都市の起源(その三十三)・ネアンデルタール人論184

その三十三・「監視」という制度


都市生活の作法のひとつに「干渉しない」あるいは「監視しない」ということがあるはずだが、都市にだって、ときどきそういうことばかりしたがる人がいる。
「ストーカー」といっても、事件を起こす人だけじゃなく、一般的な人間関係においても、「干渉したがり」「監視したがり」の人が少なからずいる。関係が親密になってくるとどんどんそういう傾向がエスカレートしてきて、かえって嫌われたり逃げられたりする。そのあげくに、ストーカー事件を起こす。あるいは、嫌われたり逃げられたりしたとたんに、ストーカーに変身するというか、ストーカーの正体をあらわす。
しかしそれは、犯罪者だけの傾向ではない。善良な市民だって、多かれ少なかれそういう傾向を抱えている。誰もが「干渉=監視しない」という都市生活の作法を知っているはずだが、知らず知らずいつの間にか「干渉(監視」してしまっている。
まあ、共同体の制度は「干渉=監視」することの上に成り立っているわけで、そういう社会の仕組みがそういうことをむやみにしたがる人を生み出している。
「干渉=監視」しないという作法は「原始的な都市集落」の生態であり、「干渉=監視」の心の動きは、それが「文明的な都市国家」へと変質してゆくことによって生まれてきた。
ネアンデルタール人のフリーセックスの社会では、集団および人と人の関係はつねに「離合集散」を繰り返していた。それは、「干渉=監視」するという関係が希薄だったからだ。そうしてそれが、現在の都市生活の作法として引き継がれている。現代の都市住民だって、それによって人と人の関係を豊かで深いものにし、この限度を超えて密集しすぎた集団の中に置かれていることに耐えているのだが、今どきは、あんまり「干渉」したり「監視」したりしないでくれ、と悲鳴を上げている人もたくさんいる。


まわりにたくさん人がいれば、鬱陶しいに決まっている。この鬱陶しさに耐えるためには、目の前の「あなた」ひとりに意識の焦点を結んで、まわりがぼやけて見えている状態になることだ。
あなたの姿が、どうしようもなく鮮やかに目に飛び込んでくる。それは、「あなた」を能動的に「見つめている」というより、(たとえ「あなた」の視線がどこを向いていようと)あなたの姿そのものから「見つめられている」ような、そういう受動的な状態であり、そうやってときめいている。
都市住民は「あなた」の姿の鮮やかさに見とれてしまうが、「あなた」を「監視」することはしない。すでに「見とれてしまっている」のだから、今さらのように「監視」しようとする欲望など持つ必要がない。あるいは、「監視」しようとする欲望を持たないから「見とれてしまう」状態になる、ともいえる。そういう無防備で、自我がからっぽの心に、「あなた」の姿が入り込んできて鮮やかに浮かび上がる。
現象学では「意識はつねに何かについての意識である」ということが定理のように扱われているが、これを裏返せばつまり、何かを意図的に見つめていれば、もはやそれ以外のものが目に入ってくることはない、ということだ。そうやって人は、ストーカーになる。まわりの世界に対する警戒心や緊張感が強すぎて、つねに意図的に何かを「見つめる=監視する」という習性になってしまっているからだ。
無防備になって何も見つめていないからこそ、景色のほうから目に飛び込んでくる。ストーカーになってしまったら、もはやそういう「思わず見とれてしまう」というような感動体験はない。そういう感動体験ができない心だからストーカーになってしまう、というべきか。
現代社会は、ストーカーを生み出してしまうような社会の構造になっている。家族であれ会社であれ学校であれ、人が人を「監視」し「干渉」したがる世の中になってしまっている。マスコミと民衆が一緒になって有名人のスキャンダルを追いかけまわしていることも、まあそういう病理的現象のあらわれかもしれない。
「監視」したがるとか、「干渉」したがるとか、「教育」したがるとか、人を裁きたがるとか、優越感を持ちたがるとか、それらは都市の問題というより、現代社会の構造の問題なのだろう。現代の都市は現代社会の構造に侵食されている、ということはいえるのかもしれないが。
相手を裁いて、みずからの「監視・干渉」の欲望を正当化する。かんたんに相手を裁いてしまう人がたくさんいる。善か悪か、正しいか間違っているか、幸せか不幸か、賢いか愚かか、そんな二項対立の安直な問題設定でしか考えないから平気で裁くことができるのであり、そうさせてしまう社会の構造がある。
無防備でぼんやりした若者や子供たちは、「監視・干渉」の欲望の強い大人たちの格好の餌食になってしまう。しかし、無防備でぼんやりしていないと都市では生きられないし、その態度からこそ豊かな「ときめき」が生まれてくる。都市生活者はもともとそういう存在だからこそ、たがいに相手を生かし合うという「連携」の関係を豊かに体験するのだが、現在の都市はそのようには生きさせてくれない。つまり、そうやって現在の都市は「監視・干渉」の欲望を肥大化させる社会の構造に侵蝕されてしまっている、ということだ。
たとえば、「監視・干渉」したがる今どきの大人たちに、「何だろう?」と問い続けて生きている若者や子供たちの心が蝕まれている。
ともあれ都市住民の心は、「監視・干渉」したがりの社会の制度性に対してあまりにも無力だ。そのあげくにみずから「監視・干渉」したがりの人間になって生き延びようとしてゆくものもいれば、「もう生きられない」と深く傷つけられているものもいる。
それでもしかし、都市生活の作法の伝統というのは誰の中にも今なお歴史の無意識として潜んでいる。都市は「監視・干渉」しない作法の上に成り立っている空間だからこそ、「監視・干渉」したがる社会の制度性にたやすく侵蝕されてしまう。現在の都市に「監視・干渉」したがる「ミーイズム」というか「過剰な自意識」がはびこっているということそれ自体が、「監視・干渉」しないことが都市の伝統の作法であることの証しなのだ。
都市住民は、誰も見つめない。だからこそ、目の前の「あなた」に見とれてしまう。
われわれは、「生きられない愚かで弱いもの」として生きることができるか。