弱い猿・ネアンデルタール人論109

「直立二足歩行」などというが、二本の足で立って歩くことくらい、猿でもしている。したがって、そのことによって原初の人類が猿から分かたれたとは言い切れない。
それは、二本の足で立つ姿勢を常態化していったことにある。その生態において、原初の人類は猿から分かたれた。
猿は、けっしてそんなことはしない。彼らの社会は「順位制」という序列があり、二本の足で立ったままでいたら、必ず順位争いに負けてしまう。その姿勢は、とても不安定である上に、胸・腹・性器等の急所を外にさらしているのだから、攻撃されたらひとたまりもない。
猿の社会は、二本の足で立つ姿勢を常態化することができない構造になっている。
それは、「猿よりも弱い猿」になってしまうことだった。
もちろん猿だって二本の足で立つことなんかかんたんなことだが、人の二本の足で立つ姿勢と猿のそれとでは少し違う。人の場合はそのとき背筋がまっすぐになっているが、猿は背筋がやや湾曲している。なぜこの違いが出るかといえば、猿はその姿勢を取りながらもつねに四本足の姿勢に戻る用意をしているからだ。彼らの「順位性」という社会の構造が、無意識のうちにそうさせている。四本足の姿勢の方が俊敏に動けるし、急所を隠して戦うことができる。猿の「常態」は、あくまで四本足の姿勢にある。
二本の足で立つ姿勢を常態化していれば、猿とは骨格が違ってくる。その違いがあらわれた時点が、考古学上の「人類の起源」ということになっている。それが今ところ700万年前だといわれているのだが、だんだん常態化していったのかといえば、それはたぶん違う。四本足の姿勢を併用しているかぎり、二本の足の姿勢を常態化する契機はない。常態化したものは必ず下の順位に置かれてしまうのだから、常態化しようとするはずがない。
そのとき「順位制」がなくなっていた。そうしてみんながいっせいに立ち上がっていった。つまり、誰もが「弱い猿」になりたがる社会の構造になっていた、ということだ。そうでなければ、その姿勢を常態化する契機は成り立たない。
なぜ「弱い猿」になりたがったのか?
もともと人類は、弱い部類の猿だったはずで、住みよいジャングルの中でのテリトリー争いに負け続け、追われ追われてとうとうサバンナの中の孤立した小さな森に棲むことを余儀なくされていった。現在の考古学上の古い人類の骨はみな、そういう場所で発見されている。
ゴリラとかチンパンジーなどの大型の類人猿は、ひとまず地上で暮らしている。もしかしたら彼らの祖先は、樹上でのテリトリー争いに負けて地上に下りてきたのかもしれない。そうして地上での暮らしに合わせて大型化していったのだろうか。木の実が主食であるかぎり、樹上での暮らしの方がいいに決まっている。そして、あまり大型化すると、樹上での行動が鈍くなる。樹上には、大きな猿が自由に動き回れる空間はない。樹上で暮らすかぎり、あまり大型化しない。チンパンジーは樹上に寝床をつくったりしているが、移動するときは地上に下りてくるしかない。
類人猿はひとまず進化発展した猿なのだろうが、もとはといえば樹上でのテリトリー争いに負けて地上に下りてきたのかもしれない。
強い生きものが進化するのではない。強ければそれ以上進化する必要がない。弱い生きものがその生きにくさに四苦八苦しながら進化してゆく。生きにくさこそ進化の契機になる。どんな生きものも、生きにくさを生きている。それこそが生きものの普遍的な生のかたちなのだ。


原初の人類の祖先は、類人猿の中でももっとも弱い猿で、そうやってサバンナの中の小さな森に追われてきたのかもしれない。弱い猿になって四苦八苦して生きることを余儀なくされたことこそ、その後の爆発的な進化発展の契機になっているのかもしれない。
そのとき原初の人類は、すでに「順位争い」を放棄していた。だから、背筋がまっすぐになっていった。それは「順位争い」を放棄する姿勢なのだ。そうしてそれは現代社会を生きるわれわれの問題でもあり、われわれもまた、そういう姿勢を常態にしてこの生をいとなんでいる存在であるわけで、その「弱い猿」として生きることにこそ、われわれの「思考」や「感じ方」や「心のあや」や「人と人の関係」のかたちの基礎=自然=普遍がある。
