他愛ないときめき・ネアンデルタール人論106

原節子のことを書いている途中で「憧れ」という言葉と出会い、これは人類史の「起源論」の大きな問題かもしれない、と思った。
何はともあれこのことは、直立二足歩行の起源ともかかわっている問題なのだ。
原初の森の中で暮らしていた人類は二本の足で立ち上がることによって、頭上の遠い空を仰いだ。それによって人類は、はじめて「森の外の世界」があることに気づいた。何もない遠く青い空、原初の人類は、それを仰ぐことによってひとつの「解放感」を体験した。つまり、それによって遠く青い空に対する「憧れ」が芽生えたわけだが、それは「今ここ」の「非日常」の世界に対する「遠い憧れ」であって、今どきの人類学者たちが合唱しているような「未来に対する計画性」などという現実的日常的なあさましくも俗っぽい欲望のことではない。
「未来に対する計画性」などという問題設定で人類の文化の起源や知能の進化発展の契機を語っても何もわかるはずがないのだ。
なぜ二本の足で立ち上がったかといえば、四本足でいることが苦痛だったからに決まっている。そしてその苦痛は、群れが密集しすぎて、群れで行動するときは必ず体をぶつけ合っていないといけないとかの「閉塞感」にあった。その体をぶつけ合っている状態から押し出されるように二本の足で立ち上がっていったのであり、その「閉塞感」からの解放として「憧れ」という心模様が芽生えていった。
体をぶつけ合っていたら、体を自由に動かすことができない。それはもう、「体を動かす」という生きものとしての本能が脅かされる危機的な事態であり、その苦痛は根源的だった。そうしてそのとき誰もが被害者であると同時に加害者でもあったわけで、誰も恨むことはできないし、誰もがその状態から逃れようとして、誰もがいっせいに立ち上がっていった。
四本足の猿が二本の足で立つことを常態にするという事態は、みんながいっせいにそうしたということでなければ論理的に成り立たたない。それは、きわめて不安定な姿勢である上に胸・腹・性器等の急所を外にさらしてしまっているのだから、攻撃されたらひとたまりもない。たとえリーダーのボスであっても、密集状態で自分だけそんなことをしたら、たちまち攻撃されて追い出されてしまう。追い出すことは、群れの個体数を減らすためのもっとも手っ取り早い解決方法であり、猿はみんなそうしている。そのとき原初の人類がそうしなかったのは、そうすることができない状況があったわけで、そこはサバンナの中の小さな森だったから、追い出しようがなかった。追い出されたら、たちまち肉食獣の餌食になってしまう。群れからはぐれてさすらうようなスペースはなかった。そのようにして「追い出す」という生態を失っていった結果として群れが密集状態になったのだ。そうしてそれにともなって、「閉塞感」を抱えながら生きることを余儀なくされていた。
チンパンジーの場合は、「順位」が第二位になった個体を第一位のボスが次々に追い出してゆく。弱いものが追い出されるのではない。ボスの座を脅かしそうな勢いで強くなるから追い出されるのだ。とすればそのとき人類は、誰もが強くなるまいとするようになっていた。そうなれば、誰も追い出されない。みんなが弱い猿なのだから、ボス以下の順位などないようなものだった。ボスはもう神のような絶対的な存在だったが、しかしそんな状況でボスが死ねば、もうボスの座を継ぐものはいない。弱いものばかりが残った。そのとき人類は、誰もが弱いものであろうとする心模様を持つ存在になっていた。だから、さらに弱い猿になってしまう「二本の足で立ち上がる」という選択をすることができた。もう、みんなが弱い猿になろうとしていたのだ。そうしていっせいに二本の足で立ち上がっていった。


弱いものが「憧れ」を抱く。そのとき原初の人類は強いものであろうとする望みを捨てていたのだから、強いものに憧れる、というのではない。無力であることの「嘆き」からの解放は、「嘆き」それ自体を忘れてしまうことにある、強いものに憧れたって、自分が無力であることの「嘆き」が消えるわけではない。ますます自分の無力を思い知らされてしまう。無力である自分を忘れてしまわないことには解放はない。
「憧れ」とは、「自分」を忘れてしまう心模様のこと。自分に向いている意識が引きはがされて、自分の外に向かってゆくこと。青い空は、どこまでも遠い。そこに向けば、心は、どこまでも遠く自分から離れてゆく。それを「憧れ」という。心が「自分」から離れてゆくことのカタルシス(浄化作用)がある。それは、「弱いもの」しか体験できない。みずからの生き延びる能力に満足していたり、生き延びる能力を持とうとしていたら、意識が自分から離れてゆくということは起きない。他者や世の中を憎んでいたら、意識はますます自分に向いて離れない。生き延びる能力持っている自分をまさぐり充足してゆくということもあろうが、そこには意識が自分の外に向かう「憧れ=ときめき」はない。自分が消えてゆくカタルシス(浄化作用)はない。
強いものに「憧れ」を抱くのではない。その意識は、「憎しみ」と同様、必ず「自分」に跳ね返ってくる。
「憧れ」は「何もない」ことに向かう。「何もない」からこそ、そのとき意識は、限りなく自分から離れてゆく。人が遠く青い空を「憧れ」とともに仰いでいるとき、意識が限りなく自分から離れて自分が消えてゆくような心地に浸されている。
大衆は、スターに憧れる。それは、自分がどんなに願ってもかなうことのない存在だからだ。その「不可能性」に憑依してゆくことを「憧れ」という。自分もスターになりたいと憧れるのではない。自分を忘れて憧れているのだ。
「憧れ」は「生きられない弱いもの」のもとに宿っている。原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって「生きられない弱いもの」になった。そこで「遠い憧れ」を抱きすくめていった。


