人類の歴史はどこに行こうとしているのか。このごろよくそんなことが語られる。
現代社会は、制度的にも精神的にも行き詰ってきている。
資本主義も、なんだかあやしくなってきている。
でもそれは、そんなに悪いことではない。
現代社会は、大人たちがつくった。そういう「大人の論理」があやしくなってきている。
人類の寿命は、もともと30数年しかなかった。だから原始時代は、20代の若者が中心になって社会が運営されてきた。
人類の社会に大人という人種があらわれこの社会の運営の主導権を持つようになってきたのは、人類700万年の歴史のたった1万年前以後のことで、つい最近のことにすぎない。日本列島においては、弥生時代以降の2千数百年の歴史しかない。
大人たちは、共同体(国家)をつくって、人を支配することを覚えていった。これ以後若者たちは、大人に支配される歴史を歩まねばならなかった。彼らは、大人たちに「庇を貸して母屋を乗っ取られた」ようなものだ。若者こそ、人類社会の先住民であり、大人なんか新参の侵略者にすぎない。
若者の大人に対する反抗は、人類700万年の歴史の伝統の上に成り立っている。
もしもポストモダンの新しい社会がやってくるとすれば、それは、若者によって発想されるだろう。なぜなら若者の方が「人間とは何か」ということを根源において知っているからだ。若者こそ、人類の歴史の正当な継承者である。
もう、大人の脳みそでは無理だ。大人の脳みそが、こんな世界にしてしまったのだ。
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人類がアフリカを出て拡散していったのは200万年前ころで、ナイル川下流域からイスラエルなどの西アジアに拡散していった痕跡は、考古学の発掘調査で確かめられている。
現在、ユーラシア大陸のもっとも古い人類遺跡は、中央アジアグルジア共和国で180万年前ころのものが発見されている。
しかし、西アジアを通過するルートで拡散していったのだとすれば、西アジアにはもっと古い遺跡があるはずで、そのころそのあたりにはもっとたくさんの人類が住んでいたに違いない。
アフリカから直接グルジアまで集団で移住していったということはあり得ない。
人間は住み着こうとする生き物であり、拡散してゆくのは、つねに集団のはぐれ者であったはずだ。
であれば、西アジアには、200万年前からつねに人の住む集落があったに違いない。
ただ、現在の考古学者は、洞窟ばかり調べている。人類が洞窟暮らしをするようになったのは、おそらく50万年前に氷河期の北ヨーロッパに住み着いたものたちがはじめたことで、その暮らし方が西アジアまで伝わったのはそれ以後のことになる。
現在の西アジアはすでにそうとう砂漠化してしまっているが、200万年前は、緑豊かな土地だった。人間はもともと森に棲む動物だったのだから、そのころは洞窟ではなく森を棲み処としていたはずである。
森のあとを調べなければ200万年前の遺跡は出てこない。
洞窟から出てくるのは、およそ20万年前以降の骨ばかりだ。
そしてその骨はネアンデルタールのものがほとんどで、ネアンデルタールがヨーロッパから南下してきたのだろうと言われていたりする。
これは嘘だ。
西アジアには西アジアの人々が200年前からずっと住みついていたのだ。ただ、北からネアンデルタールの遺伝子が伝播してきて彼らもネアンデルタールのような形質になっていっただけだろう。
なんといっても、そのころの人類が氷河期を生きるには、ネアンデルタールの遺伝子のキャリアが圧倒的に有利だったのだ。
西アジアでも、氷河期になれば、年間の平均気温が10度以上下がったと言われている。冬になれば、氷点下になることもあったのだろう。高い山には氷河もあった。
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西アジアの洞窟では、ホモ・サピエンスの形質をした骨も発掘されている。年代は、13万年前から7万年前の温暖期のものである。気候が温暖になれば、ホモ・サピエンスの遺伝子のキャリアでも生き残れるし、こちらの方が長生きできるからそういう個体が増えてゆく。
しかし、ネアンデルタールの形質も混じった紛らわしい骨もたくさん出ている。
けっきょくこの地域の人々は、つねに両方の遺伝子が伝播してくる場所にいるから、その形質も環境の変化によってネアンデルタールのようになったりホモ・サピエンスのようになったりしていたのだろう。
しかしほとんどの人類学者は、そのつどどちらかがやってきて相手を追い出した、というようなことを言っている。
たとえば、寒冷期にはネアンデルタールがヨーロッパから降りてきて、ホモ・サピエンスはその洞窟を放棄してアフリカに逃げていった、などといっているのだが、そんなことがあるはずがない。
西アジアには、200万年前からずっと西アジア人がいたというだけのこと。
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侵略していって相手を追い払う……近代になってヨーロッパからアメリカ大陸に移住していった白人が先住民を追い払うというようなことを、原始人もしていたというのか。こういうことを人間は人間性の本質として持っているとでも思っているのか。まったく、世の人類学者の考えることというのは安直で薄っぺらだ。
チンパンジーは、みずからの群れのテリトリーと隣の群れのテリトリーのあいだに「オーバーラップゾーン」という重なり合う部分を持ち、その緊張関係で対立共存している。だから、両者の力関係に差が出てくれば、力のある方がどんどんテリトリーを広げて相手を追いやってしまう。
現在の中国やイスラエルなどは、まさにこの「猿の論理」で領土を拡大していっている。
しかし、直立二足歩行をはじめたころの人類は、この「猿の論理」から決別し、たがいのテリトリーのあいだに緩衝地帯というべき「空間=すきま」をつくって共存してゆくという習性になっていった。
チンパンジーの「オーバーラップゾーン」が体をぶつけ合っている状態だとすれば、そこから二本の足で立ち上がることは、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくる行為である。こうして人類は、チンパンジーの習性から決別した。
チンパンジーは身体をぶつけ合っていても平気だが、人間はそうはいかない。
人間は、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくっていないと不安になる生き物であり、その「空間=すきま」を共有してゆくことに安堵とよろこびを見出してゆく生き物である。