直立二足歩行の起源を問うことは、人類社会の「現在」を問うことでもある。だから凡庸な人類学者たちはそれを文明社会の観念に合わせて「生き延びる能力を持ったより強い猿になることだった」と考えたがり、現在はそういう社会の構造になっているのだが、それでもじつは、より高度な知性や感性としての人間性も、より基礎的な知性や感性としての人間性も、あくまで「弱い猿」として四苦八苦しながら生きることにある。
今どきは、「わからない」とか「これはいったい何だろう?」と四苦八苦しながら問題と格闘したこともないくせに、自分は人よりも賢いとうぬぼれている中途半端な人間のなんと多いことか。そういう「うぬぼれ」を助長する社会の構造がある。そうやって人を説得・支配しにかかる。現代社会は、そうやって人と人が支配し合う構造になっている。
愛し合っている、心と心がつながっている、などとうぬぼれても、支配し合っているだけなのだ。
心と心は「つながる」ことなんかできない。人の心の自然は、ただもう一方的に「遠い憧れ」とともにときめいてゆくことができるだけだ。
本格的な学者や芸術家のようなより高度な知性や感性の持ち主も、赤ん坊や障害者のようなより基礎的な知性や感性の持ち主も、人を説得・支配しようとなんかしない。ひたすら「わからない」という迷宮の森の中でさまよいつつ、「弱い猿」として四苦八苦しながら生きている。
生き延びる能力を持った「強い猿」であろうとするということは、頭の中に「順位制」を持っているということだ。その「順位」の自覚(=うぬぼれ)によって他者を説得・支配しにかかる。
人の背筋がなぜまっすぐになっているかといえば、四本足の姿勢に戻ることをすでに放棄しているからであり、そうやって原初の人類は生きられない「弱い猿」として生きながら、その「嘆き」とともに頭上の遠く青い空を仰いでいたのだし、現在のより高度な知性や感性の持ち主も、より基礎的プリミティブな知性や感性の持ち主もまた、そうやって「わからない」という迷宮の森をさまよいつつ生きている。彼らは、人との説得・支配し合うような関係を生きることはしないしできない。ただもう、その「遠い憧れ」とともにときめき合っているだけだ。
「弱い猿」は、ただもう一方的に、他愛なく無防備にときめいてゆくことしかできない。そこにこそ、二本の足で立つことを「常態」にして以来の人間性の自然・本質・普遍がある。


二本の足で立ち上がった原初の人類の祖先は、「弱い猿」としてサバンナの中の小さな森に追われていった。
まあそこは、最初はジャングルのいちばん端っこだったのだろうが、地球気候の乾燥寒冷化とともにサバンナが広がりジャングルが縮小していった結果として、サバンナの中の孤立した森になったのだ。
しかしそうなればもう、ライバルの群れとテリトリー争いをして追われる心配もない。
猿社会の順位制は、より強いものが上の順位に立つというかたちで、ライバルの群れとのテリトリー争いができる能力を育てる仕組みにもなっている。
したがってそのとき人類の祖先がテリトリー争いから解放されたということは、順位制の仕組みもなくなっていったということでもあるのかもしれない。
猿社会の順位制の仕組みは、群れが膨らみすぎると成り立たない。順位がいつも変わって群れの秩序が混乱してしまうし、ボスの座を脅かす個体がどんどんあらわれてきて、ボスがたえず交代しているということにもなってしまう。
猿社会においては、弱い個体が追い出されるのではない。弱い個体がいなければ順位はなりたたないし、そんなことをしていれば女子供はみな追い出されることになる。弱い個体は下位の順位に置けばいいだけのことで、追い出す必要はない。自分よりも下位の個体がいることによって、自分が群れの一員であることが約束されている。なんだか今どきの人間社会とそっくりだが、ひとまずそういうこと。
ボスの座を脅かしそうな強い個体がボスによって次々に追い出されるのだ。そうやって群れの個体数を安定化させ、ボスを中心とした群れの秩序が維持されているし、ボスのそうした行動がそのまま群れ全体での順位争いにもなっている。
