「漂泊論」・21・太古の記憶

   1・原始人は、凶悪で混沌とした心の動きの持ち主だったのか?
原始人と現代人のどちらがわけのわからない混沌とした心を持っているかといえば、現代人の方に決まっている。衝動殺人とか快楽殺人とか戦争による大量虐殺とか、そんなわけのわからないことは現代になって顕著になってきたのであって、大昔の原始人はもっとめちゃくちゃなことやっていたということなどあるはずがない。
現代人からすれば、原始人は遠く隔絶した世界の住人だから、心だって化け物か猛獣みたいなわけのわからない混沌としたさまをしていたのだろうと想像してしまう。つまり、自分の中のそういう凶悪で混とんとした心の動きを、「太古の記憶」とか「無意識」というようなレベルに押し込め、ほんらいの自分の心は理性的で愛にあふれている、と思いたいらしい。
典型的な「近代人」である内田樹先生は、いつもそう言っておられる。心の奥のそんな凶悪で混沌とした衝動を理性と知性で克服しているのが大人である、と。
内田先生、そうじゃない。そんな凶悪で混沌とした心は「太古の記憶」でも「無意識」でもなく、あなたの表層の観念世界で起きていることだ。自分がそうだからといって、人間の「イノセント」をそんなふうに決めつけてもらっては困る。
引きこもりの若者が部屋の中でわけのわからない叫び声を上げることは、「太古の記憶」か。そうじゃないだろう。われわれは、現代社会の複雑で悪意に満ちた人間関係から追いつめられて存在している。そうやって心が不安定になり、混沌としてきて、ときにはわけのわからない叫び声をあげてしまったり、ドメスティックバイオレンスに走ったりする。
それは、「太古の記憶」か。冗談じゃない。その心の動きは、原始人にはなくて、現代人が色濃く持っているものだ。現代社会がつくりだした心の動きであって、原始人のそれではない。
現代社会が複雑な構造になっているから、その複雑さから追いつめられてわけがわからなくなってしまう、というのではない。複雑なものは解き明かそうとするか、あるいは複雑でわけがわからないのなら無関心になってしまうのが人間であり、人間が複雑でわけのわからないものに追いつめられることはない。
人間は、むしろ、複雑でわけのわからないものに親密になってしまう傾向がある。だから複雑な構造の社会をつくったのだし、だから、複雑な機能の電子機器を現代人の多くが楽々と使いこなしている。
彼をドメスティックバイオレンスに走らせるのは「太古の記憶」でも「現代社会の複雑さや空虚さ」でもなく、もっと現実的な「人間関係」そのものによるのだ。われわれは、その生々しさに耐えられなくて、ネット社会に逃げ込んだりする。
ネット社会が悪いんじゃない、われわれは、内田樹とか上野千鶴子とか、そんな自慢たらしくて他人に馴れ馴れしい大人たちがうじゃうじゃいて跳梁跋扈しているこの社会の人間関係のあまりの生々しさに耐えられないのだ。
人間を追いつめているのは、他者であり、他者の権力なのだ。
僕は、現代社会の人間関係が希薄になっているとは思わない。なんだかみんな「遠慮」というものがなくなって、ものすごく生々しい人間関係なってしまっていると思う。
誰もが「コミュニケーション」という制度的な概念を振りかざして、「影響力」とか「説得力」という名の「権力」を振りかざして他者と関係しようとしている。その馴れ馴れしさというか生々しさが気味悪い。グローバル化という世界の経済情勢だろうとTPP交渉だろうと、居酒屋のクレーマーだろうと小学校のモンスター父兄だろうと、あなたと私の友情がこのごろ妙に鬱陶しくなってきていることだろうと、みんなその関係が、馴れ馴れしすぎて生々しすぎる現象ではないのか。
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   2・現代社会に蔓延する「権力」という関係性
原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、たがいに弱みをさらして微笑み合っている関係になった。なのにいつのころからか、猿の社会のように、強いものが弱いものを権力によって支配する関係をつくるようになっていった。そこから、人間の混沌とした狂気の歴史がはじまった。
もともと弱みをさらして微笑み合っている存在である人間の心は、権力から支配されることに耐えられないようにできている。だから、権力関係の世界から逃れて遊びの世界を発展させてきた。遊びの世界を発展させることによって権力関係の世界に耐えてきたというか、権力関係の世界を温存することによって遊びの世界を発展させてきた。
遊びは、権力関係の世界に置かれてあることのいたたまれなさをカタルシスに昇華してゆく行為である。
人間はあえて受難を引き受けてしまう癖があり、その受難(いたたまれなさ)を触媒にして、遊びのカタルシスが生まれてくる。
