「漂泊論」・18・幻滅からの旅立ち

   1・ジェネレーションギャップ
いまどきの大人たちは、どうしてこうも鬱陶しく煩わしい存在なのだろう。
ジェネレーションギャップは、いつの時代もどの国にもある。しかし、この国の大人と若者のギャップほど不健康なそれもないのではないかと思える。
対立しているのなら、まだ健康だ。しかし現在のこの国では、対立しているのではなく、若者が大人たちに無関心だったり幻滅していたりする。このような不健康な関係の例は、そうそうないにちがいない。
この国の若者はもう、すっかり大人たちに支配されてしまっている。そういう社会構造・経済構造になってしまっているのなら、それはもう仕方のないことだ。そうして大人たちはまだ足りないといってさらに支配しようと躍起になっているし、そのことに若者や子供はうんざりしている。
今や、若者にとっての大人たちは、「もののけ」のように気味悪い存在なのだ。
「加齢臭」などという言葉が流布するのも、大人が気味悪がられている、ということの一端だろうが、実際は、それだけの問題ではない。存在そのものが気味悪がられている。
そして、言葉そのものにギャップがありすぎる。
たとえば僕は、青春映画の場面や電車の中で、若者どうしが小声でちょっと早口で話していたりすると、何をいったかよく聞き取れない。まるで外国語を聞いているときのように、言葉に対する感覚にギャップがありすぎるからだ。
同じ国の言葉で若者と大人にこんなにもギャップがあるというのは、世界でもちょっと珍しいのではないだろうか。
しかもじつは、大人の方が、この国の言葉の伝統に照らして変則的で病んでいるのだ。
だから、若者に幻滅されなければならない。この国の大人たちは、若者から美しいと思われるだけの言葉も態度も思考も持っていない。
ただ外見の姿や加齢臭だけの問題ではない。アンチ・エイジングとやらでそうした表面的な部分を整えれば問題が解決するというわけではない。
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   2・病んでいる
この国のジェネレーションギャップは病んでいる。
ジェネレーションギャップそのものが不健康だというのではない。
かつてこの国には、「若衆宿」という習俗があった。それは、村の日常的な運営は大人たちがしても、祭りや災害があったときは若者たちがリードしてこれに当たる、というシステムであった。
そういう意味で、大人と若者は、対等だった。
昔の仕事は単純だったから、若者たちは、大人から教育されるまでもなく、大人たちがするのを見ながら自然に覚えていった。そこには、「教育」などという権力関係の「コミュニケーション」はなかった。
しかし、高度で複雑になっている現代社会の会社の仕事は、そういうわけにはいかないだろう。いや、会社の仕事だけでなく、現在の都市生活そのものが高度化複雑化して、大人の支配下に置かれなければ習得できない構造になってしまっている。
子供たちの野球とかサッカーとか水泳とかの遊びそのものだって、すでに大人の支配下に置かれてしまっている。そして、支配下に置かれて練習した方が、圧倒的に上達する。現代社会は、大人の支配下に置かれないと仕事も遊びも覚えることができない構造になっている。
それは、大人にとっても不幸なことだ。現代社会の大人は、支配することでしか若者や子供と向き合えなくなって、対等の人間として関係を結ぶことのできる態度も言葉も人間的な魅力も失ってしまった。
大人と若者が、支配(教育)し支配(教育)される関係でしか向き合えなくなってしまった。支配(教育)し教育(支配)される関係でしか生きられない病んだ人間がたくさんいる世の中になって、今や大人なんて、ほとんどがそんな人間ばかりだ。少なくとも、社会生活における大人たちは、そんな人間性しかもっていない。そんな人間にならないと社会生活はできない、ということだろうか。
それほどに、この国の大人たちは病んでしまっている。
だからこそいまどきの若者は、支配(教育)したりされたりするのではない対等の人と人の関係を切実に模索しつつ、大人との言葉のギャップをつくってしまっている。つまり、たんなる「コミュニケーション」のための言葉ではなく、もっと本質的な言葉の「感触」を模索している。
大人が若者に反抗されるのではなく幻滅されている世の中なんて、病的だと思わないか。
政治や経済の世界で成功している大人ほど、若者のあこがれの対象になっていない。たとえばこの国の総理大臣のように。
つまり大人たちは、若者を支配し教育する力を持つことによって病んでゆく。そうやって、人と人の関係に対する想像力を喪失し、言葉が貧弱になってゆく。
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   3・構造的な病理
この国の若者たちほど大人に幻滅している若者もいない。反抗しているのではない、従順に支配されつつ、幻滅しているのだ。支配されているから、幻滅してしまうのだ。支配(教育)したがるから、幻滅されるのだ。
悪いけど僕は、内田樹先生や上野千鶴子氏に対して、おまえらの思考や言説なんて若者を教育できるほどのレベルじゃないよ、と思っている。
魅力的な大人は、支配(教育)しようとしない。
たとえば江戸時代の塾や職人の世界で、見込みのあるものは師匠に手とり足とり仕込まれるかといえば、ほとんどの場合はほったらかしにされた。見込みのあるものは教えなくても自分で学んでゆく、その可能性を見守ってやるのが師匠のつとめである。この国には、そういう伝統がある。いや、人間社会には、というべきだろうか。