四本足の動物は、頭上の空を仰ぐということはほとんどしないし、その姿勢ではできない。だから、ネズミなどの敏捷な小動物が、わりとかんたんにワシやタカに捕捉されてしまう。
二本の足で立ち上がった人類は、遠く青い空を仰ぐ「憧れ」を持ったことによって、猿から分かたれた。
二本の足で立つこと自体は、猿でもかんたんにできるし、必要なときいつでもそうしている。ただ、必要がなくなればすぐにやめる。もともとそれは、不安定で危険な姿勢だからだ。それを常態にしたら、生きられなくなるし、もっとも大切な仲間との「順位争い」に負けてしまう。
人類だけが、それを常態にしていった。そんなことをしたら生きられなくなるのに、それでもそれを常態にしていった。そのときすでに順位争いがない生態になっていたのであり、それはつまり、誰もが生きられない存在になると同時に誰もが他者を生きさせようとする存在になっていた、ということを意味する。そうやって猿よりも弱い猿になった人類は、種として生き残ってきた。
他者を生きさせるというかたちで意識が他者に向いていれば、生きられない弱い存在である自分のこと、すなわちそういう「嘆き」を忘れていられる。
何かに夢中になることは「われを忘れる」ことであって、自分に酔ったり自分をまさぐったりすることではない。夢中になることはわれを忘れて「ときめく」ことであり、「ときめく」ことはひとつの「心の飛躍」であり、心が日常とは別次元の「非日常」の世界に超出してゆくことだともいえる。人の心はそういう「非日常」の世界に対する「遠い憧れ」を持っているから、「ときめく」という「飛躍」の心模様を体験する。
原初の人類は、遠く青い空を仰ぐことによって、「憧れ」という自分のことを忘れてゆく心模様に目覚めていった。もう、自分が生き延びることなんかどうでもよかったし、どうでもよくなってゆくことのカタルシス(浄化作用)があった。


人間性の基礎は、自分のことを忘れてゆく「遠い憧れ」にある。未来に憧れるのではない。「今ここ」の頭上の青い空、すなわち人は、無意識において「今ここ」の「非日常」の世界に憧れているのであり、そこから「ときめく」という心模様が生まれてくる。「日常」の延長としての「未来」を計画するのではない。それが現代社会の動きの主流であるとしても、そこに人間性の自然としての「ときめき」があるのではない。宝くじが当たったら何をしようとワクワクしていることは、「われを忘れたときめき」とはいえない。ますます「自分」にはまり込んでいるだけだ。ワクワクしたって、心は解き放たれていない。
二本の足で立っている猿である人類は、その本質・自然において「猿よりも弱い猿」なのであり、「生きられない弱いもの」は「自分」や「この生」を忘れてしまう体験がないと生きられない。「ときめき」とは「今ここ」で「自分」や「この生」を忘れてしまう体験であり、弱いものはそうやって生きてあることのカタルシス(浄化作用)を汲み上げてゆく。
弱いものほど「今ここ」の「世界の輝き」に深く豊かにときめいている。言い換えれば、どんなに社会的に恵まれた立場にいる人でも、「今ここ」の「世界の輝き」深く豊かにときめいている人は、「生きられない弱いもの」として生きるタッチを持っているのであり、人間的な知性や感性はそうやって生まれ育ってくる。わからない問いを前にしたとまどいやなやましさやくるおしさという、その弱いものとしての「嘆き」こそが知性や感性になってゆくのだ。
それに対して、よりよい未来の社会や生を計画するということは、すでに「今ここ」の「ときめき」を失っている、ということでもある。まあそうやって「よりよい未来の社会や生」を実現しても、そこでまたさらなる「よりよい未来の社会や生」を計画することになるだけである。なぜならそのとき人はすでに「今ここ」の「ときめき」を失っているのだから、どんなによい社会やよい生を実現しても「ときめく」という体験は永久にできないのだ。現代人は、そんなことを繰り返して生きてきた果てに、認知症鬱病やインポテンツになってゆく。
「今ここ」で「非日常」の世界に超出してゆくことを「ときめき」というのであり、そのとき人の心は、「自分」も「この生」も忘れてしまっている。そのタッチにエリートも大衆もない。持っている人は持っているし、弱い立場の大衆だって、「自分」に執着しながら強がってすっかりときめかなくなってしまっている人もいる。生き延びる能力を持った強いものであろうとするその「緊張感」で、すっかりときめきをを失い心を病んでゆく。その「緊張感」で自分の外の環境世界のあれこれに意識が散乱して、一点に焦点を結びながらときめいてゆくという体験ができない。
「ときめき」とは、無防備で他愛ない「遠い憧れ」のこと。そうやって心が一点に焦点を結んでゆくことを「ときめき」という。


