「漂泊論」・23・確信の構造

   1・「確信」なんかできない
人の心は、どのようにして「確信」するのだろうか。
それは、自分で自分を説得することだろうか。完璧に自分を説得してしまうことを「確信」という。
自分で自分を説得することばかりしている人間は、他人を説得するということもしたがるし、説得できるつもりでいる。
こちらが「そんなことは納得できない」といっても、向こうは説得できるつもりでいるし、納得しないおまえは間違っている、といい立ててくる。
「確信」という心の動きが、「権力」を生む。
「権力」とは、「説得」すること。
「確信」とは、「自分で自分を説得する」こと。
「権力」「説得」「確信」……この三つの言葉を使って現代人の「病理性」をどのように導き出せばいいのか……ちょっとした数学をやっている気分である。
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   2・しかし猿は確信している
猿の社会は、ボスを頂点にして、個体間の「順位」がきちんとつくられている。順位が上位のものは、下位のものを説得している。説得し説得されることによって順位が決まる。彼らは言葉がないから、「力」で説得する。いずれにせよ、「説得する」ことに変わりはない。
人間社会でも、親子関係では、「力」を持っている親が「力」で説得して順位制の上位にいる。
順位が下位のものは、自分で自分を説得することによって「順位=権力」を受け入れる。受け入れているとき、自分で自分を説得している。
そのとき、説得する自分と説得される自分が一体化している。猿社会の猿と猿は、順位として説得し説得されながら一体化している。一体化つまり猿と猿の関係は、「順位=権力」でくっついている。
猿と猿の関係は、「順位=権力」が発生しない「空間=すきま」を持っていない。
猿は、「順位=権力」を嫌がっていない。嫌がらずに受け入れているから、自分が上位に立とうとする。「順位=権力」を否定したら、「順位=権力」を得ようとする欲望も成り立たない。
一方人と人の関係は、「順位=権力」が発生しない「空間=すきま」を持っているから、「順位=権力」を嫌がる心を根源において抱えている。どんなにあからさまな権力社会に置かれても、人間であるかぎり、誰もがどこかしらで「順位=権力」を嫌がっている。人間は、根源においてそういう存在なのだ。
ここにおいて、二本の足で立っている人間と猿の違いがある。
順位制の社会で生きている猿ほど権力が好きな生き物もいないし、二本の足で立ってたがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくっている人間は、根源において権力を嫌がる心の動きを持っている。嫌がるというか、「権力=順位」を忘れて関係をつくってしまう習性を持っている。だから、「権力=支配されること」を鬱陶しがるのだ。
サル学の研究者はよく、殺し合いまでする猿社会の権力争いの熾烈さを挙げて「人間にそっくりだ」という。冗談じゃない。二本の足で立っている人間は、根源において猿のような権力欲は持っていないのだ。
人間にとって権力欲は、猿であったときの痕跡であり、まあ尾骶骨のようなものだ。それが人間性の根源のかたちではない。
猿にとって権力争いは自然だが、人間においては「病理」なのだ。そういうことを、多くのサル学の研究者はなんにもわかっていない。権力欲は、猿の本質=自然であっても、人間の本質=自然ではない。
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   3・確信という制度性と自意識
猿が順位制にしたがうとき、自分で自分を説得して、ひとまず納得している。
力比べで負ける……それはかなしいことだが、それだけで相手が上位だと納得するのではない。そのとき、自分で自分に言い聞かせている。もしそれをしなかったら、彼は死ぬまで戦い続けるだろう。それは、相手に説得されるのではない、自分が自分を説得しているのであり、それによってはじめて「確信」する。
説得されるとは、じつは自分が自分に説得されることなのだ。
一部の自意識過剰の人間は、かんたんにカルト宗教にしてやられてしまう。そのとき、自分で自分を説得してしまうのだ。人間は、そうかんたんに他者の説得だけでは洗脳されない。
まあ現代人は、誰もがやっかいな自意識を抱えてしまっている。いろんな自意識があるのだろうが、自意識に苦しんでいる人間よりも、自分で自分を説得しながら自意識に執着している人間の方が病理的なのだ。
