「ゼロ」の発見・ネアンデルタール人論109

人間なんか、生きていたってしょうがない存在なのだ。
まあ、いつか人類が滅んでしまえば、人類は存在しなかったのと同じになる。
死んでしまえば、存在しなかったのと同じなのだ。
過ぎてしまった過去は存在しなかったのと同じで、生きてきたという記憶はあっても、過去の自分はもうどこにもいない。
確かなことは、「今ここ」に自分が存在するという感覚があるだけ。ほんとうに存在しているのかどうかということなどわからないが、とにかくそういう感覚だけは確かにはたらいている。
どうせ消えてなくなってしまうだけなのに、どうしてこんなにも「自分は存在する」という感覚をたしかに持ってしまうのだろう。この感覚は、われわれの救いになり希望になりえているか?
われわれは、この感覚を持て余して生きているだけではないのか。
「どうせいつか消えてなくなってしまう」という自覚もまた、好むと好まざるとにかかわらず、誰もがどこかしらに抱えてしまっている。それは、耐えがたいことか?耐えがたいから、「天国」とか「極楽浄土」とか「生まれ変わり」などのイメージを紡いでそれを信じ込もうとするし、おそらく信じ込むことができるのだろうが、だったら「消えてなくなる」という感覚はない方がいいのだろうか?
それでも人の心から「消えてなくなる」という感覚がなくなることはない。
人類は「ゼロ」という概念を持っているし、それを使ってさまざまな思考をし、さまざまな文化・文明を生み出し続け、それによって生きるいとなみが成り立っているともいえる。すなわち「ない=ゼロ」と向き合うことこそ、われわれの救いであり希望であるのではないのか。そこにこそ生きてあることの「カタルシス=浄化作用」があり、そこから人間的な知能=文化が進化発展してきたのではないのか。
この世の最高の快楽は「消えてなくなる」ことだ、といっている人もいるし、女はオルガスムスとしてそのことを知っているのかもしれない。
生きることの意味や価値なんかどうでもいいし、その「どうでもいい」というところでこそ人はより深く豊かに生きてあることを味わい尽くしているのではないだろうか。


「ここに物がある」という認識ができることは、「ここにはない」という認識ができることでもある。
「ない」という認識だって大切だろうし、誰もその認識から逃れられない。
「ここには大好きなあなたがいない」というさびしさ=喪失感は、とうぜん誰もが抱く。そんなとき、「ここにいなくてもあなたと私の心はつながっている」などという「物語」を捏造しても、「いない」ものは「いない」のだし、「いない」という認識を持たないですむはずもない。言い換えれば、そういうさびしさ=喪失感を抱く存在だからこそ、「たとえいなくても心と心がつながっている」などという「物語」を紡ぎ出すのだろう。
葬送儀礼は、死者と語り合う儀式でも、死者の心とつながっていることを確認してゆく儀式でもない。そう思いたくても死者はもう「いない」のであり、それを深くかみしめながら「別れ」を果たすためにするのだ。
幼い子供を亡くしたお母さんが今でも子供がどこかに生きているという幻想から逃れられずに心を病んでゆく、という例は多い。
妻や恋人に逃げられた男の未練だって、まあそのようなものだ。妻や恋人が自分のそばにいないという現実だけでなく、自分から離れていったその心までもまだ自分に向いていると思い込もうとしている。その病理、その狂気から、自殺や殺人という、さまざまなかなしい事件や残虐な事件が起きている。
未来なんかあるのかどうかわからないのに「ある」という前提で未来に向かうスケジュールを立ててゆく。現代社会はひとまずそうやって動いているわけで、そういう社会の構造が、そういう病理的通俗的な思考を生み出している。
「ここにいなくてもあなたと私の心はつながっている」などという思考に、人間的な知性や感性の輝きはない。


