「漂泊論」・22・閉塞感の正体

   1・支配し支配される関係の起源
われわれ現代人の心には、「支配されている」という思いが抜きがたくある。
しかし、何に支配されているのかということが、よくわからない。そこかがやっかいだ。
もちろん政治権力は鬱陶しいが、それだけじゃないし、この思いはもっと漠然としている。
そういう漠然とした閉塞感がある。
たぶん、「閉塞感」とは、つまるところ「権力」の問題だ。
人間は、きわめて無力な存在の赤ん坊として生まれてくる。だから、親に介護されつつ、完全に支配されてもいる。
現在は昔以上に赤ん坊や子供の育て方の技術や知識が発達したと同時に、そのぶん昔以上に親が権力を行使する存在として子供の前に立ちはだかるようにもなった。「親の愛」という名の権力で。子供を支配している。
われわれの漠然とした閉塞感は、すでにここからはじまっている。
この世のもっとも大きくてもっとも漠然としている「権力」の持ち主は、「神」だろうか。
人間の「支配されている」という漠然とした閉塞感が、「神」という概念を生みだした。そしてその無限大の権力は、ある種の人々にとっては、この上ない救いになっている。
僕は、宗教がいいのか悪いのかということはよくわからない。そして、世界宗教はよくてドメスティックなカルト宗教は悪いというわけ方も納得できない。どっちにしても、権力に支配されることのよろこびを追求する観念行為だろうと思っている。
まあ誰だって、どこかしらに何かしらの権力に支配されたがる部分を持っている。「神」や「国家」や「親」だけが権力じゃない。この世のいたるところに「権力」の関係が張り巡らされている。
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   2・権力という病
神と悪魔……これが、この世の良い権力と悪い権力の象徴になっているのだろうか。
神も悪魔も信じない、といっても、そういう権力から自由になっているとはかぎらない。神も悪魔も、たんなる「比喩」としてこの世に存在している言葉にすぎなないのであり、どうして「信じない」といってこだわらねばならないのか。それ自体、すでに信じてしまっている心の動きだともいえる。
この世には、「神」という言葉と「悪魔」という言葉がある。それはもう、どうしようもなくそうなのだ。
社会的に成功したものたちは「神のおかげ」というし、失敗すれば、「悪魔のせいだ」と思う。そうやって自分を支配する絶対的な他者をイメージすることによって人は、成功者としての愉悦に浸ることもあれば、脱落者として精神を病むことにもなる。成功者が歳をとって社会的な立場を失ってからうつ病になったりするのは、このパターンだろう。彼らは、自分で自分を支配するというかたちで、絶対者から支配されている。
「絶対者から支配されている」とは、「自分で自分を支配している」ということなのだ。彼らは、そうやって「支配=権力」のシステムを体にしみこませている。これは、宗教の信者だけの問題ではない。すべての現代人が、多かれ少なかれ「支配=権力」のシステムを体にしみこませている。そうやって自分で自分を支配しつつ、他者に対しても支配しようとしてゆく。
他者を説得しようとしたり、他者に対して影響力を持とうとすること自体、すでに権力を行使して他者を支配しようとしている態度なのだ。
そうして、他者を支配することに失敗したものは、ひたすら自分を支配し縛ってしまうことになる。これが、鬱病の症状なのだろう。すべての鬱病がそうだというつもりもないが、そういうかたちになっているケースは少なくないにちがいない。
支配されることがよろこびだから、自分の中にも支配しようとする意識が生まれてくるし、支配し支配されることが人と人の関係だという意識にもなってゆく。そしてこのような傾向が肥大化する契機としては、幼児期に完全に支配されて(かわいがられて)そういう世界観を植え付けられてしまった場合と、つねに支配されたがる(かまわれたがる)という飢餓感を募らせて育った場合とがあるのだろう。
まあ、成功者になりやすいのは後者の方だろうが、現代人は多かれ少なかれ誰もが自分を支配してしまっているし、誰もが他者を支配しようとする傾向を持ってしまっている。少なくとも、原始人よりは。
われわれは、「権力=支配」のシステムが体にしみてしまうような時代を生きている。
情報を伝達し説得することだって、すでに支配し支配される権力関係なのだ。
いまどきは、情報を受け取り説得されるよろこびで本を読んでいる人がたくさんいる。それが文字の文化だ。文字の発生によってそういう関係が色濃くなってきた。文字は、共同体(=国家)とともに発生してきた。文字は、権力関係を生む。
そのようにして現代社会は、「空間=すきま」を持たない権力関係があふれている。そしてそういう権力関係にさらされるストレスをカタルシスに昇華できないときに現代的な狂気になる。
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   3・コミュニケーションがそんなに大事か
陰謀論」という言葉が最近流行っている。自分の身に起こるネガティブなことはすべて何かの陰謀だと思ってしまう狂気=病理がある。悪魔のせいだとか他者のせいだとか社会のせいだとか、陰謀のもとのイメージは人それぞれいろいろあるだろうが、すでに他者との関係が「空間=すきま」を持たない支配し支配される関係になってしまっているから、そういう妄想が起きてくる。
現代人はむやみに人を説得したがり、かんたんに人に説得されてしまう。かんたんに人のことがわかった気になってしまう。そうやって、かんたんに「陰謀」の出所を突き止めてしまう。陰謀などなくても、何もかも社会や他者や悪魔の陰謀のせいにしてしまう。
コミュニケーションが大事だというのと陰謀論は、根は同じなのだ。コミュニケーションとは、陰謀の別名である。
