生きていてもしょうがない・ネアンデルタール人論108

書きためてあった下書き原稿を、ふとしたパソコンの操作ミスで全部消してしまった。
このむなしさ。
死もまたこのようにしてやってくるのだろうか……と、今日はもう、行き当たりばったりの雑感から書きはじめるしかない。
最近の中高年のあいだでは、自分の死んでゆき方について、延命治療はしないでいいとか葬式はこうしてくれとかということをまわりのものにあらかじめ伝えておくということが流行しているらしい。
諸行無常、そうやって自分の死を覚悟した潔さを確認しようとしているのかもしれない。
しかしそんなことをいっても、死に方の前に「老い方」の問題だってある。
自分がどんな老い方をするのかということなど誰にも分らないし、どれほどの遺産を残そうと、ボケまくってまわりにさんざん迷惑をかけて死んでゆくのなら、めでたしめでたしという話にはならない。
そして「諸行無常」というのなら、明日も生きてあることを前提にしたような生き方はするな、ということにもなる。自分の死んでゆき方を計画するということは、それまでは生きていられるという未来をまだ当てにしている、ということでもあり、死を想いながらなんにも諸行無常になっていない。
死は、「今ここ」の背中に張り付いている。


われわれは、夜に眠りに就くとき、この世の見るべきものはすべて見た、この生はもうこれでいい、という感慨になることができるだろうか。眠りに就くことは、死んでゆくことのトレーニングみたいなものかもしれない。目を閉じても、頭の中で現世のあれこれをまさぐってばかりいたら、なかなか眠りはやってこない。
酒を飲みながら呆けてテレビなど見ているうちに眠ってしまえるのなら幸せだが、それが死んでゆくことのトレーニングになるのかどうか。そういう人は、呆けてしまわないと眠りに就けないともいえる。呆ける、という「自己充足」、テレビの画面と一体化しながら、まわりの世界が全部消えてしまっているような心地になって眠りに堕ちてゆく。それはまあ、死ぬ前に認知症になってゆくトレーニングをしていることかもしれない。
自己充足に浸ってまわりの世界を消してしまえる人がいる。自意識の強い人は、そういうことができる。自分は間違っていない、間違っているのはいつだって世の中の方だ、と思える人がいる。いつもそう思っているなら、自己充足に浸ってゆくトレーニングになる。
自己充足に浸って呆けてしまえば、眠りに就ける。
「死は世界の滅亡である」などという生命観もあるが、そこのところはいまいちよくわからない。自分が消えてゆくだけだろう、という思いがどうしてもある。どうすればこの世界に別れを告げることができるか、それが問題だ。
世の中には、みずからの死に際して「もういい、見るべきものはすべて見た」という潔い感慨になれる人がいる。自分もそうありたいものだと思うが、悲しいかなそんな品性は持ち合わせていない。
「朝(あした)に道を問はば、夕べに死すとも可なり」ということばがある。ほんとに知りたいことを知ることができたらもう死んでもいい、というような意味だろうが、どんな小さな疑問であれ、とりあえずの認識にたどり着ければそれなりの「もう死んでもいい」というようなカタルシス(浄化作用)はたしかにある。
しかしその先に、さらに多くの疑問が横たわっている。「知る」という体験はきりがないし、知りたいと焦る。
せめて一日にひとつ、何かを知りたいし、それがあれば眠りに就ける。
ともあれ何かを「知る」ということは、「もう死んでもいい」という感慨のカタルシス(浄化作用)を体験することだというのは、なんとなくうなずけるような気がする。


原初の人類は、二本の足で立ち上がって、森の向こうに見える頭上の遠く青い空を仰いで、「もう死んでもいい」という感慨のカタルシス(浄化作用)を体験した。それまで彼らは、青い空を知らなかった。四本足の生きものは空なんか仰がないし、その姿勢の制約によって仰ぐことができない。