自分よりも下位の個体がいることによって、自分が群れの一員であることの安心・充足を得る。なんだか現代人のようないやらしい心模様だし、そのためにいつも自分の順位が脅かされる心配をしていなければならない。その緊張感はもう、ボスもその下の群れの構成員も同じなのだ。
だったらいっそのこと、いちばん下の順位になった方がずっと気が楽だ。
カミユは「奴隷の自由というのはたしかにあるのだ」といったが、乞食姿で人間社会にやってきた神の視線こそこの世のもっとも高度な知性であり感性である、ともいえるかもしれない。
人間的な知性や感性は、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」の視線を持つことによって育ってゆく。
中途半端な知性や感性のものたちばかりが、共同体の制度性に魂を売り渡したその「生き延びる能力」を根拠にしてうぬぼれているだけのこと。
おそらく直立二足歩行の開始前夜の原初の人類は、誰もが「生きられないこの世のもっとも弱いもの」の視線を持っていったのだ。そうでなければ、猿が二本の足で立つ姿勢を常態にするという奇跡的な生態が生まれてくるはずがない。
鳥や恐竜が二本の足で立っていることとはわけが違う。そんな薄っぺらなことをいってもしょうがない。


そのサバンナの中の孤立した森では、ライバルの群れとのテリトリー争いをする必要がなかったから、誰もが無防備な心模様を持つようになっていった。
サバンナに棲む大型肉食獣だって、森の中には入ってこない。森の中では自由に走り回ることができないし、獲物となる大型草食獣もいない。
二本の足で立ち上がったときの原初の人類はもう、群れの中での「順位制」にもこだわらなくなっていった。
しかしそこはサバンナの中の孤立した森であるのだから、群れから追い出されたら、たちまち生きられなくなってしまう。そうして、追い出されるのはいつだってボスの座を脅かしそうな強い個体なのだから、誰もそのような存在になろうとはしなくなっていった。
そのときボスはもう神のような絶対的な存在になっていたが、ボスが死ねばその座を引き継ぐものはいなかった。まあ群れの個体数が安定しているあいだは、オオカミの群れのようにみんなが誰かをボス=リーダーの座に祀り上げるということも可能だったのだろうが、群れの個体数が膨らみすぎてそれを減らさないといけない状況になってくれば、ますますボスになれそうな強い個体はいなくなってゆく。群れの個体数が安定していれば、ボスの座を脅かしそうになってもそれを許すし、ボスが次期のボスを育ててその座を譲るということも可能だが、もう、そういう生態の秩序は成り立たない。そのときボスのいちばんの仕事は群れの個体数を減らすことにあり、それができる個体はもういなかった。みんなをまとめて集団行動を引率することができる個体はいても、余分な個体を追い出すという生態はすでに失っている群れだった。
そのとき誰もが群れの個体数が増えすぎていることの鬱陶しさに苛立ち悩みながらも、誰も追い出すことはできなかったし、誰もが追い出されるまいとしていた。そんな状況で集団行動をすれば、体と体がぶつかり合って、動きの自由が保てない。それは「体が動く」という生きものとしての根源的な根拠が脅かされている危機的な事態であり、どんな生きものも、そういう状況に陥って集団ヒステリーを起こしたあげくに群れが自滅していったりしている。
つまり、そのとき二本の足で立ち上がることは、たがいの身体のあいだに「すきま=空間」をつくり合ってゆくことだった。二本の足で立ち上がれば、身体が占める地上のスペースは最小限になり、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」が生まれる。
まあ、誰もが他者の身体から押されるようにして二本の足で立ち上がっていった、ともいえる。そのとき原初の人類は、誰もがそういう「弱い猿」だった。
誰かが率先して立ち上がり、それをみんなが模倣していったのではない。自分だけ立ち上がることは、自分だけ追い出される猿になることであり、そんなことができるはずはない。言い換えれば、誰もが追い出されてもかまわない猿になっていった、ということでもある。人類拡散は、すでにここからはじまっていたのだ。