われわれの心は、現代社会の権力関係に封じ込められてしまっている。そういう「陰謀」が頭から離れなくなって、混沌としてゆくし、閉塞感にも陥る。
どうしてそうかんたんにわかってしまうのか。説得しようとするのか。説得されてしまうのか。わからないから頭の中が混沌とするのではない。これは疑いようもない真実だ、とわかった気になって、頭の中が混沌としてくるのだ。合理的な判断をしているというその確信で、頭の中が混とんとしてゆくのだ。
人は、すでにわかっていることしかわかることができないのである。根源的には、説得することも説得されこともない。すでに知っていることを共有できるだけだ。言葉は、すでに知っていることを共有する道具であって、説得し説得される道具ではない。
しかし文字は、説得し説得される関係をつくる。この文化によって、わけのわからない心の動きが培養されてきた。
「支配されている」という信憑とともに、人の心は混沌とした狂気へと膨らんでゆく。それは、「わからない」という不安ではない。「わかってしまった」という確信なのだ。
近代合理主義は、そういう確信へと人の心を誘導してしまう。
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   4・「確信」の構造
狂気とは、あまりにも現代的制度的な「確信」であって、原初の「混沌」ではない。
「確信」という心の病が、「陰謀論」や「被害妄想」を生む。
人と人の関係があまりにも生々しすぎる世の中だから「確信」という心を持ってしまうのであり、「現代社会の空虚な人間関係」なんて嘘だ。
人間はもともと「確信」という心の動きを持っていないから、たしかな「数値」や「証拠」を見つけようとするのだ。
たしかな「数値」や「証拠」を必要としないのが、「陰謀論」であり、「被害妄想」である。現代人は、それほどに人に対して馴れ馴れしくなってしまっている。分裂病者は、「近くにいる見知らぬ他人が自分の悪口を言っている声が聞こえてくる」という。そうやって証拠を捏造してしまうこの馴れ馴れしさと生々しさは、いったいなんなのか。
人間はもともと、「確信」という心の動きを持ってしまうような馴れ馴れしい関係をつくる生き物ではない。
コミュニケーション信仰、という現代社会の病理。
現代人は、「現代社会の空虚な人間関係」と合唱しながら、まだコミュニケーションが足りないと焦っている。そうやって、人と人の関係をさらに生々しく馴れ馴れしいものにしてしまおうとしている。それは、とても気味が悪い。
これって、僕の被害妄想だろうか。
相手をその気にさせてものを買わせる……この社会の人々は、よくこんな馴れ馴れしいことができるものだと思う。こんなことが、人間の能力や正義のように評価されている。僕自身も含めて、現代人ほど人に馴れ馴れしい生き物もいない。コミュニケーションなどという関係で、いったいどんな解決があるというのか。われわれをますます生きにくくさせているだけじゃないか。
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   5・コミュニケーションという名の権力システム
われわれは何ものかに支配され操作されている……という現代社会の閉塞感があるとしても、誰を恨んでもしょうがない、誰もが時代そのものに支配され操作されているのだろう。
しかしあなたたちは、それでもまだ、そんな閉塞感を肥大化させる「コミュニケーション」という馴れ馴れしい関係が欲しいか。
僕はもう、ごめんだ。
コミュニケーションが大事だというものは、かんたんに人にたらしこまれるし、平気で人をたらしこもうとする。その習性が現代の都市伝説などの迷信=確信を生む。それほどに現代人の人と人関係は馴れ馴れしく生々しい。
かんたんにプロパガンダ(洗脳)されてしまうような社会の構造になっている。
人は、自然の中で生きているから迷信深くなるのではない。人や社会に洗脳されて迷信深くなってゆくのであり、自然の中で生きている原始人より、都会暮らしの現代人の方がずっと迷信深いのだ。
この国の人々はナイーブだから、かんたんにたらしこみたらしこまれる関係がつくられてしまう。大人たちがそんな馴れ馴れしく生々しい関係をつくっているから、若者の引きこもりが生まれてくる。奴隷制度も異民族との関係も体験してこなかったこの国の歴史には、人をたらしこむ(説得する)文化の伝統がない。だから若者が、そんな関係にひどくおびえてしまう。
ナイーブだからそんな関係がつくられやすいし、そんな関係にひどくおびえてしまいもする。
そんな馴れ馴れしい関係が盛んであれば消費文化は安泰だが、そうそういつまでも続くはずもない。
原初の人類は、二本の足で立ち上がることによってそんな馴れ馴れしい関係をつくっていったのではない。それは、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくり、たがいに弱みを見せて向き合いながら、体と体がくっつき合ってしまうという馴れ馴れしいコミュニケーションの関係を解体している姿勢だった。
われわれは今なおそんな二本の足で立っている猿であり、そんな関係意識を持っているから、そうした「空間=すきま」を失った現代社会の状況に、耐えがたい閉塞感を持ってしまうのだ。
ともあれわれわれは、めぐりめぐってけっきょく自分で自分を支配してしまっている。それはもう、誰もが避けがたくそういう部分を抱えてしまっているのだが、そういう意欲がひといちばい旺盛な作為的な人間に人格者ぶって偉そうなことをいわれると、ほんとにむかつく。
むかつく、というこの閉塞感。そのときわれわれの心に、権力が覆いかぶさってきている。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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