「漂泊論」・19・知能なんか関係ない

   1・人間は、微笑む生き物である
たとえば喫茶店とか飲み屋とかコンビニの従業員がいつもお客に対して愛想よく笑っていられるとしたら、それは、いつも愛想よくしていなければならないという規則を自分に課して堅持しているからか、それともただ人と向き合うと自然に自分を忘れて笑ってしまうだけなのか。両方の場合があるのだろう。
ともあれもともと人は、人と出会えば自然にときめき笑ってしまうようにできている。
二本の足で立つことはとても居心地の悪い姿勢で、意識はどうしても自分に張り付いてしまう。そこで二本の足で立ったまま人と向き合うことはたがいの弱みをさらし合うことであり、たがいにその弱みを許し合うというかたちでときめき合ってゆく。つまりそうやって、たがいに自分に張り付いた意識が引きはがされるという体験をしている。
二本の足で立っている猿である人間は、存在そのものにおいて、すでに意識が自分に張り付いてしまういたたまれなさを抱えている。だからこそ、意識が自分から引きはがされることのカタルシスを、猿よりもずっと深く知っている。
茶店や飲み屋の従業員は、立場上、いわば「弱みをさらしている」存在である。だから、人間の本性としての微笑みやときめきが自然に生まれてくる。
彼らの誰もが、いつでも、自分の規則を堅持して微笑んでいるわけではない。そういう規則で微笑むときもあれば、自然に微笑むときもある。それはまあ、客の態度によることもあれば、気分次第ということもあるのだろうか。
いずれにせよ人間は、生きてあることのいたたまれなさを先験的に抱え込んでいる存在だから、他者と向き合えば、意識を自分から引きはがして自然に微笑んでゆくという習性も持っている。人はそういうカタルシスを深く体験できる存在であると同時に、そういう体験をしないと生きられない存在でもある。
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   2・「かわいい」と「ブサイク」
大人たちはたぶん、「愛想よく笑うという規則を堅持せよ」というのだろう。彼らの意識は、つねに「自分」に張り付いている。だから子供や若者にもその作法を要求するのだろうが、子供や若者はまだ、そのように作為的に自分で自分を支配しコントロールしてゆくことができない。というか、大人たちのそうやって自分に執着している態度にたじろいだりうんざりしたりしながら育ってきたから、そんなことはできない。あるいは、子供は大人よりも自然な生き物だから、意識を自分に張り付かせる訓練をさせられても、それを、人間の本性として、「いたたまれなさ」として体験してしまう。だから、大人たちの教育の目論見に反して、どんどん意識を自分から引きはがす習性を身につけていってしまう。そうやって彼らは、「かわいい」とときめいている。
いまどきの若い娘たちがすぐに「かわいい」とつぶやいてしまう現象を考えるなら、その対極としての、うんざりするようなブサイクなかたちのことも検証する必要がある。ただ知能が低いから安直に「かわいい」という言葉だけで済ませてしまっているということではない。そういうときめき方をしてしまうくらい、自分に執着すロ大人たちのそのブサイクな姿に対する幻滅の体験があるからだ。
そのブサイクから追いつめられて彼女らは、「かわいい」とときめいている。
彼女らの「かわいい」というときめきは、そういうブサイクな大人たちによる支配からの解放として体験されている。
人間の心が動いたり行動したりするのは、生きてあることのいたたまれなさがあるからだ。人間は他の動物以上に生きてあることのいたたまれなさを抱えて存在している。そういうところから、人間的な文化や文明が生まれ育ってきた。
知能が人間の文化や文明を発達させたのではない。人間の文化や文明を発達させたのは、生きてあることのいたたまれなさなのだ。
知能なんか関係ない。
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   3・言語の発生の契機
多くの人類学者や言語学者はこういう。人間は「象徴化の知能」を持ったから言葉を生みだした、と。何をアホなことをいっているのだろう。おまえらの思考の薄っぺらことにはあきれ果てるよ。言葉が生まれてきたから、言葉によって「象徴化の知能」が生まれ育ってきただけのことであって、それが、言葉が生まれてくる契機になっているのではない。
「象徴化の知能」によって言葉が生まれてきた……というのは、言葉が生まれる前に言葉があった、といっているのと同じなのである。そういう自分の思考の矛盾に気づかないなんて、おまえらの知能指数のレベルはその程度のものなのか。
原初の人類がさまざまな色合いの唸り声のような音声を洩らすようになってきた契機は、「象徴化の知能」によるのではない。それだけ生きてあることのいたたまれなさを深くさまざまな色合いで抱えている存在だったからであり、そのいたたまれなさからの解放のカタルシスとしてさまざまな色合いの音声がこぼれ出ていったのだ。そしてその音声を発することのカタルシスが、言葉というレベルに発達させていった。