その「ない」ということの「さびしさ=喪失感」と向き合い味わい尽くすことによって、人類の知性や感性が進化発展してきた。直立二足歩行の起源は、生き延びる能力を喪失する体験だったのであり、そこから頭上の「何もない」遠く青い空に対する「憧れ」を紡ぎながら知性や感性を進化発展させてきた。それは、生き延びる能力を獲得する体験だったのではない。「生きられなさ」の中で「遠い憧れ」を紡いでゆく体験だった。
「喪失感」に耐えられない現代人は、他者との「一体感」の「充足」に浸ろうとする欲望を膨らませてゆく。今どきはそういう慰めがないと生きられない人は多いが、人間性の自然・根源においては、人はいろんな意味で「喪失感」をかみしめている存在であり、そこから生まれてくる「遠い憧れ」とともにより深く豊かな知性や感性が育ってゆく。
やまとことばの「ない=かなし」という喪失感をあらわす言葉は、そのまま親密さをあらわす言葉でもあった。
日本列島の古代人や原始人は、赤ん坊の愛らしさを「かなし」といった。その感慨は、「誰もが二度とそのころには戻れない」という「喪失感」の上に起きている。
人類は、そうした「喪失感」がきわまって「ゼロ」という概念を発見した。
人は、「ゼロ=ない」を知っている存在であり、それこそが人の知性や感性をより深く豊かにしている。


「ここにいなくてもあなたと私の心はつながっている」という「ある=一体感」は、なんだかやさしげだが、「つながっていないもの」を排除している「排他性」の意識でもある。やさしいようでいて、そういう無意識の排他性がはたらいている。それは、たとえば「われわれは同じ先祖を共有している」というネットワークの「部族意識」と同じであり、その「部族意識」という親密さは、先祖を共有していない他部族と敵対してゆく関係をもたらす。
共同体(国家)や宗教だって、そういう親密さと排他性の上に成り立っている。
「つながっている」などという「一体感」は、「排他性」の裏返しなのだ。
妙な「一体感」など持たない方がいい。ここにいなければ「いない」のだ。その大切な「あなた」は、存在しないも同じであり、そういうさびしさ(喪失感)をかみしめればいいだけではないのか。
そうして、大切な人であろうとあるまいと、「今ここ」の目の前にいる「あなた」こそ人間のすべてだ、と思ってゆければいいのだろうし、そういう感覚はたぶん、誰の中にも無意識としてはたらいている。
「大切な人」など持たないものは、「今ここ」の目の前の「あなた」を「人間のすべて」としてときめいてゆく。
「ない」ものを「ない」と認識することこそ、人ならではの知能というか人間性の自然であり、妙なネットワーク意識など持たない方がいい。それは、「排他意識」でもある。
「一体感」の証しとして、人は他者を支配しようとする。その関係はもう、権力者と民衆だろうと、巷の人と人の関係だろうと同じであり、戦後の核家族は、そうやって夫婦や親子が「一体感」の名のもとに支配し合う関係になりながら崩壊していったのだ。
子供が駄々をこねるとき、親との一体感を欲しがり、親を支配しようとしている。
自閉症的な傾向が強い人ほど他者との一体感を欲しがり、他者を支配したがる。親との一体感が子供を自閉症的にしてしまう。秋葉原事件の加藤君なんかその代表的な被害者かもしれない。彼は親から強烈に支配されつつ、親との一体感から逃れられなくなってしまった。そうやって彼もまた、度を超えた支配欲の持ち主になっていった。殺意なんて、支配欲の極みだろう。
親に気に入られる子供になろうとなんかしたらいけない。それは、親を支配しようとしているのと同じなのだ。じっさい今どきは、親をだますように親を支配して「いい子」を演じている例も少なくない。そうやって親との一体感に安住しているのだが、知らず知らず支配欲と排他性が強くなってゆく。彼らは、平気で人の心を踏みにじる。彼らにとって人の心なんか「支配する」ものであって、「気づく」ものではない。
「一体感」という「物語」。「一体感」が欲しくて人を支配してゆく。彼らは、「一体感」の中でしか他者との関係を結べない。他者が「いない」ことに耐えられない。いなくてもそばにいるかのような「物語」をつくってゆく。それが「部族意識」であり、今どき流行りの「ネットワーク」の関係だ。


