自我を薄くしてゆく・ネアンデルタール人と日本人・10


人間が「死」を意識する生き物だということは、自我を薄くしてゆこうとする作法を持っているということである。そうしないと、うまく死んでゆくことができない。
その作法は、人間なら誰もが持っている。自我の拡張の文化を持っている国の人々だって、人間なのだから、きっとどこかしらにその作法を持っている。
フェードアウトの美学、それは世界中の人が感じることができる。
フェードアウトの反対は、クライマックスに向かって盛り上がってゆくこと。
どちらも人の心に訴えかける仕掛けになるのだろうが、どちらを優先するかというお国柄の違いはあるのかもしれない。
では、原初の人類が二本の足で立ち上がっていったことはクライマックスに向かう体験だったのかといえば、必ずしもそうとはいえない。四足歩行の猿が二本の足で立てば、俊敏に動くことも敵と戦うこともできなくなってしまう。それは、猿としての生命力が拡張することではなく、衰退することだった。そのとき人類は、猿であることからフェードアウトしていったのだ。
死ぬことは、フェードアウトしてゆくことだろう。死んだことがなくても、それは何となくわかる。歳をとるとはそういうことだし、眠ることだってそうだろう。そして生きるといういとなみそのものが、息苦しいとか空腹だとかいう苦痛がフェードアウトしてゆくことだともいえる。
この生は、じっとしていると息苦しいとか空腹だとか、何かとぎくしゃくしてくる。それをならしてゆくのが、生きるいとなみであるのかもしれない。
人がそばにいるということだって鬱陶しくなってくる。その鬱陶しさをならすために原初の人類は二本の足で立ち上がり、やがて言葉を覚えていった。
「ならす」とは、フェードアウトしてゆくこと。それがこの生のいとなみの基礎であり、おそらくフェードアウトしてゆくこととして「死」が見出されていった。
いま僕は、この「フェードアウト」という概念を、人間性の根源を考える上でとても重要ではないかと思いはじめている。
べつに仏教のことなど興味もないが、ひとまず仏教では「寂滅」とか「涅槃」などという。それは、文明に対する批判として提出された概念だったのかもしれない。文明とは「クライマックス」を称揚して命のはたらきから逸脱してゆく現象だとすれば、命のはたらきの根源・本質は「寂滅」「涅槃」にある、ということだろうか。
べつに仏教がえらいというわけでもなく、クライマックスを称揚する文明社会から疎外されれば当然そのような世界観や生命観がイメージされてゆくというだけのことだし、そこにこそ人間の自然がある。まあ人類は、クライマックスを称揚する不自然で病理的な文明社会を持ったことによって「フェードアウト」という自然を再発見した、ということだろうか。
いずれにせよ人間の心は、根源において「フェードアウト」という現象に対する親密さを持っている。



クライマックスは、人の心を高揚させる。それはまあそうなのだが、心が荒れ狂ったり身動きとれないほどに沈んでしまうことだって、ひとつのクライマックスである。フェードアウトしてゆく心の動きを失って必要以上にクライマックスが称揚される社会では、そのような病理現象も抱え込まねばならない。おそらくそれが現代社会で問題にされている鬱病(あるいは躁鬱病)であり、氷河期明けの四大文明もまた、そのような問題を抱えていた。四大文明の発生は、人類の知能の進化というよりは、文明病の発生という問題なのだともいえる。
鬱病とは、脳の中の扁桃体という部分が過激に活動してしまうことらしい。クライマックスに向かう心の動きは、扁桃体のはたらきを活発にさせる。その機能は生命の危機的状態を知らせるはたらきであり、おそらくどんな生き物にもそなわっているのだろう。ただ人間は、それが恍惚=快楽にもなれば恐怖や不安にもなっているところがちょっとややこしい。
人間は、生命の危機的状態を志向する生態を持っている。
まあ、身体の苦痛が極まった危機的状態がクライマックスに向かう心の動きの基礎になり、苦痛が鎮まってゆくことがフェードアウトのイメージの基礎になっているのだろう。
感動して鳥肌が立つ、などというが、これも一種の生命の危機的状態である。
生命の危機的状態に立たされれば、血湧き肉が踊る。これは、ゴキブリやネズミが天敵から逃げるときだって同じである。そのとき、爆発的な力が生まれる。人間のように二本の足で立ってみずからの身体能力に制限を加えている存在は、なおさらそのような血湧き肉躍る身体活動に対するあこがれがある。それが生命の危機的状態においてはじめて起こる現象であっても、それでもあこがれずにいられない。冒険というのは、まさにそのような体験であるのだろう。
扁桃体は、べつに鬱病を引き起すためだけの機能として存在しているわけでもないだろう。人間は生命の危機的状況に対するあこがれが強く、しかもつねに危機的状態に遭遇してしまうような身体的に脆弱な存在だから、そのような心の動きが特化してゆくのだろう。
人間には天敵はいないといっても、人間の生まれたばかりの赤ん坊の身体なんか、四六時中身体の危機的状態に置かれている。そうしてそこで、血湧き肉躍る状態に対するあこがれが培養されてゆく。まあ彼らが懸命に泣いているのは、血湧き肉躍るクライマックスの状態かもしれない。
それが恍惚(快楽)であるにせよ、恐怖や不安であるにせよ、扁桃体で感じているのだろう。
扁桃体のはたらきが活発になって躁鬱病になる。
そして、「フェードアウト」の現象に対する親密さとともにその騒がしさが鎮まってゆく。



