造になっているからだろう。しかし最終的にはというか人間の自然状態においては、人はみずからの状況を受け入れ和解してゆく。
人間は、もともと追い詰められて存在している。追い詰められてその状況を受け入れながら二本の足で立ち上がっていったのだ。
ネアンデルタール人がその厳しい環境とぴったりフィットしていたと考えるべきではない。もともと南方種であった人間が、体毛を失いながらその環境と完全にフィットしてゆけるはずがない。
彼らは、そのころの人類で、もっとも環境から追い詰められている人々だった。そして人間は、自然状態において、追い詰められている状況を受け入れてゆく存在なのだ。フィットしていたからそこで暮らしていたのではない。追い詰められてあることを受け入れていったのだ。



生きられない生を生きてある人は、みずからの生と死をどのように思っているのだろうか、そして、他者の生と死をどのように感じているのだろうか……ネアンデルタール人がなぜ埋葬をはじめたのかとか、彼らが戦争をしていたかとか、そういう問題は、まずはこのことから問うていかなければならない。つまり、今どきの人類学なんか、彼らの世界観や生命観に思いをはせるということをしないで、現代人の物差しで中途半端に類型的な思考をしているだけである。
ネアンデルタール人には、戦争をしている余裕などなかった。彼らは、もっと切羽詰まったところで命と向き合っていた。戦争をしたがるほど死の恐怖をふくらませていては、生きてあることなんかできなかった。
平和が尊いといっても、その平和の尊さのために人は戦争をするのだ。平和の尊さに目覚めたことが、人類が戦争をするようになっていったきっかけだった。そのとき、平和の尊さに向けて集団が一体化していったのだ。
ネアンデルタール人が生きられない生を生きていたということは、身体の孤立性を切実に感じていたということだ。彼らは世界中のどの地域よりもたくさんの人が寄り集まって暮らしていたが、誰もが生きてあることから追い詰められているという身体の孤立性を抱えていた。他者を追い払ったり殺したりしないと身体の孤立性を確保できないというのではなく、先験的にその身体は孤立していた。
肥大化した自我は、はじめに他者との一体感があり、そこから身体の孤立性を獲得するために競争をしたり戦争をしたりしてゆく。肥大化した自我は、身体の孤立性を喪失している。生きられない生を生きているという自覚がなく、永遠に生きられることを希求する。そうやって死後の世界だの天国や極楽浄土だのといい出す。
それに対して薄い自我は、はじめに孤立性の自覚があり、その孤立性をなだめるために他者と関係してゆく。それが直立二足歩行の起源以来の人間性の基礎であり、人間的な人と人の関係も知性や感性も、身体の孤立性を「なだめる」機能として生まれ育ってくる。
原初の人類が二本の足で立ち上がったとき、身体は生きられないほどに不安定で危険だったが、それでも身体の孤立性がなだめられたのであり、その体験を基礎にして地球の隅々まで拡散していった。



まあ、こういっちゃなんだけど、世界中で僕ほど直立二足歩行の起源についてあれこれ経済原理の範疇を超えて思考実験を繰り返している人間はいないだろうと思っている。それは、そこに人間性の基礎があるとしか思えないからだが、現在の人類学は、そういう思考実験がなさすぎる。科学的に証明できないことだからといっても、人類学を考えるものがその問題を素通りしていいとはいえない。素通りできる薄っぺらな脳みそというのも、まあうらやましいといえばうらやましいのだが、それが人間性の基礎を考える上でどれほど大きな問題かということを、彼らは何もわかっていない。
原始人が戦争ばかりしていたかどうかという問題は、人間はどのようにして二本の足で立ち上がっていったかという問題でもある。
そしてネアンデルタール人は、二本の足で立っている猿としての与件を極限まで生きた人たちだった。人類は、そこでひとまず人間性の基礎を確立したのだ。
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