「漂泊論」・20・「合理的な判断」という病理

   1・人間を生かしているもの
原初の人類は、「知能」によって言葉をイメージしたのではない。言葉=音声を発するほかないようないたたまれなさを抱えて存在していたのであり、音声を発することがカタルシスになったからだ。
人が生きてあるためには、そういう「伝達」などという生きるための技術論・方法論よりも、生きてあることのカタルシスの方がずっと大切なのだ。それくらい人間は、生きてあることのいたたまれなさを深いところに抱えて存在している。
現代人というか、近代合理主義に毒されたものたちは、人間が、生きてゆくための技術論・方法論を追求する存在だと決めてかかっている。ほとんどの歴史家が、そうやって歴史が動いてきたと決めてかかっている。
マルクス主義者が合唱する「下部構造決定論」だって、歴史は「経済」の問題で決定されてきたといっているのなら、まあ大差ない思考だ。
人間は経済の問題にわずらわされる存在ではあり、現代人はよってたかって金の話ばかりしているが、それでも人間の行動を根源において決定しているのは、そういう問題ではない。
生きてあることのいたたまれなさがカタルシスとして昇華してゆく体験がなければ人は生きられないし、この人間的な限度を超えて大きく密集した群れは成り立たない。人類の文化はそういうところから生まれ育ってきたのであり、われわれ現代人だって、けっきょくのところ、そういう体験をよりどころにしてこの生を紡いでいる。
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   2・文明の起源
言葉は、「伝達」などという「経済」の問題として生まれ育ってきたのではない。人類は、そういう生きてゆくための技術論・方法論として人間的な文化や文明を生みだしてきたのではない。
原始人は、どうして石器を生みだしたのか。肉を切るためか、骨を砕くためか、そうじゃない。これは肉を切るのに使える、という技術論・方法論は、出来上がった石器のかたちを見て気づいただけである。
石器が生まれてくるためにはまず、どうしたら石器が生まれてくるのかという発見がなければならない。
肉を切るためという動機だけで、その発見ができるはずがない。そんなことのためなら、そんなかたちをした石を拾ってくればいいだけだ。そのときすでに、肉を切るための道具としての石を持っていたはずだ。
それが石器として作り出されたということは、そういうことじゃない。それは、肉を切ることへの経済的な関心(欲望)があったということを意味するのではない。そんな欲望はすでにあり、すでに達成されていたのだ。石を道具に使うことくらい、猿でも知っているではないか。
それは、純粋に石に対する関心として生まれてきたのだ。人類史の発見なんか、ほとんどが経済的な目的からではなく、それ自体に対する純粋な好奇心から生まれてきている。発見されたあとから、それを利用しようとする経済的な目的が生まれてくるのだ。
そういう「どうでもいいこと」に夢中になってしまうのが、人間と猿の違うところだ。
石器の発見は、純粋な石に対する好奇心から生まれた。そのとき人類は、経済学者ではなく、物理学者だったのだ。猿は有用なことを追求する経済学者であり、人間は「どうでもいいこと」に夢中になる物理学者である。
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   3、何かのはずみで生まれてきただけのこと
両手に石を持って、その石と石をぶつけ合って遊んでいたら、片方の石が欠けて尖ったかたちになった。これが、最初の発見だ。
まず、石と石をぶつけて遊ぶという行為がなければ生まれてこない。何か目的があったのではない。ただ、硬いものと硬いものをぶつけ合わせるときの強い手ごたえに魅入られた。まあ、こんなことは、欲求不満だから夢中になる。それで欲求不満が鎮まったのかどうかは知らないが、何かしらの欲求不満があるから、そんな行為をおもしろがるのだ。
たとえば、引きこもりの若者が家の中で突然わけのわからない叫び声をあげたりするのは、それなりの生きてあることに対するいたたまれなさがあるからだろう。それは、みずからの日常から脱出しようとする試みだ。石の硬さだって、ふだんの暮らしのなかにはない硬さだ。そのころの人類にとって、石は、この世のもっとも硬いものだった。その硬さを確かめることは、みずからの日常から脱出する旅だった。
人間は、猿と違って、そんな「どうでもいいこと」をおもしろがって繰り返す癖が、おそらく太古の昔からあった。それは、どうでもいい音声をあれこれ発するようになってきたのと同じで、人間は、そうやって日常から脱出する旅に出ようとする衝動を根源において抱えている。
旅とは、日常からの脱出。すなわち、生きてあることのいたたまれなさからの脱出。非日常の発見。そうやって人類は、死というものに気づいていった。