ともあれ「力」は説得のための武器になる。しかし原初の人類が二本の足で立ってたがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくって向き合ったとき、たがいに胸・腹・性器等の急所=弱みをさらしながら、たがいに相手を攻撃して「力」で説得することを断念し合っている。
人間は、根源において、他者を説得しようとする支配欲権力欲も、自分で自分を説得してしまう過剰な自意識も持っていない。二本の足で立ち上がってその衝動を捨てたところから人間の歴史がはじまった。
人間の関係意識は、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」を置くことにある。したがって、根源的には、説得しようとすることもしなければ、説得されることもない。
そしてこの「空間=すきま」に憑依してゆく意識を持っているから、自分と自分との関係においても、完璧に説得することはできない。つまり人間は、根源的には「確信」という心の動きを持てない生き物なのだ。だからこそ、つねに「何・なぜ?」と問うて文化や文明を発達させてきた。
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   4・確信という自己完結
猿は、かんたんに説得され、確信してしまう。
人間は、かんたんには確信できない。そこにこそ人間性の根源がある。確信できることが人間の能力ではない。そんな能力は猿の方が持っている。
確信できない不安こそが人間の人間たるゆえんであり、そうやって誰もが、生きてあることそれ自体に漂泊している。
人間は、何においても「これでいい」という確信を持てない生き物だからこそ、かくも異常なスピードで進化してきてしまったのだ。
少し距離(空間=すきま)を置いて、「疑う」ということをしなければ、学問の発展などないだろう。
たがいの身体のあいだに「空間=すきま」を持っているから、人間的な「連携」という関係が生まれてくる。人間の心は「確信」というかたちで自己完結しない。だから、「連携」という関係が生まれてくる。
言い換えれば、誰もが、自己完結してしまう病理をどこかに抱えてしまっている。
殺してしまいたいのに殺せないのは自意識(=自分が自分を説得してしまうこと)の苦しみであり、殺してしまうのは、自意識の暴走である。
人間性は、自意識を処理することにある。自意識を処理する機能として、あなたと私の身体のあいだに「空間=すきま」がある。そうやって人間は、根源において「確信する」ということをしない。
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   5・人と人の関係の不可能性と可能性
昔の庶民が「神を信じる」ということと、神学者が「神の存在を確信する」ということとはちょっと違うのである。
「あなたのことを信じる」という心の動きは、「あなたの心をわかることはできない」という断念の上に成り立っている。べつに、あなたがいい人であることを確信しているわけではない。いい人かどうかわからないところで「信じる」のが人間性なのだ。
人と人のあいだには、コミュニケーションが不可能な「空間=すきま」が横たわっている。しかしそれこそがまさに、人と人が連携し愛し合う「場」になっているのだ。
「先生はえらい」とか「あなたはいい人だ」と確信してゆくのが人間性であるのではない。そんな「確信」は、この社会の制度性にすぎない。先生やお医者さんやお坊さんがえらいかどうかなどわからないところで信じてゆくのが人間性である。
あなたと私の身体のあいだにある「空間=すきま」は、あなたのことがわかることを不可能にする。その不可能性に憑依して「信じる」という心を紡いでゆくのが、人間性である。
猿は「力」で個体どうし群れどうしの関係に決着をつける。しかし、二本の足で立ち上がった原初の人類は、そのとき、その「決着=確信」という心の動きや関係性を捨てた。というか、失った。失ったことによっていったん猿よりも弱い猿になり、そうして数百万年かけて猿に追い付き追い越し、やがて人間的な文化や文明を発達させてきた。
「確信」とか「権力」とか「説得」などということは、猿のレベルにおいてのみ「自然」として成り立つ心的現象であり、人間のレベルではそのことが「病理」として起きているにすぎない。
で、この公理から導き出される定理は、<人と人のあいだにはそれらの関係をつくることが不可能な「空間=すきま」が横たわっている>ということだろうか。
われわれの漂泊論は、たどり着く「確信=決着」のユートピアが見えない。そうして帰るべき故郷も、すでに見失っている。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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