「自閉」とは「ひとり」であることではなく、他者との「一体感」の中に置かれている状態のこと。他者との関係を持たない意識などない。彼らの心には、他者が「存在しない」という状態がない。今どきの「ひきこもり」などといっても、それでもまだ「ひとり」になれなくて、目の前にいない他者の悪意を勝手に想像しておびえていたりする場合も多い。それは親との一体感にまどろんでいた幼児体験の裏返しかもしれない。社会的に成功すればその「一体感」にまどろんでいられるが、挫折すれば、加藤君のようにありもしない他者の悪意を勝手にありありと感じておびえたり激しく憎悪したりするようになってゆく。そうやって、近くにいる見知らぬ人たちが自分の悪口をいっているかのように聞こえてくる「幻聴」を体験したりする。それほどでなくとも、多くの現代人が、他人に対する「緊張感」を募らせていて、まあそれが生き延びる能力にもなれば、認知症鬱病発達障害やひきこもり等の病理現象を引き起こしてもいる。
彼らは、幼児体験として親との「一体感」を持ってしまった。それが、彼らの思考の傾向や人付き合いの流儀の基礎になっている。そうやって、ここでいう人間性の基礎としての「遠い憧れ」を失い、ときめいたり人の「心のあや」に気づいたりすることができなくなっているのだが、それゆえにこそ冷徹にマニュアル通りに人との関係を遂行してゆく能力も発達する。
人が「一体感」の中で気づくのは自分の心ばかりで、相手も同じ心になっているという思い込みとともにその充足に浸っている。彼らは、他者との「一体感」の中で「他者」を失っている。
「一体感」は、支配=被支配の関係の上に成り立っている。支配の場に立つにせよ被支配にせよ、そこにこそ「充足」があり、そこには「ときめき」はない。その密着した関係意識は、目の前に「ない」ものを「ある」と感じてゆく心の動きを育てる。「目の前にいなくても大切な人とは心でつながっている」と思っても、「世の中の他人はみな自分をバカにしている」と思っても、根は同じなのだ。


「ない」ものは「ない」のだ。そう思うことができなくなって人は心を病んでゆく。「ない」ものを「ない」と思うからこそ、目の前のその人に「あなたが人間のすべてだ」という勢いでときめいてゆくことができる。
ひとっこひとりいない真夜中の道を歩いていれば、この世に自分以外の人間は存在しない、と思えて心細くなってくるのが普通の人情であり、そこであらためて大切な人とつながっていることの充足が実感されるなんて、病気なのだ。
人と人はつながってなどいない。たとえ目の前にいても、たがいのあいだには越えられない隔たりが横たわっており、その越えられない隔たりを飛び越えてときめいてゆくのだ。その「ない=隔たり」の向こうに他者を見ながら「遠い憧れ」とともにときめいてゆく。それが人と人が「向き合う」ということであり、その「ない」という認識こそが、人類の知性や感性を育て、人と人のときめき合う関係を豊かにしてきたのだ。
「大切な人とつながっている」という部族意識などたんなる自意識過剰のミーイズムであり、「豊かな愛」でも「やさしい心」でも「ヒューマニズム」でもなんでもなく、ときめいていないことの証しでしかない。人と人はつながってなどいない。誰だってひとりぼっちでこの世界に放り出されて途方に暮れている存在であり、そこから世界や他者の輝きにときめいてゆくのだ。
「一体感」の充足を知っているものよりも、ひとりぼっちで途方に暮れているものの方が、ずっと深く豊かにときめいている。