おそらく、弥生時代奈良盆地にやってきた旅人は、まわりのたおやかな姿をした山々を仰ぎながら、「ここでもう死んでもいい」と思ったに違いない。そこはそのころの日本列島の人々のいわば「聖地」だったのであり、列島中から人がが集まってきていた。最初はほとんどが人の住めない湿地帯だったが、そのころの気候の乾燥寒冷化にともなって水が干上がってゆき、古墳時代になってからは干拓事業も進み、ついにはもっともダイナミックな人口爆発を起こした都市になっていった。
古事記の中のヤマトタケルは、死を目前にしながら「大和は国のまほろば、たたなづく青垣、山こもれる大和しうるわし」と詠った。これが、そのころの奈良盆地に住み着いた人々の共通の気分だったのであり、ヤマトタケルの死の場面はこの歌とともに盛り上がってゆく。
「知る」こと、すなわち美しい景色を前にした感動は、「もう死んでもいい」という感慨のカタルシス(浄化作用)を汲み上げることでもある。
やまとことばでは、知ることも死ぬことも「し」という同じ音韻で表している。古代人にとって知ることは死ぬことでもあった。
「し」は、「しずか」「しんみり」「しみじみ」「しーんとする」の「し」、「静寂」や「孤独」、すなわち心が洗われてゆくようなカタルシスをあらわしている。まあ死んでゆくことはそうやって自分が消えてゆくような体験なのだろうし、知ることもまた「わからない」という落ち着かない気分というか心のもやもやが洗い流されてさっぱりしてゆく体験に違いない。
生きてあることは、心のもやもやのさなかに置かれていることかもしれない。何が欲しいとか何がわからないとかこまったとかうっとうしいとかうるさいとかやりきれないとかたのしいとかおかしいとかうれしいかなしいとか腹立たしいとか、騒々しくさまざまな感慨が起きてくる。古代以前の人々にとっての死は、そういうもやもやをぜんぶ帳消しにして心がさっぱりとしいんとなってゆく体験としてイメージされていたのだろうか。
そして「なに、なぜ?」という問いは、子供の心で、原始人の心でもある。大人になるとそういう問いの心が薄れてくる。ものごとを知ればさっぱりするし、何もかも知っているつもりで生きていたい、というふうに横着になってくる。
古代以前のやまとことばは、ひとつの言葉にさまざまな意味・ニュアンスが含まれていたが、時代を経るにしたがってひとつの意味に限定されてきた。そのぶん語彙も増えてきたわけだが、「伝達の道具」としては、その方が都合がいい。
大人になることは、たくさんの言葉を知って、言葉の意味を限定して使うようになってゆくことかもしれない。そうやって「なに、なぜ?」という「問い」を持たなくなってゆく。せっせと拾い集めたあれこれの知識や情報をたよりに、そのわかっていることだけで生き、わかっているつもりになって生きてゆこうとするようになってくる。それは、賢くなってゆくことであると同時に呆けてゆくことでもある。
他人の気持ちや人格を自分で勝手に決めつけてわかったつもりになっている大人のなんと多いことか。それはきっと支配欲だろう。決めつけてわかったつもりにならなければ支配してゆくことはできないし、その時点でもう他者に対する「なに、なぜ?」という「問い」も「ときめき」も放棄してしまっている。
なんだか知らないけど、どうしてあんなにもわかったようなことばかりいうのだろう。まあほとんどの場合は、「人の人格や心のあやというのは、そのていどのステレオタイプな分析だけですむはずがないじゃないか」といいたくなってしまうようなレベルでしかない。
他人の心や人格なんか、そうかんたんにわかるはずがないではないか。


今どきの大人たちは「わからない」ということに耐えられない。そういう強迫観念の裏返しでわかったようなことばかりいうのだろうか。そうして仲良くすることが約束された予定調和の関係(ネットワーク)に潜り込んでゆくばかりで、その外の見知らぬ人との出たとこ勝負の場になったとたんに固まってしまう。
彼らは、なぜ「わからない」ということに耐えられないのか。これには、言葉がひとつの意味に限定されている世の中だから、ということにも一因があるのかもしれない。
ひとつの意味しかないのなら、その言葉に対する態度は、「わかる」と「わからない」しかない。それに対してひとつの言葉にたくさんの意味やニュアンスがあるのなら、かんたんには「わかる」という態度はとれない。そのときそのときで意味やニュアンスが変わってくるし、一度にいくつかの意味やニュアンスがこめられていることもある。古代以前は、そのようにして言葉を扱っていた。