言葉や石器が生まれてきたのも、いわば人間的な漂泊の旅だった。人間が、生きることの技術論や方法論だけを追求する生き物なら、そんな「どうでもいいこと」はしないし、言葉も石器も生まれてこなかった。
「どうでもいいこと」は、有用な技術論・方法論を追求する日常よりも高次な、いわば「他界」なのだ。
そのとき原初の人類は、両手で石と石をぶつけ合いながら、日常から脱出して異次元の世界に旅立っていった。
まあそのとき、石と石をぶつけ合うという遊びが流行していたのだ。そうして何かのはずみで、肉をきる石器になる剥片があらわれてきた。
人類史の発見なんか、ほとんどが遊びから生まれてくる「何かのはずみ」だった。
直立二足歩行の起源そのものが、何かのはずみだった。
生き延びるための技術論とか方法論とか、そんなことは、猿のレベルの話なのだ。
人間がいかに「どうでもいいこと」に夢中になる生き物か、われわれの日常がいかに非日常的なものか、世の歴史家も少しは考えてみてくれ。
言葉も石器も、生きるための技術論・方法論として生まれてきたのではない。ただもうそんな「どうでもいいこと」を繰り返して自分の心をなだめないと生きてあることができなかったし、人間の集団は、そういうカタルシスを共有する場として限度を超えて大きく密集したものへと発展していった。
生きてあることのいたたまれなさを深く抱えて存在している人間にとっては、日常そのものがすでに日常からの脱出としての漂泊の旅にほかならない。それが、二本の足で立つということであり、言葉を持っているということだ。
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   4・不合理な選択
人間は、猿よりももっと深く生きてあることのいたたまれなさを抱えている存在だったから、どうでもいいことばかりして、言葉や石器を生みだしてきたのだ。
人間にとっては、生きるための技術論・方法論よりも、生きてあることのいたたまれなさをなだめる行為が優先される。
まあ現代人が美味いものを食いたいということだって、生きるための技術論・方法論からは逸脱した行為だろう。
現代人は、生きるための技術論・方法論として、カロリーがどうの栄養のバランスがどうのという食事の研究が盛んだが、それはそれで現代的な不自然で病理的な傾向だともいえる。
人間の自然は、生きてあることのいたたまれなさをなだめるためのどうでもいい行為を優先させてしまうことにある。人間は、それほど深く生きてあることのいたたまれなさを抱えて存在している。
われわれの日常生活が、生きるための技術論・方法論として合理的な選択をしていとなまれていると思うのは早計である。
人間の日常生活など、すべてが、どうでもいい不合理な選択の上に成り立っている。
まあ、早い話が、二本の足で立って歩くこと自体が、生きるための技術論・方法論としては不合理な選択だったのだ。
おしゃべりは、生きてあることのいたたまれなさをなだめる行為であり、そのたのしさ=カタルシスがなければ生きていられない存在なのだ。それはべつに、何かを伝えるという生きるための技術論・方法論ではない。
人類の言葉は、伝達の道具として発達してきたのではなく、おしゃべりの楽しさ=カタルシスを体験する道具として発達してきたのだ。
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   5・「どうでもいいこと」をしたがるのが人間の自然なのだ
人間という存在が、二本の足で立っていることや言葉を持っていることの上に成り立っているとすれば、それは、存在そのものにおいてすでに不合理であるということを意味する。
しかしその不合理は、不自然だということではない。
生き物の身体が動くことそれ自体が、生きてあることのいたたまれなさをなだめようとする行為である。アメーバだって、生きてあることのいたたまれなさにせかされて動いているのだ。
生き物であることの証明は、死んでゆくことにある。であれば、生きてあることは、それまでの「どうでもいいこと」なのだ。「どうでもいいこと」として、苦しまぎれに生き物の体が動くのだ。
「どうでもいいこと」こそ自然なのだ。
生きるための技術論・方法論を追求する合理精神など、現代人の不自然な病理的傾向にすぎない。
生きようする欲望それ自体が、われわれの病理なのだ。それは、たんなる制度的な欲望であって、本能ではない。
生きてあることは、いたたまれないことだ。生き物の本能は、生きてあることから逃れようとし、生きてあることを忘れようとする。それが生きてあることであり、生きてあることのカタルシスだ。生きるための技術論・方法論など忘れて「どうでもいいこと」に熱中してゆくのが生き物の本能なのだ。
人間は、生きるための合理的な判断をして生きているのではない。
現代社会の大人たちの「合理的な判断」が、われわれ人間を追いつめている。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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