1・人間がオオカミから学んだもの
人間とオオカミをつなぐ絆は、「消えようとする衝動(本能)」を共有していることにあった。
生き物としてのその衝動(本能)を、オオカミの方がもっと本格的にそなえており、彼らはそれによって群れを形成していた。
人類はそんなオオカミと、氷河期の北ヨーロッパで出会い、イヌという家畜として飼いならしていった。
そうやって人類=ネアンデルタール人は、群れのことや、狩の仕方や、人と人の関係性やら、多くのことをオオカミ=イヌから学んでいった。
飼い主である人間が、オオカミ=イヌから学んでいったのだ。
われわれはここで、「教育」とは何だろう、という問題と出会う。
オオカミ=イヌはもとより言葉を持っていないのだから、人間を教育しようとしなかった。
それでも人間は、オオカミ=イヌから学んでいった。
そのとき人間は、おそらくオオカミ=イヌに、「お手」だの「お座り」だのという教育はしなかったはずである。
ただ、餌を与えながら、注意深くオオカミ=イヌを観察し続けただけだろう。
そうして、「どうしてこんな態度がとれるのだろう」とか、「どうしてこんな心の動きするのだろう」というように、驚きときめいていった。そういう感動があったから、餌を与え続けたのだ。
べつに、オオカミ=イヌを人間のようにしようとしたのではない。
人間がオオカミ=イヌのようになっていったのだ。
そしてこれは、現代社会における大人と子供の関係、教師と生徒との関係、親と子の関係、等々のプロトタイプとして考えることもできるのではないだろうか。
飼い主=教育者とは、「観察する」ものであり「学ぶ」ものなのだ。
食い物や知識を与えるものだから教育する権利があると考えるのは大きな間違いだ。食い物や知識を与えることは、「教育」でもなんでもない。
親は子を観察し、子から何かを学んでゆく存在なのだ。
教師は生徒を観察し、生徒から何かを学んでゆく存在なのだ。
根源的には、親も教師も、べつに「お手」や「お座り」を教育する存在なのではない。
にもかかわらず現代社会は、親や教師に「お手」や「お座り」を教育する権利と義務を付与し、それがあたかも「正義」であるかのように合唱している。われわれの社会は、そうやって教育の荒廃を招き、家族の崩壊を招いている。そしてさらには、人と人の関係そのものをいびつで不自然なものにしてしまっている。
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   2・飼育し教育しようとする大人たちの態度
僕はべつに、こうすれば世の中はよくなる、というヴィジョンを持っているわけではないし、そんなことを声高に発言しようとする趣味もない。
ただ、内田樹先生をはじめとするそんなことをえらそげに吹きまくっている連中に対しては、「それは違う、おまえらこそこの世の中をいびつなものにしてしまっている元凶なのだ」と叫びたい思いはおおいにある。
「弱者を救済し教育する」とか、まったくそういうことではないのだ。おまえらのそういう正義づらこそいちばんたちが悪いのだ。
彼らは子供や若者に対して、飼育し教育することばかり画策している。
そうじゃない。
子供や若者をよく観察し、そこか何かを学んでゆくことこそ、親や大人や教育者のとるべき態度であり、それが、人と人の関係の根源であり究極のかたちなのだ。
少なくともネアンデルタール人は、オオカミ=イヌとそういう関係を結んでいったのだし、じつはその態度こそ人間であることの契機であり究極なのだ。
現代社会や内田先生は、人間であることの尊厳というか、人間であることの切実な事実を冒瀆しているのですよ。そういうことを、世の中の大人たちも内田シンパも、どうしてわからないのだろう。
子供や若者を教育しようだなんて、おまえらみたいな薄っぺらな脳みそで、よくそんなくそ厚かまかしいことが言えるものだ。
人間であることの尊厳、すなわち人間であることの切実な事実は、「教育」することにあるのではなく、「観察する」ことにある。他者の存在に深く気づいてゆくことにある。われわれ人類は、そういうことをオオカミ=イヌから学んできた。そしてオオカミ=イヌを観察することは、人間に気づくことでもあった。
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   3・他者の存在に深く気づくということ
