「漂泊論」・8・旅の歴史のはじまり

僕はもう、電車の優先座席に座っていても誰からもとがめられない老人だが、そこに座ったことがない。そこしか空いていなくても、そこには座らない。いちおう立っていることができるから、座る権利はないと思っている。そこは、立っていられない人がいつでも座れるように、いつでも空けておくべきだと思っている。
健常者でも、貧血を起こすとかして途中で立っていられなくなることだってある。そういうときのための席でもある。
もしも僕がそこに座っているときに僕よりも歳をとった人が乗ってきてほかのところに行ってしまったら、なんだか気がとがめるではないか。
私は老人だからそこに座らせてくれないか、と自分からたのめる人なんか、そうはいない。代わってくれるもくれないも相手の勝手だと、たいていの老人が思っている。
人と人の関係は、つねに一方通行なのだ。
優先座席は、空いていたら健常者でも座ってもよい、というような席ではない。
近ごろは、若者や健常者が平気でそこに座っているようになった。落ち着いてケータイをいじっていたい、ということだろうか。ケータイで何をやっているかというと、ただのゲームだったりすることが多い。
笑っちゃうよね。ただのゲームをするために平気で優先座席を占領している。その鈍感さと品のない感性はなんなのだろう。
いつの間にか若者や健常者でも座ってもいいような雰囲気になってしまった。
若者がその席に座っているのは、ほんとに見苦しく無残な眺めだ。
人間は、じっと立っているのが苦痛な存在である。だから、油断をしていると、若者でも平気で優先座席に座るようになってしまう。そして、ゲームに夢中になっているから、前に老人が立っていることに気づかないし、気づいても代わりたくない。
おまえらのケータイゲームは、立っていられない老人を立たせていてもかまわないほど立派なものなのか?
電車会社だって優先座席の表示の仕方をもっと工夫するべきだと思えるが、時代の空気がそうなっているのなら、もう、どうしようもないのだろうか。若者が座っているのなら、40代50代のおじさんおばさんだって、座らないと損だという気になる。
人間は、たとえ若者でも座りたくなってしまう存在であり、二本の足で立っていることは、それほど根源的にしんどいことなのだ。
原初の人類は、二本の足で立ち上がりたかったのではない。立ちあがってしまったのであり、立ちあがっていることのしんどさを引き受けてしまったのだ。とりあえず引き受けないことには、われわれは人間でいられない。
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   1・生きてあることの嘆き(ストレス)
人間は、根源において、生きてある今ここを嘆きかなしんで存在している。ここから、旅の文化がはじまった。
生き物の体が動くということ自体、ようするに存在そのもののストレスを負っているからだ。
命のはたらきは、息をしないでじっとしていると息苦しくなることにある。じっとしているといっても、何もしないのではない。そのあいだに体はさかんに代謝活動をして、吸い込んだ酸素を炭酸ガスに変えてしまうから息苦しくなる。そのように命のはたらきとは、「死にそうになる」あるいは「死んでゆく」ことにある。
その、「死にそうになる」ことのひとあがきとして、直立二足歩行がはじまったわけで、このこと自体命のいとなみの自然に添った現象だったといえる。
「人間は本能が壊れた存在である」などとよくいわれるが、人間といえども本能に添った生き物として存在しているのであり、むしろほかの生き物よりももっと本能的な存在なのだ。
人間が旅をすることだって、ようするに生き物の体が動くという現象である、それは、生き物は生きてあることのストレスを負って存在しているという根源の与件から起きていることだ。
人間は、猿から派生した生き物だが、猿よりももっと生きてあることのストレスを負っている。だから旅をするようになってきた。
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   2・三角関係の発生
直立二足歩行をはじめた原初の人類は、猿よりももっと弱い猿として、猿よりももっと密集した群れをいとなんでいた。この意味で人類は、猿よりも二重に大きなストレスを負って存在していた。