まあ「一体感」を知っているものの方が他者を説得し支配しながらこの世で生き延びてゆくという能力に恵まれており、現代社会はもう、そういう病理的な構造になってしまっている。
世の中には、社会的な人付き合いにおいてはそつがなくそれなりの人望もあるのに、恋愛とか夫婦関係とか友情などの親密な関係になればなるほどいつも相手が離れていってしまう、といった傾向の生き方を繰り返すほかない人がいる。
その人は、こうすれば人からやさしい人間だと思ってもらえるという人付き合いのマニュアルをしっかり持っている。しかしその能力は、人にそう思わせる、という支配欲の上に成り立っている。そうして親密な関係になれば「一体感」を持とうとして、より支配欲が露骨になってゆく。彼にとっての「愛」とは「支配すること」なのだ。
たとえば、世間的には人格者で通っているのに、家に帰ればいつも奥さんや子供に暴力をふるっている、というような話はよく聞く。彼には、人に対する「ときめき」なんかない。「執着」があるだけだ。「一体感」を持とうとする執着。それが「愛」という名であろうとなんであれ、「一体感」を持つために何がなんでも支配しようとして思わず暴力をふるってしまう。
「ときめき」がないから「マニュアル」にたよろうとするし、「一体感」がないと不安になり、親しい関係になればなるほど支配欲が露骨になってゆく。
まあ、他人の「心のあや」に気づいてゆくことができない人であり、「自分は愛されている」という「形式」をつくろうとして、何がなんでも支配しにかかる。
他人の心のあやに気づく、という「ときめき」がないのだ。
べつに奥さんに愛されていなくても、なにをしてもらえなくとも、いうことを聞いてもらえなくても、普通の人なら「そこに奥さんがいる」ということに対する純粋で他愛ない「ときめき」というものがあるわけで、その人にはそういう感性がない。何がなんでも「一体感」としての「愛されている」という形式を欲しがる。
その「形式」とは、自分の指図や命令に従わせること。
というわけで、そのあげくに奥さんや子供が辟易して逃げてゆく。彼においては、友情の場においても同じなのだ。親しくなればなるほど相手を支配しにかかって、けっきょくいつも逃げられてしまう。
世の人格者は、他人の心のあやに気づかない、という意味で孤独で自閉的だ。彼は「心と心はつながっている」という「形式」を欲しがる。しかし人の心なんか、つながっていないし、何もわからない。わからないからこそ、その表情やしぐさや言葉から「類推」=「展開」=「飛躍」しながら「気づいてゆく」という体験をする。彼には、そういう「遠い憧れ」がない。そういう人間性の自然としての知性や感性が決定的に欠落している。どんなに偏差値が高くて生き延びる能力を豊かにそなえているとしても、だ。


「ない=知らない」ことと向き合えるものは、より高度な知性や感性を持つか、もしくはこの世の愚かで弱いものとして生きるかのどちらかの階層に組み込まれる。
愚かで弱いものたちは、精神の健康というか人間性の自然を生きることと引き換えに、この社会における生き延びる能力を失うほかない。
この世のもっとも高度な知性や感性の持ち主たちだって、「ない=知らない」と向き合いながらそこから「発見・創造」というかたちですでにこの生の外の「非日常」の世界に超出していっているのだから、社会の実益から外れた「生きられない愚かで弱いもの」たちなのだ。数学とか哲学とか、高度な学問であればあるほど、この社会で生き延びるためには何の役にも立たない。彼らの知性や感性は、そういう「生きられない」世界に超出してしまっている。
べつにそうした高度な学問でなくとも、人は、生き延びることには何の役にも立たないことに熱中してゆく生態を持っている。恋やセックスや遊びなんかに夢中になっていたら身を滅ぼすだけなのに、それでも夢中にならずにいられない。生き延びることになんの役にも立たないことに熱中することがないと生きられない。われを忘れて熱中してゆくこと、そうやって「消えてゆく」体験がないと生きられない。そこに生きてあることのカタルシス(浄化作用)を汲み上げている存在だから「ゼロ」を発見したのであり、「ない」ということと向き合いながら命が活性化してゆくのだ。
「ない」ものは「ない」のであり、「ない」に気づき「ない」と向き合うことができることこそ人の知性であり感性であり、「ない」ものを「ある」かのように思い込んでゆくことなんか、文明人の制度的病理的な幻想にすぎない。そんなところに人の想像力(ひらめき)があるのではない。その思い込みこそあなたの知性や感性の限界であり、それは「想像」していないのと同じなのだ。
この生の「ある」という実感から「ない」という「非日常」の世界に超出=飛躍してゆくところにこそ人間的な想像力の自然・本質があり、そこにこそ生きてあることのカタルシス(浄化作用)がある。その、頭上の遠く青い空に対する「遠い憧れ」にこそ。