トランプや将棋とか子供のメンコやベーゴマ回しとかおはじきやあやとりとか、そうした遊びはすべて、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を止揚してゆく行為として成り立っている。
人類の交易は、集落と集落のあいだの「空間=すきま」の地域ではじまった。これが、「市場(バザール)」の起源である。
貨幣だって、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」で機能しているのであり、この「空間=すきま」をつくって止揚してゆくことこそ、猿から分かたれた人間性の基礎になっているのだ。
二本の足で立ち上がることは、とても不安定な姿勢であるうえに、向き合った相手に胸・腹・性器等の急所をさらしてしまうことである。それでも人間は正面から向き合って「関係」をつくってゆく。
そのように「弱み」を見せ合いながらたがいの身体のあいだの「空間=すきま」を確保し止揚してゆくのが人と人の関係の根源的なかたちであり、そういうところから文化や文明が発達してきたのだ。
であれば、そうした人間性の根源のかたちを残していた原始人が、相手を追い払うというようなことをするはずがない。
よそ者として移住していったとしても、相手の生活圏とのあいだに「空間=すきま」をつくりながら居留地を選ぶはずである。直立二足歩行する人間は、そうしないではいられない本性を持っているのだ。
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20万年前から1万年前までのイスラエル・シリア・トルコ・イラクなどの中東の回廊の地域に、ヨーロッパとアフリカから集団がやってきて陣取り合戦をしていただなんて、ほんとにあなたたちの考えることは愚劣すぎる。西アジアには、西アジアの人が200万年前からずっと住んでいたのであり、彼らの骨格が数万年周期でホモ・サピエンス的になったりネアンデルタール的になったりしていただけなのだ。
人間をなんだと思っているのか。人間は猿ではないのだぞ。猿の論理でそんなくだらない歴史認識を示されても、誰がうなずくものか。
人間の骨格なんか、環境によってかんたんに変わってゆくのだ。江戸時代の男の平均身長が155センチで、現在は170センチを超えようとしている。たった150年で、こんなにも変わるのだ。数万年単位のことならどれほど変わっても不思議でもなんでもないだろう。
この中東の回廊における発掘結果に関しては、世界中の人類学者のほとんどが追い出しただの追い出されただのという猿の論理で語っている。この国においてはなおさらそんな意見が大勢を占めている。
ほんとに、どいつもこいつもあほじゃないかと思う。文句があるなら、プロだろうとアマチュアだろうと、どうか言ってきていただきたい。いくらでも相手になってやる。
あなたたちは「人間とは何か」ということの基礎的な考察がまったくなっていないのだ。
イギリスのC・ストリンガーだろうとこの国の赤澤威教授だろうと、あなたたちの薄っぺらな脳みそでこの問題を考えることは無理なのだ。
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二本の足で立っている人間は、他者の身体とのあいだに「空間=すきま=緩衝地帯」をつくろうとする。
したがって、原始時代に、一方の集団が相手の集団を追い出しただの追い出されただのということは起こるはずがない。そういう猿の論理は、1万年前以降に「大人」という人種が社会の実権を握るようになってから起こってきたことにすぎない。
氷河期以前の原始時代は、世界中の人口が数百万人だったと言われている。つまり、土地なんか有り余っていたのだ。わざわざ追い払う必要なんか何もなかった。
原初の人類は、群れの余分な個体を追い払うことをやめて、二本の足で立ち上がっていったのだ。二本の足で立ち上がれば、それぞれの身体の占めるスペースが少なくなって、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を確保することができた。ここから人間の歴史がはじまったのであり、これが人間性の基礎だ。
二本の足で立ち上がることの恍惚は、この「空間=すきま」を他者と共有し、ときめいてゆくことにある。
相手がいなければ、この「空間=すきま」はつくれない。人間は、根源的に他者との関係の中に置かれている。だったら、追い払うだの追い払われただのという理屈が成り立つはずないじゃないか。
相手を追い払うより、相手とのあいだに「空間=すきま」をつくりながら、そこで相手に対する親密感とともに「遊び」を見出してゆくのが人間の本性であり、これが、原始人の行動様式だった。
そしてそれは、原始人の知能が劣っていたからではない。寿命が30数年しかなかった原始人の社会は20代の若者が中心になって運営されていたからだ。
若者は、大人よりもずっと人間性の基礎を残しており、大人よりもずっと「遊び」が好きな人種である。
人は、大人になって「労働」を覚え、追い出しただの追い出されただのという猿の論理で共同体の運営に参加してゆく。若者と大人とのあいだには、そうした深い断絶が横たわっている。若者が大人になるためには、この川を渡ってゆかねばならない。
現代社会においてそれはもう避けられないことかもしれないが、大人の中に人間性の本質があるとか、労働こそ人間の本質であるとか、そんな論理が真実であるのではない。そんな論理をそのまま当てはめて原始時代の人類の歴史を語っても、嘘ばかりになってしまう。
大人たちは、若者のの領分を侵略し、「早く大人になれ」と急(せ)き立てる。若者を大人にして自分の支配下に置こうとする。こういう制度的な思考が骨身に染み付いた人種たちが、ホモ・サピエンスネアンデルタールを追い出しただのという愚にもつかないへりくつを振りかざしていい気になっている。こういう発想しかできない貧しさが、近代合理主義の限界である。
この世の凡庸な人類学者たちの語っていることなんか嘘ばっかりだ、と僕は思う。

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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
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