人間という猿が、二本の足で立ちあがれば、胸・腹・性器等の急所が相手の前にさらされてしまう。人間は、たがいに弱みを見せ合いながら存在している。正面から向き合うことがいちばん危険なのに、それでも正面から向き合い見つめ合おうとする。そういう流儀で原初の人類は700万年の歴史を歩んできたのだ。
およそ4万年前ころに、アフリカのホモ・サピエンス(クロマニヨン)がヨーロッパ大陸に上陸してゆき、原住民であるネアンデルタールを追い払い滅ぼしてしまった……というようなことを本気で信じている人類学者が世界中にたくさんいる。
しかも、上陸していったホモ・サピエンスの数は、ヨーロッパ全土に50万人くらいいたネアンデルタールの10倍くらいだったという。
まったく、どうしてこんな安手の漫画みたいなことを当たり前のように信じることができるのだろう。
現在の考古学の発掘状況から推測して、そのころヨーロッパよりもアフリカの人口密度の方が高かったとはいえない。
7万年前ころから氷河期がはじまり、純粋なホモ・サピエンスの集団だったアフリカの人口は激減していった。なぜなら、乳幼児期をゆっくり成長してゆくという特徴を持ったホモ・サピエンスの遺伝子の赤ん坊では冬を越せないからだ。
南アフリカは赤道直下ではないからもともと気候は比較的温暖で、年間の平均気温が10度以上下がるという氷河期になれば、相応の過酷な寒さを体験しなければならなくなり、人口が激減した。
逆に赤道直下では酷暑がなくって過ごしやすくなったということもあって、人口はそのあたりに集中していった。現在のアフリカ人が酷暑の赤道直下にもたくさん住んでいるのは、おそらく氷河期の名残りなのだろう。ほんらいなら、温暖な北と南に人口が集中して、酷暑の赤道直下は人が少なくてもいいはずである。しかし、現在のアフリカの人口分布は、そのようにはなっていない。
また、アフリカ人は、あまり地元を離れたがらず、ほかの部族と関係することもいやがる傾向がある。それはそうだろう、酷暑の赤道直下で暮らしていれば、動くのは面倒だし、大きな集団になることも暑苦しい。
アフリカでは、中央アフリカと南北アフリカでは、あまり血が混じり合っていない。中央アフリカではすらりとした高身長の二グロ族が中心で、南はそれほど背が高くないホッテントットなどの部族が多い。そして北は、ヨーロッパ系の彫の深い顔をしたコーカソイドという人種が中心である。
氷河期に入ったそのころ、南アフリカでは大きく人口を減らしたが、北アフリカネアンデルタールの遺伝子が伝播してきて、衰退を免れていた。そうして氷河期明けもそのまま文化を発展させて中東やヨーロッパに対抗できる勢力になっていった。もちろん、人類学者がいうように、その地域にヨーロッパのネアンデルタールがやってきたのではない。ネアンデルタールの遺伝子が伝播してきただけのことで、彼らはずっと昔から北アフリカに住みついていたものたちだった。
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ともあれ、7万年前の氷河期に突入して以降、アフリカのホモ・サピエンスの遺伝子は、温暖な中央部の地域に固定化されて身動きできなくなっていった。
成長が遅いホモ・サピエンスの遺伝子の乳幼児では、アフリカ中央部以外の土地の冬を越すことができなかった。
そのころヨーロッパから北アフリカまでの地域の人類は、すべてネアンデルタール的な形質になっていた。
もちろん中東の回廊でも、7万年前から3万年前までの期間は、ネアンデルタールの形質の骨しか発見されていない。
ところが、ヨーロッパで、3万年前ころに突然ホモ・サピエンスの遺伝子を持った個体があらわれる。
人類学では、これが謎だとされている。
もしもホモ・サピエンスの集団が人口を増やしながら北上していったのなら、当然北アフリカや中東の回廊もホモ・サピエンスの集団で埋め尽くされていなければならないのに、そのあたりは依然としてネアンデルタールばかりなのだ。そうして、ヨーロッパで降ってわいたように突然ホモ・サピエンスの遺伝子があらわれる。
「置換説」の首謀者のひとりであるイギリスのストリンガーなどは、北アフリカから中東にいたホモ・サピエンスが全員ヨーロッパに移住していったのだ、といっている。
まったく、アホか、という以外にどんな感想を持てばいいのか。