生きてあるのはいたたまれないことだ。無力な存在として生まれてくる赤ん坊はみな、そのことを知っている。人は、幼児体験としてそのことに気づき、そこからこの生の外の「非日常」の次元に飛躍・超出してゆく心の動きとしての「ひらめき」や「ときめき」を汲み上げながら、人間的な知性や感性が育ってゆく。
なのに平和で豊かな現代社会は、そのいたたまれなさを「一体感」という「充足」で覆い隠してしまうことの上に成り立っている。社会構造的に、誰もが「一体感」という「充足」を追い求めるようになってゆく仕組みがはたらいている。そうやって幼児期においてすでに人間的な知性や感性の源泉である「遠い憧れ」を失いはじめ、最後には認知症鬱病やインポテンツになってゆく。皮肉なことに現代人は、生き延びる能力を持つことによって、そうした人間的な知性や感性や生命力を失ってゆく。
目の前にいなくても大切な人とは心と心でつながっている、などというその通俗的な「一体感=充足」志向のどこが人間的であるのか。「いない」ものは「いない」のだ。「いない」という事実に耐えられないから、そんな「物語」を紡ぎ出す。
「いない」「わからない」「知らない」「見えない」「聞こえない」「生きられない」等々、そういう「ない」に深く豊かに気づいてゆくことによって人類は「ゼロ」を発見したのだし、その「ない」という認識の中にこそこの生のいたたまれなさが浄化されてゆく体験があり、知性や感性や想像力の源泉がある。
現代人は、「ない」ものを「ある」としてしまうことによってこの社会の「構造=制度性」に潜り込んで生き延びる能力を獲得し、そのことと引き換えに心を病んでゆく。
心と心はつながっているだなんて、現代人は、そんな物体でもないものを物体であるかのように決めつけながら、まどろんだり、逆に追いつめられたりしている。支配したり、支配されたりしている。
「物象化」という制度的思考というか思考停止。それは、やさしいのでも深く物事を考えているのでもなく、社会=時代に踊らされているだけの俗物根性にすぎない。
心と心はつながってなどいない。物体ではないのだから、つながることなんかできない。目の前の「今ここ」の表情やしぐさや言葉から類推・展開・飛躍しながら、たがいに「気づき合う」ことができるだけだ。そこにこそ、人間的な知性や感性がはたらいている。
心は物体=肉体ではないのだから、その本質・自然において生き延びる能力を持っていない。心は、この生の外の「非日常」の世界ではたらいている。そこには、時間も空間も存在しない。心も肉体も存在しない。「何もない」ということ、人の心は、そういう「非日常の世界=ゼロ」に対する「遠い憧れ」を持っている。その「遠い憧れ」が、「今ここ」の目の前の他者の表情やしぐさや言葉から類推・展開・飛躍しながら他者の「心のあや」や他者の「輝き」に気づきときめいてゆく。そこに、人間的な知性や感性の基礎と究極のかたちがある。そしてそれが、おそらく人類の文化の起源の問題なのだ。