たとえば、今でも「バカ」という言葉にはいろんな意味やニュアンスがあるはずだ。そのときその場でさまざまに意味やニュアンスが違ってくる。古代以前は、ほとんどの言葉がそういう扱われ方をしていた。言葉は、あらかじめひとつの意味に決定されているものではなかった。だから、そのときその場で感じたり気づいたりすることがなければ言葉のやりとりなどできなかった。
万葉集をどう読むかということだって、今どきの現代語訳などは言葉をひとつの意味に限定して解釈してしまうことが多く、なんだか当てにならないものばかりだ。本居宣長賀茂真淵だって、ずいぶんへんてこな読み方をしているのではないかと思わせられたりする。賀茂真淵の枕詞論(『冠辞考』)なんか、僕はぜんぜん信用していない。
言葉がひとつの意味に限定して使われている社会では、人々の認識や思考が「わかる」と「わからない」の単純な二項対立になってしまい、かんたんにわかったつもりになってしまう。
この生のことも、死後の世界のことも、かんたんにわかったつもりになってしまう。
かんたんにわかったつもりになってしまうから、かんたんにボケてしまう。つまり、脳のはたらきがどんどん単純化されていってしまう。「わかる」「わからない」の二項対立で考えていたら、そのあいだのさまざまなグラデーションに気づくことも感じることもなくなってゆく。
「心理学」に精通した現代人は、「心」はわかっているが、「心のあや」はわかっていない。そうやって人と人の関係が不調になっている。核家族をはじめとする仲良くすることが約束された関係の中に潜り込みじゃれ合いながら、しかしときめき合うことを失っている。
ときめき合うことは、たがいのあいだに「すきま=隔たり」をつくっておかないと体験できない。その隔たりを飛び越えてゆくことを「ときめく」という。その「すきま=隔たり」があるからこそ相手の「心のあや」に気づいたり感じたりすることができるのであって、密着した関係になってしまえば、近すぎてもう見えない。
密着した関係は、たがいの心や体を縛り合う。支配し合う、と言い換えてもよい。仲良くじゃれ合いながら、たがいの心や体の動きの自由を奪い合っている。
言葉がひとつの意味に限定されていれば「伝達」することに紛れがなくなる。そうやって相手をひとつの意味に閉じ込めてしまうし、語る方もまたすでにひとつの意味に閉じ込められている。伝達しようとするなら、ひとつの言葉にさまざまな意味を込めることはできないし、伝達される方もまたさまざまな意味を感じ取ることを許されていない。そうやって時代とともに言葉が「伝達の道具」になってゆくことによって、ひとつの言葉が持つさまざまな意味やニュアンスが失われていった。そうして人と人の関係もまた、ひとつの意味に閉じ込め合い支配し合う関係になってきた。
生きるためのマニュアルが確立された現代社会では、人や物事に対して深く豊かに気づいたり感じたりする「ときめき」や「ひらめき」を持てなくなってきている。そうやって認知症鬱病やインポテンツになってゆく。それは、時代とともに言葉が変質してきたということともおそらくリンクしている。
ひとつの言葉にひとつの意味しかないということは、言葉はただの「伝達」の道具=マニュアルでしかないということだ。そのひとつの意味はすでに決定されており、われわれはもう、古代人のように、そのつどそのつどその場にふさわしい意味やニュアンスを汲み上げてゆく(発見してゆく)ということをしていない。
いや現代人だって、人と人が語り合うことのカタルシスには、ただ「伝達し合う」ということだけではすまない何かがある。つまりそれは、言葉=意味の向こうの「心のあや」に気づき合う体験でもある。


人は「わからない=生きられない」という「嘆き」とともに遠く青い空を仰ぎ見る。そこから人間的な知性や感性としての「ひらめき」や「ときめき」が生まれ育ってくる。
「わからない」とか「生きられない」とか「何もない」とか、そういう「むなしさ」は、人間性の自然において否定されるべきものだろうか?