われわれは今でも、音声を発するカタルシスとして人とおしゃべりをしている。これが、言葉の根源であり、究極の機能でもあるのだ。
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   4・りんごに対する感慨があり、音声を発するカタルシスがあった
「りんご」という言葉は、りんごの意味をあらわす音声だと認識されて生まれてきたのではない。「りんご」という音声を聞いてりんごを思い浮かべたから、それがりんごのことをあらわす音声だと認識されていったのだ。
りんごをあらわす音声として「りんご」という音声を思い浮かべたのではない。「りんご」という音声を発したあとに、それがりんごをあらわしている音声だと気づいたのだ。
「りんご」という音声を発する前から「りんご」という音声がりんごを意味すると認識していたということなどあるはずがないじゃないか。その音声を発したものだって、その音声を聞くことによってはじめて気づいたのだ。
はじめは、りんごに対する「なんとなく」の感慨があっただけだ。そういう音声が洩れてしまうほどの深い感慨を抱いてしまうのが人間の人間たるゆえんであり、意味を伝達しようとする意図があったのではない。
人間は、あらかじめ「りんご」という音声をイメージし、「りんご」という音声を生みだしたのではない。「りんご」という音声を発してしまったのだ。意味は、そのあとから認識されていった。
そのときすでに「り」という音声も「ん」という音声も「ご」という音声も持っていたではないか、それらの音声を組み合わせればりんごという意味になるとイメージしたのだ……という反論があるかもしれない。
しかし、原初の人類がそれを指さして「あー」とか「うー」と唸っていたレベルからそれが「りんご」という言葉に定着するまでには、100万年か200万年かの気が遠くなるほど長い歴史的時間があった。そこにいたるまでには、「りー」とか「んご」とか「りん」とか「りんりん」とか「ぎんご」とか、さまざまな段階があった。その音声がりんごを意味することなんか最初からわかっていた。意味を伝えるためだけだったら、「り¬ー」といっておけばいいだけだし、意味を伝えるための道具であるのなら、変わらない方がいいのである。
人々は、その音声の「意味伝達の機能」なんかどうでもよかった。意味の伝達のためだけなら「りー」といっておけばいいだけだが、それではどうも「しっくり」こなかった。「しっくりくる」までどんどん変化していった。
それが「りんご」という音声として定着したのは「なんとなくしっくりした」からだ。それ以上の理由なんか何もない。そしてそれは、発声してみてはじめてわかるのだ。発声しないことにはしっくりするかどうかなどわからない。頭の中でイメージするだけではわからない。
音声として「しっくりする」かどうかということこそもっとも大きな問題だったのであり、その問題に引きずられて原初の唸り声が言葉というレベルに育っていったのだ。
意味の伝達のためだったら、言葉には育っていかない。そんな機能など、唸り声ですむのだ。
言葉は、伝達のためのただの「記号」ではないのだ。
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   5・言語の発生は、知能の問題ではなく、人間の本性の問題なのだ
「りんご」という言葉=音声は、人間の知能とやらが頭の中でイメージして生み出されてきたのではない。そんな知能によって原初の唸り声が「りんご」という言葉になっていったのではない。
人類は、「りんご」という音声を頭の中にイメージしたのではない。「りんご」という音声がこぼれ出てしまうようなりんごに対する感慨を持っていたのだ。
そして「りんご」という音声がこの日本列島で定着していったのは、りんごという意味を共有していったのではなく、りんごに対する感慨を共有しゆく現象だった。
言葉が意味を伝達するための機能なら、たとえば現在の世界中の人間が同じホモ・サピエンスの遺伝子のキャリアであるように、今ごろ世界中が同じ言葉になっている。伝達する機能ではないから、地域ごとに違うのだ。
機能というのなら、同じ「感慨」を共有して結束してゆく機能として、それが「りんご」という言葉=音声になっていったのだ。
りんごという意味なんか、世界中の人間が等しく共有している。それでも世界中が同じ言葉にならないのは、言葉が意味を伝達するための機能ではないからだ。
言葉は、意味を伝達する機能としてその地域に定着してゆくのではなく、「感慨」を共有し結束する機能として定着してゆく。
言葉は、言葉をイメージする知能によって生まれてきたのではない。音声を発するカタルシスから生まれてきたのであり、人間は、音声を発することがカタルシスになるほどに、生きてあることのいたたまれなさを抱えた存在である。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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