東北大震災のようなあんな手ひどい被害をこうむった人々でも、まだ故郷に残ろうとしているのである。もしもホモ・サピエンスが全員いなくなったのなら、その地域に住んでいる人間なんかいないはずだ。その土地にいちばん順応できるのは、その土地に昔から住んでいた人々である。その人たちが放棄するほどのひどいところなら、ほかのだれも住めない。
しかし、そのころ北アフリカや中東の回廊は、緑豊かな土地だったのである。ヨーロッパなんかよりずっと住みよいところだったのだ。はぐれ者がヨーロッパに逃げてゆくということはあっても、全員がそこからいなくなるということなどあるはずがない。
何より、ホモ・サピエンスの遺伝子のキャリアはアフリカの赤道直下でしか暮らせない時代だったのであれば、どうしてよりによって中東よりももっと生き残る確率の低いヨーロッパに北上してゆかなければならないか。
はじめに「置換説」ありきで考えているから、そういう愚にもつかないこじつけをしなければならなくなる。
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まあ、そのころ氷河期の中だるみで、5万年前ころから2万5千年前ころの期間は、比較的温暖になっていた。
それでも中東の回廊では依然としてネアンデルタールの形質ばかりだったわけで、なのに、もっと住みにくいはずのヨーロッパで突然ホモ・サピエンスの遺伝子のキャリアがあらわれたのだ。
中央アフリカホモ・サピエンス北アフリカや中東の回廊を素通りしていきなりヨーロッパにあらわれたのか。
そんなはずはない。北アフリカでさえ生き残れない人種が、どうしてさらに北の地であるヨーロッパで生き残ることができよう。
おそらくこれは、子育ての問題も絡んでいる。
ホモ・サピエンスの遺伝子の乳幼児は中東の回廊では生き残れなかったが、ヨーロッパでは生き残ることができた。なぜなら、ヨーロッパの方が子育ての文化が進化していたからだ。
彼らは、氷河期の極北の地の次から次に乳幼児が死んでゆく環境の下で、懸命に乳幼児を育てる文化というか技術をはぐくんできた。もともとほかの地域の乳幼児以上に寒さに対する耐久力があった上に子育ての技術文化も進んでいたから、気候が多少なりとも温暖化してくれば、ホモ・サピエンスの遺伝子のキャリアになっても、なんとか生き残ることができた。中東の回廊とのあいだに、そういう差があったのだろう。
では、その遺伝子はどのように伝播していったか。北アフリカや中東の回廊でも、ごく少数はホモ・サピエンスの遺伝子が引き継がれていたのだろう。
アフリカ北部では、中央アフリカの純粋ホモ・サピエンスと交雑する機会は少なからずあったに違いない。多少の骨格の違いはあっても、肌の色も似たような同じアフリカ人なのだ。そのネアンデルタール系の集団にも、ホモ・サピエンスの遺伝子はまぎれこんでいった。ただ、主流の血脈にはなれなかった。どちらかというとひ弱な体だから、集団からはじき出されるようにして周辺の集団のもとに身を寄せてゆくようになる。そのようにして、細々とヨーロッパまでその遺伝子が伝わっていったのだろう。
そしてヨーロッパで突然開花し、ヨーロッパ人(ネアンデルタール)の主流を占める血脈になっていった。何しろその遺伝子のキャリアは、大事に育ててやれば、とても長生きしたのだ。
そのころ。石器文化はアフリカの方がモダンで繊細なつくりに進化していた。このオーリニヤック文化という石器が、遺伝子の伝播と軌を一にするようにヨーロッパまで伝播していった。氷河期にになって群れの個体数が減少し、女を交換するという集団どうしの関係もどんどん発展していったのかもしれない。
原始社会においては、集団どうしが向き合えば、まず女を交換するということが発想されるのであって、追い払うだの追い払われるだのというややこしい関係にはならないのだ。
狭い世界で生きていれば、外の世界の女の方が魅力的に見えるに決まっている。人間でなくとも、生き物はそうやって近親相姦の停滞を回避しているのだ。べつに、近親相姦はよくないと思うからではない。自然にそうなってゆくだけのこと。
隣の集落からちょいと風変りな風貌を持った女がやってくれば、男たちはよろこんで歓迎する。そうやって、ひ弱なホモ・サピエンスの遺伝子がしぶとくヨーロッパまで伝わっていったのだろう。
