都市の起源(その三十二)・ネアンデルタール人論183

その三十二・生きられない弱いもの

氷河期の北ヨーロッパに住み着いていたネアンデルタール人は、「生きられなさ」を生きた人々だった。
人は、生きられなさを生きる存在なのだ。
人類は、生きられなさを生きる姿勢として二本の足で立ち上がり、生きられなさを生きながら地球の隅々まで拡散していった。
べつに移住していった先が住みよい土地だったのではない。拡散すればするほど、より住みにくい土地になっていった。それでも移住していったのが人類拡散の歴史だったのであり、おそらくそれはもう、700万年前に二本の足で立ち上がった直後からはじまっている。
考古学の証拠によれば、アフリカ中央部で生まれた人類がアフリカの外まで拡散してゆくのに4〜500万年かかっているのだが、それでもチンパンジーやゴリラがいまだにそこから一歩も踏み出していないことに比べれば、大きな違いだ。チンパンジーやゴリラは、そこで生きてゆく生態を確立していったが、人類は「生きられなさを生きる」生態を携えて、どんどん拡散していった。それは、そこに住み着くには大きなハンディキャップだったが、拡散してゆくにはきわめて有効な生態になった。「生きられなさを生きる」のだから、住みにくくてもかまわなかったのだ。
どんなに住みにくくても、それを受け入れてゆくことができるだけの、それに代わる醍醐味があった。それが、ここでいうところの「人と人が他愛なくときめき合う<祭りの賑わい>」だった。その「祭りの賑わい」の中で、住みにくさなど忘れていった。
その「祭りの賑わい」とともに、700万年後の氷河期明けに、無際限に人口が膨らんだ「都市」が生まれてきた。その密集しすぎた集団はもう、猿としての限度どころか、人間としても限度を超えているわけで、しかしその「生きられなさ」こそ、人を根源において生かしている状態というか状況なのだ。
人類拡散の果てに氷河期の北ヨーロッパにたどり着き住み着いていったネアンデルタール人こそ、人類史においてもっともラディカルに「生きられなさ」を生きた人々だった。「都市」の歴史は、そこからはじまっているともいえる。彼らは、その極限の「生きられなさ」の環境の中で、誰もが他愛なくときめき合う「祭りの賑わい」の文化をはぐくみながら住み着いていた。
まあ、終戦直後の東京だって同じで、そこは敗戦の傷跡を残した廃墟=荒野だったにもかかわらず、その人口は10年で2倍の700万人に膨れ上がった。それは、またたく間に衣食住の環境が整っていったからではなく、そこで生まれる「祭りの賑わい」に引き寄せられてどんどん人が集まってきたのであり、そのとき誰もが食うや食わずの「生きられなさ」を生きながら、そのお祭り騒ぎに浮かれていったのだ。つまり、ネアンデルタール人のように。


拡散の果ての氷河期の北ヨーロッパが、アフリカや中近東よりも住みよい土地だったはずがない。
集団的置換説の論者たちは、数万年前のアフリカのホモ・サピエンスは住みよい土地を求めてヨーロッパに移住していった、と合唱しているのだが、その人間観や歴史観そのものが、決定的に錯誤している。彼らの多くは、そのときネアンデルタール人がその厳しい環境に耐えきれず自滅していったなどといったりしているのだが、そこで50万年も生き残ってきた人たちの耐寒のノウハウが、いきなりそこにやってきたアフリカ人より劣っていたなどとどうしていえるのか。まったくバカげている。
氷河期ほどの寒さではない現在においてさえ、その地で暮らすことは「生きられなさを生きる」ことの醍醐味に気づいてゆく心の動きなしには成り立たないのであり、人間性の自然・本質としてとしてそういうことがないのなら、今ごろ人類は温暖な地にひしめき合っているに違いない。
人の心は、「生きられなさ」を生きながら華やぎときめいてゆく。人間的な「ときめき」、すなわち人間的な知性や感性の本質は、そういうところにある。
人類拡散の契機は、「住みよい土地を求めて」ということにあったのではないし、彼らがいうように「集団」で移住していったのでもない。ひとりひとりがもとの集団を離れてゆき、離れていった先で集団になっていっただけのこと。これはもう、近代のヨーロッパ人によるアメリカ大陸移住にしても、基本的にはそれぞれの個人または家族がアメリカ大陸で新しい集団をつくっていっただけだろう。
住み慣れた土地を離れようとしないのが集団の本能なのだ。だからこそ、住みにくいアメリカ大陸で新しい集団になってゆくことができた。そこで家族や個人どうしの「連携」の関係が生まれてくれば、どんなに住みにくくてもなんとかそこに住み着こうとするようになってゆく。そうしてやがて、物理的に精神的にも、そこがもっとも住みやすい土地になる。
しかし、それで終われば、ヨーロッパ人のアメリカ大陸移住はニューヨークを中心とした東海岸だけのことだったのだろうが、それだけでは終わらないのが人類拡散の歴史であり、とくに若者は、その住みやすさに倦んで集団を離れてゆこうともする。その住みやすさは、大人たちの既得権益の上に成り立っており、若者たちがそれにはじき出されるということも起きてくる。まあそのようにして、アメリカ大陸移住のムーブメントが際限なく広がっていった。
つまり人類拡散は、基本的には集団で移住してゆくということはありえないということだ。そして現代では、福島やチェルノブイリのように集団で強制移住させられることもあるが、それだってそこに戻って来ようとする人が少なからずいるということは、集団には移住してゆこうとする本能はない、ということを意味している。故郷は懐かしい。しかし「懐かしい」ということは、人は故郷を離れてしまう生態を持っている、ということでもある。そこに住み着こうとする心は、そこから離れてゆこうとする心でもある。そこのところがややこしい。
人は、集団の中にいられない気持ちを共有しながら、無際限に膨らんだ集団をつくってゆく。その気持ちを共有しているからこそ、無際限に膨らんだ集団になることができるのだ。
都市生活者は、「集団の中にはいられない」という気持ちを共有しながら、無際限に膨らんだ集団をつくっている。都市生活者は、「結束=団結」なんかできない。しかし、その集団からはぐれた気持ちを共有しながら「連携」してゆくことができる。