もう、群れの密集事態が鬱陶しくてたまらなかったのに、それでも誰も追い出すことはできなかったし、自分が出てゆくこともできなかった。その閉塞感からの解放として、二本の足で立ち上がることが常態になっていった。
そしてそれは猿としての生き延びる能力を失うといういわば「受難」の体験だったのであり、そうやって誰もが他者の身体に押し出され、その「無力」を嘆きつつ、頭上の遠く青い空を仰いでいった。
二本の足で立つ人類の背筋がまっすぐになっていることは、頭上の遠く青い空を仰いでいる姿勢である、ともいえる。頭上の遠く青い空を仰ぎながら、四本足の姿勢に戻ることを放棄・断念していったのだ。


生きられなさを生きることこそ、人間性の基礎であり、究極の可能性でもある。
中途半端なプチインテリや庶民ばかりが「わかる」という「生き延びる能力」を自慢して賢いつもりでいるが、この世のもっとも豊かな知性や感性の持ち主も、もっとも愚かで弱いものたちもみな、「わからない」という「生きられなさ」の迷宮の森の中でなやましく狂おしく身もだえしながら生きている。
原初の人類は、生き延びたいとなんか思わなかったから、二本の足で立ち上がっていったのだ。ただもう、生きてあることのいたたまれなさからの「解放=カタルシス(浄化作用)」としてその体験があった。
人は、生きてあることのいたたまれなさからの「解放=カタルシス(浄化作用)」を汲み上げることができなければ生きられない。
生きてあることは、ひとつの「穢れ」なのだ。そういうことを心の底で自覚しながら人は、高度な知性や感性の持ち主になっていったり、生きられないこの世の愚かで弱いものになっていったりしている。
人間なら誰だって生きてあることのいたたまれなさはどこかで疼いている。人類の歴史はそこからはじまったのだし、われわれだってそこから生きはじめるのだ。一日一日そこから生きはじめ、一瞬一瞬そこから生きはじめる。そうやって人は、「今ここ」のこの世界の輝きにときめいている。
「今ここ」の頭上の遠く青い空に対する憧れ、そこに人間性の基礎があり、そこにこそ人類の知性や感性の究極のかたちがある。
まあ、自分が「庶民」や「市民」であることに居直っても、日常生活に耽溺し引きずられて生きていることに居直ってもしょうがない。この生は「穢れ」であり、正しいことも美しいことも「自分=ここ生の外」にある。人の心は、「自分=この生の外」の「非日常」の世界に飛躍・超出してゆくようにときめいている。
まあ今どきの大人たちは「自分=この生」に居直って「自分=この生」の充足を追い求めているのに対して、若者たちは「癒し」とか「萌え」とか「かわいい」というイメージを称揚しながら他愛なく無防備にときめいてゆく体験を持とうとしている。つまり、それだけ若者の方がこの生のいたたまれなさをよく知っているのであり、彼らはこの世の「愚かで弱いもの」だからこそ、そのぶん「自分=この生」の外の「非日常」の世界に飛躍・超出してゆく「カタルシス(浄化作用)」を汲み上げてゆく体験を切実に模索している。
他愛なく無防備なときめきなしに原初の人類が二本の足で立ち上がるという奇跡は起きなかった。
平和で豊かな社会の大人たちは、「自分=この生」に居直るばかりで、「自分=この生」の「穢れ」を知らない。「自分=この生」に居直った彼らの説く「愛」も「幸せ」も「よりよい未来の社会」もなんだか嘘っぽく、若者たちの多くは「どうでもいい」と思っている。
「自分=この生」なんかどうでもいい、「今ここ」の「あなた」や「この世界」の輝きに気づきときめいてゆくことができなければ人は生きられない。
「自分=この生」に居座って世界や他者に対する警戒心や緊張感ばかりたぎらせてまるでときめいてもいない今どきの大人たちの語る「正義」も「愛」も「幸せ」もどうでもいい。そんな「自分=この生」に執着した生き方なんかしたくない。そこから人間的な知性や感性が崩壊してゆく。自分なんか、愛されなくても幸せでなくとも正義でなくても、どうでもいい。「あなた」や「この世界」が輝いて見えていればそれでいい。その「ときめき」がなければ人は生きられない。