オオカミの能力は、群れの能力である。それぞれの個体がみずからの存在の気配を消して群れに献身してゆくことの上に成り立っている。
みずからの存在の気配を消すことは、他者の存在に深く気づいてゆくことである。オオカミの群れとしての能力は、それぞれの個体がみずからの存在の気配を消して他者の存在に深く気づき合っていることにある。
その、世界や他者に「深く気づく」という能力が、オオカミの嗅覚を発達させた。だから、人間という他者になついてゆくことができた。
オオカミが人間の家畜になったのは、人間がオオカミを「教育」したからではなく、オオカミ自身の「他者の存在に深く気づく」という能力によって家畜になっていっただけである。
ネアンデルタール人は、拾ってきたオオカミの子供に「お手」だの「お座り」だのを教えていたわけではない。「教育」することによって人間とオオカミ=イヌの関係ができていったのではない。たがいに相手の存在に深く気づき合っていったことによって、そういう関係が生まれてきたのだ。
そのときネアンデルタール人は、オオカミ=イヌがいかに深く他者の存在に気づいている生き物であるかということに驚きときめいていった。
これは、現代社会における大人と子供や若者との関係の基礎であり、人と人の関係の基礎であり究極の問題でもある。
親や教師は、子供や若者に何を教育できるかと問うのではなく、子供や若者にどれだけ深く気づいてゆくことができるかと問うべきなのだ。そこにこそ、人間であることの最後の尊厳がある。
誰だって若くありたいし、子供のようなイノセントを持ちたいと思うだろう。子供は人間の原型であり、大人たちがすでに失ってしまっているものを残している。
われわれは、人間とは何かということを子供から学ぶ。人間のやさしさも残酷さも、嘘をつくことも正直で素直なことも、ぜんぶ子供の中にある。
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   4・おまえらみたいなアホにいちいち命令されたくはない
教育とは、違う世代の子供や若者とのあいだに「自己と他者の関係」を結んでゆく行為だろう。「お手」だの「お座り」をしつけて、子供や若者に従順な飼い犬根性を植え付けてゆくことでもあるまい。
まあ内田樹先生などは、「お手」だの「お座り」レベルの安っぽい道徳を語りながら、子供や若者に従順な飼い犬根性を植え付けようと必死で画策しておられる。そうやって「お手」だの「お座り」レベルの「正義」を振りかざしながら、大人である自分を免責し正当化しようとしておられる。そこには、純粋な「自己と他者の関係」などない、「教育」という名のもとに子供や若者を利用し、自分で自分をまさぐっているだけである。今どきの大人たちは、そんなことばかりやっているから、子供や若者たちとのあいだに断絶ができるのだ。
子供や若者は、おまえらのおもちゃではないし、通販で買った生活用具でもないのだ。人間なのだぞ。そのことに対する原初的根源的な驚きやときめきがおまえらにはなさすぎるのだ。
そりゃあ僕としては、橋下大阪市長一派の「日の丸に最敬礼することの義務の法制化」ということなどに対しても、おまえらみたいなろくにものを考える能力のないアホどもにいちいち命令されたくはない、といいたい思いはありますよ。
彼らだって、内田先生と同じ穴のムジナなのだ。若者や国民市民を利用して、つまるところは彼ら自身が「自分を免責し正当化する」ということをしているだけなのだ。
いまどきの若者たちは親や大人たちに従順だといわれている。しかしそんな態度をとりながら、ファッションや音楽や漫画やアニメだけでなく、生活感覚や人間観そのものも、大人と若者の文化的な断絶はどんどん深くなっていっている。つまり彼らは、腹の底では「おまえらみたいなろくにものを考える能力のないアホどもにいちいち命令されたくはない」と思っているのだ。
そりゃあ大人たちが「教育」という名のもとに「自分を免責し正当化する」ことばかりやっている世の中だもの、子供や若者にそう思われるのも当然だろう。
そしてこれは、いまどきの権力者と国民の関係でもある。
人と人が「自分を消して他者に深く気づいてゆく」という関係を喪失している時代らしい。
われわれは今こそ、ネアンデルタール人とオオカミ=イヌとの関係から学ぶことがあるのではないだろうか。
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