二本の足で立ち上がること自体がひとつの受難であると同時にカタルシスの体験だったのであり、人間のそうした習性は、そこからはじまっている。
だから、権力に追いつめられる受難も引き受けてしまう。しかしその受難はカタルシスに昇華できなければ耐えられない。
つまり、ひとつの受難がカタルシスへと昇華できなくなったところで、現代的な狂気が生まれてくる。
現代人の狂気には現代的な「権力」の作用がはたらいているのであって、それは「太古の記憶」でもなんでもない。
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   3・権力という病
フロイトをはじめとする西洋の知識人の多くは、この「権力」という関係性のことを、古代の王権の圧政が人類の無意識をゆがませ、それがそのまま現代人の無意識の記憶として引き継がれている、というような物語で説明している。
まあ、共同体の発生以来の権力関係の歴史が現代人の権力に対する感受性をつくっているということはあるだろう。その歴史の蓄積によって、われわれは昔の人以上に権力を持ちたがるようにも、権力をいとうようにもなっている。
何はともあれ、権力を持てば、人間関係の主導権が握れる。猿の社会では、強くて賢い個体が権力を握るのだからそれはそれであきらめもつくが、人間社会では、弱くて頭の悪い人間でも場合によっては権力を握ることができる。そしてそういう人間が権力を握ると、権力の行使が必要以上にあからさまになる。なぜならそういう人間は、権力によってしか優位に立てないし、権力によってしか愛されないし、権力によってしか他者との関係を結ぶ能力を持っていないからだ。
まあ、親になれば、誰だって子供に対する権力者だ。
しかし、そんなわけのわからない人間に権力を行使されることは、猿の社会よりももっと大きなストレスになる。そんな権力など受け入れがたいし、しかも相手はそれしかよりどころがないのだから、必要以上にあからさまに権力を行使してくる。こういう関係は、現代になればなるほどきつくなってきている。この社会のいたるところに、そういう関係が存在している。
それは、西洋人のいうような、「古代の王権の記憶」ではない。あくまでも、現代社会の観念の病理なのだ。
古代の王権や人間関係に現代社会よりももっとひどい権力関係があったなんて、嘘だ。われわれの無意識は、そこでゆがんだのではない。というか、誰の無意識もゆがんでなどいない。その狂気は、あくまで現代社会の観念の病なのだ。
「太古の記憶」は、喫茶店のウェイトレスがどんな客にも思わず微笑んでしまう習性にある。
現代人の凶悪な狂気や病理は、現代社会の権力関係から追いつめられていることが契機になっている。そういう観念の病なのだ。
わけのわからない狂気などというものは、共同体の発生以後に生まれてきたのであり、それは「権力」が契機になっている。
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   4・原始人のイノセント
われわれは「太古の記憶=無意識=イノセント」をもっと信じてもいいように思う。
原始人は、殺し合いなどしていなかったし、猿のような権力関係も持たなかった。
人間は、猿ではない猿として人間になったのであり、原始人よりも、人殺しや権力関係を氾濫させているわれわれ現代人の方がずっと猿に近いのである。
原初の人類は猿よりももっと弱い猿だったのであり、人間どうしで殺し合っていたらたちまち滅んでしまったはずである。猿のような殺し合いも権力関係も持たないで、どんな弱いものも懸命に生かそうとしながら種として生き残ってきたのだ。死にそうな弱いものを生かすことができる能力を持ったことが。猿よりも弱い猿であった人類を生き残らせたのであり、その能力を持ったことによって、猿のレベルを超えて飛躍していったのだ。
人間の身体や脳が猿のレベルを超えて進化していった契機は、こんなにも生き物として無力な赤ん坊を育て上げる「介護」の能力を持ったことにある。
死にそうなものを介護しようとする習性こそ、「太古の記憶」なのだ。そうやって、けんめいに助け合いながら生き残ってきたのだ。
猿のように権力関係の社会をつくっていたら、それほどダイナミックな助け合いは起きてこない。それに対して人間は、そのような権力関係が生まれるような密着した関係を避けて、弱みを見せ合いながらたがいの身体のあいだに「空間=すきま」を確保してゆく関係をつくっていった。それが、二本の足で立ち上がる、という体験だった。
群れどうしだって、たがいのテリトリーのあいだに「空間=すきま」という緩衝地帯をつくり、戦うことを避けて連携する関係をつくっていった。そうやって生き残ってきたのだ。そして群れどうしのこの関係が、旅の習性を生む契機になった。
つまり、どう考えても原始人の心が混沌とした狂気にあふれていたということなどあり得ないのだ。