この世の「弱いもの」や「愚かなもの」たちは、避けがたくそうした「むなしさ」を背負って生きている。何しろ、生きていてもしょうがないものたちなのだ。
生きていてもしょうがない、というむなしさ。人は、そのことに耐えられない存在なのか?そうでもあるまい。耐えられるから彼らは生きているのだろうし、耐えられるから愚かで弱いものになってしまったのだろう。
そして愚かで弱いものたちは人類社会のマイノリティだともいえない。人間なんかみな愚かで弱いものだ、といっている人もいるし、それにうなずくものたちもけっして少なくはない。僕だって、身にしみて深くうなずいてしまう。
なのにいまどきは、「自分は愚かで弱いものだ」と思っていない人もたくさんいる。愚かで弱いものでは生きられない社会だし、彼らはけんめいに愚かで弱いものであるまいとしている。
社会(共同体)が、愚かで弱いものであってはならない、と命じてくる。愚かで弱いものばかりになったら、社会(共同体)は滅びてしまうらしい。
今や、愚かで弱いものであることが否定される社会の構造が出来上がっているのかもしれない。生命賛歌とは、生きていてもしょうがない人間なんかいてはならない、という強迫でもある。現在のこの国の総理大臣だって「一億総活躍」などといっている。しかしそんなことをいっても、現実問題として活躍できない人間の一定数は必ずいるのだし、それは、活躍している人間は活躍できない人間をさげすんでもいいといっているのと同じなのだ。
誰もが活躍できるようにしてやる、といい、活躍できることこそ生きてあることの証しだ、という。
まあ愚劣な物言いだと思うが、それでもこれがさして世の中の反発を食わないのは、誰もが「自分は愚かで弱い人間ではない」と思っているからだろうか。かんたんに「わかっている」つもりになれる世の中だし。
「わかっている」ことを競い合っている世の中で、人々は「わからない」ということの不安に耐えられなくなってしまっている。
「わからない」ことのなやましさやくるおしさこそが人の知性や感性を育てるというのに、それができないで「わかっている」ことの「リア充=幸せ」ばかり求める。
人は、「わからない」ことのなやましさやくるおしさの上に立って考えたり感じたりするのだ。そこに立ってこそ「ひらめき」や「ときめき」が生まれてくる。


自分なんか生きていてもしょうがないと思うことは「むなしい」ことだが、人の心は、じつはその「むなしさ」に魅入られてもいる。心のどこかしらで魅入られている。
仏教では、「無」と和解してゆくことこそ悟りの境地だ、というようなことがいわれるし、女のオルガスムスは自分が消えてなくなってゆくような心地だ、などといわれたりする。そうして事後に「もう死んでもいいわ」といったりする。
セックスをしようとするまいと、「もう死んでもいい」という心地の快楽は、女の方がよく知っている。それが女の実存感覚かもしれない。
たぶん人は、「消えてゆく」ときにこそもっとも確かに自分の存在を実感するのだろう。だから、「われを忘れて」何かに熱中したりときめいたりしてゆく。
いくら現代人が生き延びるためにあくせくしている存在だといっても、布団に入ったときの体が溶けてゆくような心地よさというのはたしかにあるし、朝に目覚まし時計に起こされても、まだ眠たかったら、もっと寝ていたいと思う。それは、どこかしらで「消えてゆく=むなしさ」に魅入られているからだろう。
「むなしさ」を抱きすくめてゆくときにこそ、この生のもっとも確かな実感があるのかもしれない。それを、ここではひとまず「カタルシス(浄化作用)」といっている。
小林秀雄は「現代人は、鎌倉時代の生女房ほどにも無常ということがわかっていない」といったが、日本列島の伝統の「あはれ」とか「はかなし」とか「わび」とか「さび」という美意識は、「むなしさ」を抱きすくめてゆくことの「カタルシス(浄化作用)」をいっているのかもしれない。
なんのかのといってもこの国では、「生きていてもしょうがない」と思っている愚かで弱いものの方が、美のそばにいるのだし、より深く豊かな「カタルシス(浄化作用)」を汲み上げてゆく契機を持っている。
人の心は、「もう死んでもいい」というかたちで解き放たれてゆく。
生き延びることができる能力、すなわち「わかっている」という自覚の「リア充」という幸せに浸っていても、認知症鬱病やインポテンツになってゆくのがオチかもしれない。「わからない」ことのなやましさやくるおしさに立つことができないから、「ときめき」や「ひらめき」を失って心も体も病み衰えてゆくのだ。
人間存在は、弱く愚かなものであることの「嘆き」の上に成り立っている。この世の最下層のほんとうに弱く愚かなものだけでなく、本格的な知性や感性をそなえた学者や芸術家だってじつはそういう自覚を持っているのであり、中途半端なプチインテリや庶民ばかりが何もかもわかった「かしこい」人間のつもりでいる。
何もない遠く青い空、その「むなしさ」に魅入られてゆく「遠い憧れ」こそが人間を人間たらしめている。
おそらく原始人や古代人は、「むなしさ」に魅入られてゆくことの「解放感」=「「カタルシス(浄化作用)」を知っていた。その問題設定で、もう少しネアンデルタール人論を続けてみたいと思っています。