アメリカの子供は、教えなくてもアメリカ人になってゆく。日本の子供は、教えなくても日本人になってゆく。現在の若者だって、おおいに日本的である。大人よりももっと日本的なのだ。日本的だから大人に幻滅してしまうのだし、幻滅しているぶんだけ大人よりも日本的なのだ。
たぶん、戦後の高度経済成長によって大人が若者や子供を支配し教育するというシステムが出来上がりすぎたから、そういう態度や言葉しか持たない大人があらわれてきて、若者や子供に幻滅されてしまう世の中になってきたのだろう。
大人に幻滅しているから、オタク文化やジャパンクールという文化が生まれてくる。
今やジャパンクールの文化は世界をリードしている。しかしそれは、それほどにこの国の大人と若者とのジェネレーションギャップが病んでいるということなのである。
人間は、支配と被支配の関係をつくるために大きな集団をいとなんでいるのではない。それは猿の集団社会であり、だから支配と被支配の関係が濃密になってしまった社会は必ず破綻する。
言い換えれば、このまま若者や子供を支配する社会を維持したければ、大人たちはもう、若者や子供から幻滅されることも自分たちの心や態度や言葉が醜く病んでゆくことも引き受けるしかない。
支配することと尊敬されたり愛されたりすることの両方を得ようとしても、それは無理なのだ。
大人たちだって時代の傷を負っている。彼らは、自分たちが支配し洗脳してやらないと若者はこの先まともな都市生活を送れない、と心配している。内田樹先生の書くものなんか、まるっきりこのタッチだ。
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   4・人間の集団性は、支配・被支配の関係をつくることにあるのではない
人と人の関係や言葉の機能が、支配(説得)し支配(説得)される関係だけで充足してゆくことなどあり得ないのだ。政治が安定し経済が活性化するためにはその関係を堅持し止揚してゆくのがいちばんの得策なのだろうが、人と人の関係はそれだけではすまない。
大人に支配されるしかない世の中だが、それだけではすまないのだ。
人間は、猿としての限度を超えて大きく密集した集団をいとなむ存在であり、存在そのものにおいて先験的に大きく密集した集団の中に置かれている。
ジェネレーションギャップはもう歴史的普遍的に仕方のないことだが、それでも人間は先験的に集団の中に置かれてある存在だから、そのギャップを克服してゆく。
原初の人類は、猿の社会の支配と被支配の関係を解体して二本の足で立ち上がった。支配(説得する)と被支配(説得される)の関係を解体するのが、人間の本性なのだ。だから、この国ではそうしたジェネレーションギャップを克服して「若衆宿」という習俗が定着していったし、現代のジャパンクールの若者文化だって、まあ「若衆宿」のような現象なのだ。この国には、そういう伝統がある。
この国には、支配と被支配の関係を解体した若者独自の文化が生まれてくる伝統がある。
人間社会は、放っておけば、もともと猿なのだから猿の習性にしたがって支配と被支配の関係になってゆく生態を持っている。そして人間だからこそそうした支配と被支配の関係を解体しようとするムーブメントが生まれてくる。この反復が、人間社会の歴史の運動性だ。
人間の集団性の自然は、支配と被支配の関係を解体しようとするところにある。人間だって猿だから支配と被支配の関係をつくってしまうし、人間は猿ではないからこそ、支配と被支配の関係を解体しようとする。
支配と被支配は、どのように解体されるのか。
人間は、一緒にいれば、支配と被支配の関係になってしまう。だからそれを解体しようと思えば、「一緒にいる」という関係以前の関係に戻らねばならない。そうやって人は旅に出る。旅に出れば、「出会いのときめき」がある。
人間は先験的に関係の中に置かれている存在だから、関係を解体するといっても、「ひとりになる」のではない。
ひとりではうまく立っていられないのが、二本の足で立つという姿勢なのだ。その姿勢は、他者と向き合っていることを意識することによって、はじめて安定する。
支配と被支配の関係にあれば、威圧したり平伏したりしてたがいに前かがみになる。しかし人間本来の「直立する」という姿勢は、支配し支配されという猿の関係を解体し、たがいに弱みを見せ合う関係になることによってはじめて安定する。
その関係は、支配と被支配の関係が発生する直前の状態にある。すなわち「出会い」の瞬間だ。
人と人は、出会いの瞬間の関係であり続けようとする。それはほとんど不可能で、けっきょくは支配と被支配の関係になってしまう。だから、それを解体して旅に出る。人間の歴史は、この反復である。
流行が必ず衰退して反復してゆくことだって、まあそのようなことだ。それは、新しいファッションとの「出会いのときめき」としてはじまり、やがて流行という現象に「着せられている=支配されている」という気分になってゆき、衰退してゆく。
人間は、「出会いのときめき」を反復してゆく。それは、支配と被支配の関係を解体する行為である。
ジャパンクールの「かわいい」の文化とは、すなわち「出会いのときめき」の文化である。そういうかたちでいまどきの若者たちは、大人に支配されている状況を克服しようとしている。大人たちのブサイクな姿の対極として、「かわいい」という姿にときめいている。
大人たちがブサイクだから、「かわいい」とときめくのだ。そこのところ、少しは大人たちにも自覚していただきたいものである。
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【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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