直立二足歩行する人間は、弱みを見せて向き合っている存在である。はじめて会えば、どちらもまず、おそれときめきがまじりあった気持ちで向き合う。そうして互いに身体の間の「空間=隙間」を関係を作ろうと試みる、そうして、ものを交換したり女を交換したりすることが発想されてゆく。
最初から「あいつらを追い出してやろう」などという計画は立てない。現代人がさんざん侵略し合う関係をを重ねているからといって、それを原始時代から続けてきたとは限らない。続けてきたのなら、反省して、今ごろはもう少しましな世界をつくっている。
原始人は、人間性の根源ゆえに、まず相手の身体とのあいだに「空間=すきま」をつくろうとする。追い出すところまで接近してゆかない。
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新しい石器文化は、4万年前くらいにギリシアブルガリアなどのバルカン半島に上陸した。しかしそこでたちまち集団がホモ・サピエンスの形質に変わっていったという発掘証拠はない。
ヨーロッパでホモ・サピエンスの形質の集団が確認されているのは、それから1万年後の3万年前の遺跡からである。
この1万年の空白は、まだ埋められていない。もしも圧倒的多数のホモ・サピエンスが植民してきたというのなら、この1万年も続々その骨が出てくるはずである。
新しい石器は伝わってきたけど、集団の形質はどこもまだネアンデルタールの形質だったのだ。それはつまり、ヨーロッパのネアンデルタールでさえ、この長生きするがひ弱な遺伝子を自分たちのものにするのに1万年かかったということだろう。さすがのネアンデルタールでも、すぐには、この新しい遺伝子を受け継いだ乳幼児が成人することはできなかったのかもしれない。しかし、しだいに育て上げることができるようになっていったのは、50万年前から極北の地の艱難辛苦を生き抜いてきた伝統の力だったのだろう。
ともあれ、そのようにして両者の血は混じっていったのであり、3万年前以後も、どちらの骨か素人ではわかりずらく紛らわしいものがたくさん出てきている。
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とりあえず現在までの発掘状況では、ヨーロッパでホモ・サピエンスの形質の集団があらわれた3万年前に、中東の回廊ではまだホモ・サピエンスの集団が見つかっていない。
アフリカ人の集団が旅をして人口を増やしながらヨーロッパに上陸していったという前提で考えるなら、これはたしかに「謎」だろう。
しかしわれわれは、それほど不思議なことだとも思わない。何はともあれヨーロッパのネアンデルタールが、もっとも豊かに冬を乗り切る体力と手あつい子育ての文化をそなえていたからだろう。
そりゃあ北ヨーロッパネアンデルタールは、世界中のどの地域よりもしんどい思いをして歴史を歩んできたのだもの、世界中のどの地域よりも文化は進んでいた。
そのとき、ネアンデルタールホモ・サピエンスの遺伝子のキャリアに変わっただけである。そんなことは、1世代で達成されるのだ。とくに北ヨーロッパでは、ネアンデルタールの体質を残していなければだれも生き残れなかった。中東の回廊でさえネアンデルタールの形質でなければ生き残れなかった時代である。アフリカの純粋ホモ・サピエンスがいきなり北ヨーロッパに行って生き残れるわけがない。そのころ純粋ホモ・サピエンスは、南アフリカで大きく人口を減らしているのである。
最終氷河期は2万5千年前から1万3千年前まで続いた。
このときは激烈な寒さだった。ネアンデルタールの体質と文化を残していたから、ようやく乗り切ることができたのだ。
とはいえ、いったん全員がホモ・サピエンスの遺伝子を持ってしまったら、もう後戻りはできなかった。おそらく乳幼児の死亡率は、かつてないほどの高さになっていたことだろう。この過酷な環境を生きることの「嘆き」から、洞窟壁画などの文化が花開いていった。
このころ、妊婦の像をつくることがヨーロッパ中で流行した。「クロマニヨンのヴィーナス」などと呼ばれている。丈夫な子供を産んでくれ、という願いが込められていたのだろう。

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