なんのかのといっても、文明史において、ヨーロッパの都市の「連携」の文化風土は、アラブ世界の「結束=団結」の文化風土を凌駕してきたのだ。戦争の歴史でいえば、それはもうアレキサンダー大王以来の伝統であり、つねに「連携」の能力によってアラブの大軍を圧倒してきた。中世から近代にかけてその人海戦術や物量作戦でバルカン半島周辺の地域まで領土を広げていったアラブ世界のオスマン帝国は、しかしヴェネチアという「連携戦術」に長けた小さな都市国家によってそこから先への侵略を阻まれているうちに、逆にヨーロッパの包囲網が押し寄せてきて、いったん獲得したヨーロッパの領土をすべて失っていった。ヨーロッパは、オスマン帝国のような大軍を組織することはできなかったが、オスマン帝国の脅威によって小国家どうしが連携してゆき、それがイタリア・フランス・ドイツ等の都市国家群を統合した近代国家になっていった。そうなればもう、オスマン帝国はヨーロッパの敵ではなかった。
ヨーロッパ的な「連携」の集団性は、オーケストラやコーラスのような音楽の面にもっともよくあらわれているし、男と女の「恋愛」という「連携」の文化も、まあアラブ世界よりははるかに多彩であるに違いない。ヨーロッパの男と女は、「連携」するが「結束」はしない。アラブの女が男に従属させられているのは、それはそれで高度な「結束」のかたちだともいえる。
アラブ世界は「聖地巡礼」の習俗の本家であり、それこそが彼らの「結束」という集団性の基礎的な生態になっているのだろう。それはおそらくアフリカ的な部族意識による「結束」をより大げさに膨らませていった観念のはたらきであり、彼らはもともと、アフリカ的な「結束」もヨーロッパ的な「連携」も「原則」として持っていないがゆえに、その表現がむやみに大げさで過激になってゆく。
つまり、アフリカ的な「結束」の集団性と、ヨーロッパの「連携」のそれとは、似ているようでいてじつは相矛盾した性格を持っている。「結束」してしまえば「連携」は高度になってゆかない。「連携」が高度にはたらいてゆくとき、ひとりひとりは孤立して存在している。まあ都市住民はみんながさびしく孤独だというのなら、それは、そこでこそもっとも高度な「連携」が生まれてくる、ということでもある。
数万年前のアフリカ中央部のホモ・サピエンスには、同じころのヨーロッパのネアンデルタール人のような「連携」の文化はなかった。前者は「部族」として予定調和的に「結束」していたが、それぞれが家族的小集団として別々に暮らしながら、「連携」はしていなかった。「連携」の不在の上に、その「結束」が成り立っていた。
そしてネアンデルタール人は、部族意識的な集団どうしのネットワークは持っていなかったが、個人や集団どうしがそのときその場で出会っていわば即興的に「連携」してゆく(=ときめき合ってゆく)文化生態は豊かにそなえていた。そしてそれなしに氷河期の北ヨーロッパという極寒の環境を潜り抜けることは不可能だったのであり、集団的置換説の権威であるらしいイギリスのストリンガーが主張する「クロマニヨン人は、部族的ネットワークをつくり、ときどき集まって会合を開いていた」というような悠長なことなどしていられなかったのだ。まったく、何をアホなことをいっているのだろう、と思う。
そこは、部族意識のアフリカ人がいきなり移住していって住み着けるような生やさしい環境ではなかったのであり、そのころヨーロッパに移住していったアフリカ人などひとりもいない。
アフリカ人よりももっと強力なアラブ人でさえヨーロッパを凌駕できなかったのだ。それはもう、歴史が証明するところではないか。
「都市」はほんらい、豊かな「連携」が生成している場であるがゆえに、「結束」してゆくことの不可能性も抱えている。つまり、むやみに人を支配したり説得したりして「結束」してゆこうとすることは都市生活の作法ではない、ということだ。つまり、誰もが「生きられない弱いもの」として生きるということ、その上に豊かな「連携」が生まれる。それこそが、原初の人類が二本の足で立ち上がったことの成果だった。
都市生活者は、「結束」なんかできない。「連携」する。
僕は、政治・経済のことにはあまり興味がない。だからここで考える都市論も、けっきょくは「人間とは何か?」という問題や「<あなた>と<わたし>の関係の自然や本質とは何か?」というような問題に、まあある意味矮小化してゆくほかない。
都市の政治や経済のことなどよくわからないし、興味もない。気になるのは、たとえば「人が人にときめくとはどういうことか?」というようなほんの些細なことであり、さらには「言葉」の本質は「伝達・説得」する機能にあるのではない、むしろ「伝達・説得」することの「不可能性」にこそそのはたらきの豊かさや本質がある、というようなことで、これらの問題はとてもややこしくて頭の中がこんがらがってしまいそうになるのだけれど、しかしそれを考えてゆけば、数万年前のアフリカ人がヨーロッパに移住していったということなどありえないのですよ。