人類の歴史は、森の木々のあいだから仰ぎ見る遠く青い空に対する憧れとともにはじまった。ここから「人間性」といわれる心模様が生まれ育っていった。人は誰も、心の中に「遠い憧れ」を持っている。
心の中の他愛なく無防備な「憧れ」こそが猿よりも弱い猿だった原初の人類を生き残らせ、その知能を進化発展させてきた、という逆説。「未来に対する計画性」によって進化発展してきたのではない。むしろ「未来に対する計画性」によって知性や感性が鈍磨し、心を病んでゆくのだ。
仰ぎ見る遠く青い空の、その「非日常性」に対する憧れ、「直立二足歩行の起源」も「人類拡散」も「言葉の起源」も「埋葬の起源」も「火の使用の起源」も絵や歌や踊りなどの「芸能・芸術の起源も」、ようするに「遠い憧れ」の問題なのだ。
「知能」という人間的な知性や感性だけでなく、生きものの「命のはたらき」それ自体が「遠い憧れ」として起きている。心の中に「遠い憧れ」を持っていないと男のペニスは勃起しない。「遠い憧れ」とともに人類は一年中発情している猿になり、圧倒的な繁殖力を獲得していった。
猿よりも弱い猿だった人類が生き残りどんどん繁殖し地球の隅々まで生息域を広げていったのは、「生き延びる」能力を進化発展させていったからではなく、「もう死んでもいい」という感慨とともにある「非日常」の世界に対する「遠い憧れ」を心の底に持っていたことにある。それが、猿にはない人間性の自然・本質なのだ。人類の身体が大きくなり知能が進化発展してきたのは、その「結果」であって、それが「契機=原因」だったのではない。
おそらく、脳が大きく重くなっていった「結果」として身体も大きくなってきたのだろう。そうならないと、二本の足で立つ姿勢のバランスがうまく取れない。そうして、猿としての敏捷性をはじめとする身体能力、すなわち「生き延びる能力」をますます失っていった。そうやって生きてあることがますますなやましく狂おしくいたたまれないことになってゆき、そうなればもう「生き延びようとする欲望」をたぎらせている余裕などなく、ひたすら「今ここ」に生きてあることの「カタルシス(浄化作用)」を汲み上げようとする存在になっていった。そうやって人類の知能がさらに進化発展してきたのだ。
まあ今どきの人類学者の多くは「生き延びようとする欲望」のことを「未来に対する計画性」と言い換え、その問題設定で人類史を考えているのだが、それだけで知能が進化発展するのなら、現代社会のほとんどの人はノーベル賞級の知能の持ち主だということになる。
そりゃまあ今どきは無知な庶民でもたいていのものが「自分は頭がいい」とうぬぼれている世の中だが、それほどに現代人の自意識は肥大化してしまっているというだけのこと。そうやってうぬぼれることなんかかんたんなことだし、頭がよくなりたいという欲望だけで頭がよくなるわけでもない。頭がよくなるという「結果」をもたらすのは、「何だろう?」と問うてゆく「遠い憧れ」なのだ。今どきは、そういうなやましく狂おしい「問い」を持たないで勝手に何もかもわかっているつもりになっている大人たちのなんと多いことか。そうやって「自分は頭がいい」とうぬぼれている。そうやってこの社会で生き延びる能力を人に先んじて獲得しひとまず成功者として自慢しても、それは人間的な知性や感性が豊かだということとはちょっと違う。
そんな大人ばかりの世の中で、本格的な知性や感性が豊かに育ってくることなどあるはずがないし、そんな大人たちが認知症鬱病やインポテンツになってゆく。
この世の本格的な知性や感性の持ち主は、そんなうぬぼれなど持っていない。「遠い憧れ」とともにひたすら「何だろう?」問うている。そのなやましさ狂おしさを生きているからこそ、「ああそうか?」と納得してゆく「カタルシス(浄化作用)」も体験されるし、そこからさらに新しい問いに分け入ってゆく。「もう死んでもいい」という勢いで「荒野」に分け入ってゆく。そうやって人類の知性や感性は進化発展してきたのであって、「生き延びようとする欲望」=「未来に対する計画性」によってもたらされたのではない。
人間的な知性や感性の本質を「未来に対する計画性」などという安直で底の浅いパラダイムで語っているかぎり、物的証拠など何もない「起源論」の「荒野」に分け入ってゆけるはずがないし、現代社会で人と人が他愛なく豊かに微笑み合う状況が実現されることもおそらくない。