若くして人生のクライマックスを体験した人は、その後の人生で鬱病になりやすいといわれている。それは、クライマックスの恍惚が特化して、フェードアウトに対する親密さを失ってしまうからだろう。鬱状態も、ひとつのクライマックスなのだ。
人間の心は、クライマックスに憑依してしまうようにできている。しかしだからこそ、フェードアウトに対する親密さも持っていないとバランスを失ってしまうというか、心が恐怖や不安に覆われてしまったりする。
一般的には、「平等」という意識が扁桃体のはたらきを鎮めるといわれている。
この「平等」という概念はややこしい。
自分は人並だということで癒されるとはかぎらない。人並みだというそのことがその人を憂鬱にさせる場合もある。人並みでないはずの自分が人並みになってしまうなんて耐えられないことだと思いながら、憂鬱のクライマックスに入ってゆく。クライマックスの状態にあることがその人のアイデンティティになっている。ひといちばい憂鬱だということが、その人の自我を満足させている。彼はもう、自分を危機的状態=クライマックスに置かないと生きた心地がしない生態になってしまっている。
生き物の生のいとなみは、体を動かすことにせよ、身体の孤立性の上に成り立っている。他者と抱き合っていることは、身体の危機的状態である。その危機的状態が恍惚(快楽)になっている。
「他者との一体感」などというが、それは身体の危機的状態の恍惚である。危機的状態だから恍惚になるのだ。それはひとまず「平等」に浸っている状態のように見えて、おそらく扁桃体はおおいにざわついてしまっている。そのとき心は鎮まってゆくのではない、躁状態になって興奮している。
人間は他者と抱きしめ合うことによろこぶ生き物だが、じつはそれを一体感というクライマックスとして体験している場合と、そのとき他者の身体ばかり感じてみずからの身体に対する意識が消えてゆくフェードアウトとして体験している場合がある。このあたりの心の動きは、ややこしい。
「一体感」というクライマックスに憑依したがる観念は、鬱病になりやすい。それは、自我が縮小してフェードアウトしてゆく体験ではなく、自我が拡張するクライマックスの恍惚である。
世の中には、子供を膝の上に抱いてぼんやりテレビを見ているのが至福の瞬間だといっている人がいる。これはまさに、自分を忘れているのではなく、自我が無際限に拡張しているクライマックスの体験であり、一種の全能感である。そのときその人は、身体の孤立性の中にあるのではなく、抱いている子供の身体との一体感とともにみずからの身体の輪郭が無際限に膨張してゆく恍惚の中にいる。しかしそれはもう、心が停滞して鬱状態にいるのと同じである。
クライマックスとは、自我の拡大である。そういうことが習い性になっている観念は、すでに心の底が鬱に浸されている。自我が拡大すると、心が停滞する。自我が拡大すると、表情が乏しくなるか大げさになるかのどちらで、細かいところのニュアンスがなくなってしまう。
その細かいニュアンスは、自我がフェードアウトしてゆく心の動きとともにあらわれる。たとえば、自分では意識していないのに、「たのしそう」とか「かなしそう」とか「疲れているみたい」とか、そのようにして他人から悟られてしまう人は、自我のフェードアウトのタッチを持っている。
自我の強い人の表情は、わかりにくいかわかりやすいかのどちらかである。そうやって人から悟られないことが強みになるときもあれば、大げさにつくってわかってもらおうともする。まあ、心そのものが細かいニュアンスを喪失しているから、表情も乏しいか大げさかになる。自分でも気付かないうちに表情がこぼれてしまうということはない。そういう自我のフェードアウトともに起きてくる細かな心の動きがない。