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   5・「出会いのときめき」という「太古の記憶」
原始人は、他者との関係において、他者の能力や性格を吟味することよりも、他者と一緒にいる「場」そのものを第一義的に味わっていた。そういう心の動きでなければ、猿よりも弱い猿であった人類が生き残ってくることはなかった。これが、われわれの心の奥の「太古の記憶」である。
原始人が他者に対する殺意をたぎらせるような、そんな凶悪で混沌とした心の動きを持っていたはずがあるものか。彼らは他者の性格や能力を吟味することも他者を説得しようとする権力欲もなく、ひたすら他者と向き合って一緒にいる「場」を味わいつくそうとしていた。そのための作法として、言葉が生まれ育ってきた。
原始人には原始人の人間関係の作法や心の動きがあった。彼らは猿よりも弱い猿だったし、その事実を受け入れてゆくことの上に人間関係をつくり、生き残っていった。
しかし彼らは弱い猿でその事実を受け入れるなら、生き残ろうとする意欲を持つわけにはいかなかった。生き残ろうとする意欲を断念したところに、原始人の人間関係の作法と心の動きがあった。
原初の人類は、生き残ろうとする意欲を断念して二本の足で立ち上がっていった。これは、二本の足で立っている猿である人間の、今なお引き継がれている歴史的伝統である。
原始人は、他者を殺して自分が生き残ろうとするよりも、ひたすら「他者と一緒にいる場」を止揚し、味わいつくそうとしていった。
だから、「旅をする」いう習性が生まれてきた。もしも旅先の見知らぬ人と出会って殺し合いになるのなら、旅なんかできるはずがない。旅人は疲れ果てているし土地の事情も知らないのだから、旅人の方が弱い立場にある。もし殺し合いになれば、殺されるのはいつだって旅人の方である。
原始時代の旅は、船も汽車も飛行機も地図さえなく、道なき道をさすらってゆくのだから、疲れないはずがない。原始時代の旅人は、つねに疲れ果てていた。旅の途中で死んでしまうものはいくらでもいた。
それでも人間が旅をする習性をもったということは、疲れ果てた旅人はやさしく介護され、もてなされた、ということを意味する。
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   6・帰れない旅
人類は、直立二足歩行をはじめた直後から、すでに猿よりももっと頻繁に群れどうしで女を交換するという習性を持っていた……これは、考古学の知見としていわれていることである。それは、疲れ果てた旅人を受け入れもてなすという習性の上に成り立っている。
4万年前のアフリカのホモ・サピエンスが大集団でヨーロッパに旅立って行って原住民であるネアンデルタールを滅ぼした、という「集団的置換説」を唱える研究者なんかみな、原始時代の旅のことも、原始人の人間関係の作法や心の動きも、何もわかっていない。彼らの薄っぺらな脳みそは、そんなことなど考えたこともないのだろう。まったく、いやになってしまう。
原始人が大挙して長い道のりを移動してゆくことなど、心理的にも物理的にもあり得ないことだ。原初の旅人はみんな疲れ果てていて、助けを乞うことはあっても、地元民を滅ぼしてしまう意欲も能力もなかった。
そのころ、ヨーロッパに旅していったアフリカ人などひとりもいない。ネアンデルタールがそのままクロマニヨンという人種に進化していっただけだ。
そのころのアフリカのホモ・サピエンスが移動生活をしていたといっても、同じ地域をぐるぐる回って、いつも故郷に帰ってきていた、ということである。そういう帰巣本能が強い彼らが故郷を捨ててヨーロッパや世界中に旅立ってゆくということなどあり得ない話なのだ。
移動生活をしていたからこそ、旅立ってゆくことなどあり得ないのだ。そこのところ、「置換説」の人たちの脳みそでわかるかなあ。
まあこの話をすると長くなってしまうからここではやめておくが、とにかく僕はこういいたいのだ。われわれ現代人の心の奥に潜む「太古の記憶」とは、多くの現代人が安直に考えているようなそんな「凶悪で混沌とした心」などというものではない、ということだ。
おまえらのその凶悪でグロテスクな殺意やヒステリーを、何もかも原始人のせいにするな。
そんな心の動きはすべて、現代的な観念の病なのだ。
われわれ現代人の中の「出会いのときめき」と「介護の本能」こそ「太古の記憶」であり、僕は、このことの上に原始時代の歴史を考えている。文句があるなら誰でもいってきていただきたい。できることなら、プロの研究者にいってきていただきたい。おまえらみんなアホだ、といいたくてうずうずしている。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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