ときめきとひらめき・ネアンデルタール人論107

 
アフリカの森の中に棲息していた原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、頭上の遠く青い空に対する「憧れ」を抱いていった。この「遠い憧れ」によって猿から分かたれ、やがて知能が爆発的に進化発展してゆく契機になった。
ともあれそれはいったん「猿よりも弱い猿」になる事態だったのであり、その「生きられなさを生きる」ことのなやましさやくるおしさとともに一年中発情している猿になりながら、圧倒的な繁殖能力を獲得していった。
人類史700万年の半分は「猿よりも弱い猿」としての歴史だった。二本の足で立ち上がった瞬間から猿よりも強く大きくなっていったわけではない。猿よりももっと生きるのが下手な猿になってしまい、そのハンディキャップを圧倒的な繁殖力で補いながら、数百万年かけて猿に追いつき追い越していったのだ。その、生きることが下手であることのなやましさやくるおしさの「嘆き」とともにある「遠い憧れ」こそが、その後の爆発的な進化発展を生み出した。
人類の男のペニスは、女に対する「遠い憧れ」とともに勃起している。現代社会の大人たちは、その「遠い憧れ」を失ったものから順番にインポテンツになってゆく。
その「遠い憧れ」こそが、人間的な知性や感性の基礎になっている。


本格的な数学者が発見し導き出す数式は、おそらく、「今ここ」の遠く青い空を仰ぐような非日常の世界に超出してゆく体験であって、「未来に対する計画性」などといういじましい心理からもたらされるのではあるまい。それは、「今ここ」の「ひらめき」であり「ときめき」であって、既成の数学の知識を積み上げてゆけば導き出せるというようなものではないはずだ。
「ひらめき」の水源は「遠い憧れ」にある。
いやべつに数学でなくても、学問というのはほんらい、既成の知識を積み上げてゆけば成果が得られるというようなものではなく、「わからない」という迷宮の森に分け入ってゆくことだろうし、そのとき答えは「ひらめき」として空から下りてくる。
音楽や絵画だって、こうすれば美にたどり着けるという図式などない。最後はどうしても「ひらめき」と「ときめき」で超えられない河を超えてゆくしかないのであり、そういう「飛躍」を持っているところに人間性の自然=本質がある。
「ひらめき」や「ときめき」、すなわち「今ここ」の「世界の輝き」に対する「反応」が人類の文化を進化発展させてきたのであって、「未来に対する計画性」などという予定調和の観念だったはずがない。現代人は、そういう「反応」を失っているから「未来に対する計画性」でそれを補わねばならないのだし、「未来に対する計画性」を持たねば生きられない社会の構造になっているから「反応=ときめき」が希薄になってゆく。
たとえば、人類史の言葉が存在しない段階で言葉を想起する(=計画する)ということなど論理的にありえないわけで、それでも言葉が生まれてきたということには、何かしらの超えられない河を超えてゆく「ひらめき」と「ときめき」があったのだ。そのとき人類は、非日常の世界に超出してゆく体験として言葉と出会ったのであって、言葉を計画し生み出したのではない。今どきの凡庸な人類学者たちは、そこのところをちゃんと考えていない。
言葉を生み出すための「象徴思考」が発達して言葉を生み出したとか、そういうことではない。つまり、頭の中に言葉が浮かんだのではない。さまざまな音声を発しているうちに、その音声が「言葉」であることに気づいていっただけであり、その「気づく=発見する」という「ひらめき」と「ときめき」こそが言葉が生まれてくる契機になった。
心に「遠い憧れ」を持っているものが、「ひらめき」と「ときめき」とともに「気づく=発見する」という体験をすることができる。その「官能性」にこそ人間的な知性や感性、さらには人と人がときめき合う関係の本質・自然がある。


「あなた」と出会うことは、「あなた」の輝きに「気づく=発見する」という体験なのだ。そうやって人は人にときめいている。
心の中の「遠い憧れ」を失ったものから順番にときめかなってゆく。
現代人のように「未来に対する計画性」としての予定調和の「マニュアル」だけで生きていたら、「今ここ」の「ときめき」はどんどん減退してゆく。社会の歯車になって働く仕事はそれですむかもしれないが、人と人のときめき合う関係がそんな作為的な「マニュアル」だけで得られるはずがない。出たとこ勝負の「今ここ」に対する「反応」の豊かさを持っていなければ、ときめくこともときめかれることもない。
人付き合いの「マニュアル=心理学」がいろいろ研究されている世の中だ。マニュアル通りにうまく立ち回れば、たとえばやさしく親切な人だと評価してもらえる。それはまあそうだろうが、人の世の「心と心が響き合う関係」というのはそういうこととはちょっと違う。人と人の関係を「こうすればうまくいく」というマニュアルだけで処理してしまうということは、ときめく心を持っていないということであり、相手の「心のあや」に気づいてもいないということだ。相手にときめき、相手の言葉や表情に豊かに「反応」しているわけではない。だから、マニュアルにたよらねばならなくなる。そういうときめきや敏感に気づいて反応してゆく心を持っているなら、なんのマニュアルも持たない裸一貫の出たとこ勝負で人と関係してゆくことができる。ほんらい人と人は、そうやってときめき合い微笑み合う生態を持っている存在なのだ。
上手に生きて自分は優しい心の持ち主だとうぬぼれていても、心に「遠い憧れ」や「ときめき」を持っていないことはいずれ見透かされるし、何かのはずみでそういう正体をさらしてしまうのだ。
他人は、あなたの「マニュアル」だけでたらしこめるほどバカではないし、あなたがときめかれないのは他人がバカだからでもあなたを誤解しているからでもない。あなたの心に「遠い憧れ」や「ときめき」がはたらいていないことを見透かされているだけのこと。言い換えれば人は、無意識的になんとなくそのことに気づいてゆくことができる。人の心は、そういう「ひらめき」を持っている。
人は、あなたの言葉や表情やしぐさの「向う」の、人の「心のあや」に対する「鈍感さ」や「無神経」に気づいてしまう。二本の足で立ち上がった原初の人類が森の木の頂の「向う」の遠く青い空を見上げたように、その「向う」に気づき、その「向う」に思いをはせるのが人間なのだ。
だから「マニュアル」だけで人付き合いをこなしていても、あなたが望むほどには人はあなたにときめいてくれない。人は「マニュアル」の「向う」の、あなたのその鈍感で無神経な「心のあや」を見ている。
だいたい「ときめかれたい」というその心根が卑しいわけで、ときめかれたくて「マニュアル」にたよろうとする。
言い換えれば、「マニュアル」を超えた心と心が響き合う関係はある、ということだ。心に「遠い憧れ」を持っている人は「マニュアル」なんかにたよらないし、その心映えは、なんとなく他者に伝わる。
「マニュアル」なんか忘れて思わずときめいてしまう、という無防備で他愛ない心の動きが起きる体験は誰だってしているはずで、そこにこそ人間性の自然がある。
「ときめく」ことは「ひらめく」ことだ。心がそうやって「飛躍」してゆく、遠く青い空に吸い込まれてゆくように。
二本の足で立ち上がった原初の人類は、生まれたばかりの赤ん坊のような裸の心で、頭上の遠く青い空を仰いだ。その「遠い憧れ」は、現代社会を生きるわれわれの中にも息づいている。
「ひらめき」は、人間的な知性や感性の基礎であり、究極のかたちでもある。「ひらめき」の水源は、「遠い憧れ」にある。