やまとことばは、さまざまな感慨のあやから生まれてきた。やまとことばは、感慨のあやをあらわす言葉である。
そしてこれは、世界共通の言葉の起源のかたちでもある。原初の人類は、ほかの猿と違ってさまざまな音声を発する存在だった。それは、さまざまな心の動きをする存在だった、ということだ。そこから、さまざまな音声がこぼれ出て、やがて人間的な言葉になっていった。原初の言葉は、感慨の表出だった。怒りとかかなしみとかよろこびとかときめきとか驚きとかあわれみとか親しみとか、そういう感慨の表出として言葉が生まれてきた。
べつに、事物の意味をあらわすために言葉が生まれてきたのではない。そういう感慨の表出の言葉が、やがて事物の意味をあらわす言葉に転化していっただけのこと。
たとえば「ふゆ」という言葉は、原初においては心が震えて揺れる(=迷う)というニュアンスをあらわしていたが、やがて寒くてぶるぶる震える季節のことを「冬(ふゆ)」というようになっていった。
「あお」という言葉には、「ああ」とか「おお」という音声が思わず口の端からこぼれ出る万感の思いが込められていた。すなわちそれは原始人や古代人のあこがれやかなしみがこめられた言葉だったわけで、そこからやがてはるかに遠い空や海の色をあらわす「青(あお)」という言葉になっていった。
原始人は、そうやってさまざまなニュアンスの言葉を生み出してゆくほどに豊かな心の動きを持っていたし、他者の声や表情に対してそういう細かな心の動きのあやを感じ合っていた。彼らは、自我を薄くしながらさまざまな心の動きのあやをあらわし、それを感じ合ってゆく関係を持っていた。人類の言葉は、そういう関係から生まれてきた。
やまとことばは、そのような「感慨の表出」という人類の言葉の起源の伝統を引き継いでいる。
われわれ現代人よりも、古代人や原始人の方がずっと「心のあや」をよくわきまえていた。
そうやって言葉が生まれ育ってきた。それは、われわれ現代人よりもずっと心の動きが細やかで、自我を薄くしてゆくフェードアウトのタッチを持っていた、ということだ。



自我が肥大化すると、心の動きがおおざっぱになって、躁か鬱かの両極端になってしまう。それが現代人の心の動きであり、コミュニケーションの必要が称揚される社会であるということは、それだけ相手の心の動きを感じ合うという関係がもてなくなっていることを意味している。
たがいの心のあやを感じ合っていれば、そうそう殺意も憎しみも起きてこない。そういう微妙な心のあやを喪失し、それを相手に気づかれることもなく自分が気づいてゆくこともできなくなっているときに、殺意や憎悪が生まれてくる。
自分の中に微妙な心のあやがないから、他人の声や表情からそれを感じてゆくこともできない。そうして、人と人は殺意や憎悪を隠し持ちながら関係している、という人間観になってゆく。
他者の心がわからないとか自分の思う通りにならないまま他者との一体感に浸されているときに、殺意や憎悪が生まれてくる。殺意や憎悪は人に対するなれなれしさであり、人の心の動きを敏感に感じることができる人は、そうそうむやみになれなれしくできないし、そうそうむやみに殺意や憎悪は抱かない。
むやみに殺意や憎悪を抱いてしまう人は、人の心の動きに鈍感で、人との関係は意図してつくるものであって、たがいの心の動きを感じ合って生まれてくるものだとは思っていない。まあ現代人の多くは、人と人の関係をそのように作為的につくるものだと思っている。
自分の心の動きそのものが微妙なあやを欠いているから、他人の心のそのようなあやを感じることができなくて、むやみななれなれしさと殺意や憎悪のあいだで揺れ動いていしまう。そうして彼らは、自分の心そのものが作為的につくるものだと思っている。
たとえば内田樹先生をはじめとする世の人格者たちは作為的につくりあげた「正しい心」で生きていこうとしており、人間の自然状態の心は殺意や憎悪に満ちたものだと思っている。彼らは人間の自然状態の心のあやというものがわからないから、何もかも正しいか否かで裁こうとする。まあ、そういう人がいったん社会的な弱者の立場に置かれると鬱病を発症しやすい。彼らは「感じ合う」ということができないから、人にちやほやされていないと鬱に沈んでしまいそうな不安をいつも抱えている。ちやほやされる満足とは、人より優位に立っているといういわば差別意識である。
彼らは、ちやほやされるというクライマックスを欲しがる。「感じ合う」という「平等」を知らない。人に癒されるということがないから、その代償行為としてちやほやされたがるのだ。
人類は、自我が肥大化してきて戦争をするようになったのだ。そういう殺意や憎悪は、人間の本性(自然)であるのではない。
自我を薄く(フェードアウト)するとは、自我の肥大化による殺意とか憎悪とか全能感とか卑小感とかの極端な心の動きを平らにならしてゆくことにある。そうしてそこから、人間的なさまざまな心のあやが生まれてくる。それが、扁桃体のはたらきを落ち着かせる「平等」という概念である。そういう心のあやを持っていないと、なかなか人と感じ合うということはできない。
自我の薄い人の方が、微妙な心のあやを豊かにそなえており、それが表情の豊かさにもなっている。自我が肥大化すると、心の動きも表情も、乏しいか大げさで類型的かのどちらかになってゆく。そうして作為的にあれこれつくろうとしてゆくわけで、それが人をたらしこむ武器になることもあれば、見透かされて嫌われることにもなったりしている。まあなんにしても、誰もがそんなことばかりしていれば、人と人の関係はニュアンスが乏しく停滞したものになってゆく。
彼らはその停滞を「秩序」というのだが。
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