したがって、自分たちの群れにほかの猿(たとえばチンパンジー)が入ってくれば、もう逃げるしかなかった。
人間は、逃げ隠れする生き物である。弱い生き物どうしとして、猿以上に連携し結束しようとする衝動を持っている。
と同時に、つねにほかの猿から追い払われて歴史を歩んできたから、より弱いものや邪魔なものを追い払おうとする衝動も当然肥大化してしまっている。
このようにして、人間独自の「三角関係」が発達してきた。それは、連携し結束しようとする衝動と排除しようとする衝動が一緒になって生まれてくる。
猿の社会には、あまり第三者を排除しようとするような三角関係はない。群れどうしであれ個体どうしであれ、つねに一対一の関係として衝突したり順位がつくられたりしている。
まあ群れどうしの衝突の際に、何頭かの個体が群れに紛れ込んだ一頭をよってたかったなぶり殺しにしてしまうことはあるらしいが、それはあくまで群れどうしの緊張関係において起こることだ。
群れから追い払われる個体は、あくまで一対一の関係で追い払われるのだろう。
しかし人間は、二対一の関係になって追い払うということをする。人間の方がその関係はきついのだ。
だから、人間の群れの方が、群れから追い払われたり脱落してゆくということが頻繁に起こる。
そうやって「拡散する」ということが猿よりもダイナミックに起きてきたのだろう。猿は、一対一で勝負できるようになれば、群れに戻ってゆくことができる。しかし二対一や三対一で追い払われたら、もう戻ることはできない。
そしてこの三角関係に加えて、二本の足で立って歩くということ自体が疲れ果てて戻る気力を無くしてしまう行為であり、人類は、つねに戻ることのできない旅を続けてきた。そうやって地球の隅々まで拡散していったのだ。
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   3・サバンナでは暮らせない
人類の拡散が猿よりもダイナミックであったのは、戻ることのできない旅に出たからであり、猿よりも弱い猿だったからだ。
最初の旅は、ひとつの森が二つに分かれて、そのあいだにできたサバンナを横切ってゆくことだったのかもしれない。
はぐれ者が、もうひとつの小さな森に逃げ込んでいった。
人類は、サバンナで暮らすことを覚えたのではない。サバンナを横切ることを覚えたのだ。それはもう今でもそうで、アフリカのブッシュマンもマサイ族も、サバンナの中に点在する森で暮らしているだけだ。
人間が、サバンナで暮らせるはずがない。大型の肉食獣がたくさんいる場所で逃げ足のない人間が暮らせるはずがないし、直射日光にさらされていれば体力はどんどんなくなってゆく。
人間には、どうしても逃げ隠れする森は必要である。
ライオンなどに伍して狩りをすることができるようになったのは、つい最近のことだ。それまでは、人間はつねに大型肉食獣の餌食になってきた。たとえば頭の中に肉食獣の牙が食い込んだ穴のある人間の頭蓋骨とか、そういう考古学の証拠もある。
かんたんに「サバンナに進出した」などといってもらっては困る。
サバンナを横切って生きてきただけなのだ。
そしてこの「サバンナを横切る」ということが、人類最初の旅だったのかもしれない。
サバンナを横切って、仲間やほかの猿の群れから逃げていった。
アフリカで生まれた人類は、弓や槍などを使って草食獣の狩ができるようになるずっと以前の、ただの逃げ隠れする猿でしかないレベルのときに、すでにアフリカ大陸を出て拡散していた。これは、考古学の証拠としてちゃんと見つかっている。そのとき、体の大きさも知能も、チンパンジーとほとんど変わりなかった。ただ、直立二足歩行して逃げ隠れする、ちょいと風変わりな猿であっただけだ。
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   4・人間は逃げ隠れする弱い猿だった
隣接したチンパンジーの群れどうしは、たがいのテリトリーの一部が重なり合っている。この重なり合っている部分を、オーバーラップゾーンというらしい。
チンパンジーは、大きな森の中でいくつかの群れが隣接して暮らしている。
しかし200万年前以降の人類は、それぞれの群れがサバンナの中の小さな森に分散して暮らし、群れと群れのあいだには、サバンナという緩衝地帯があった。
二本の足で立って弱みをさらしている人間は、チンパンジーような緊張関係は生きられなかった。この習性があったから、アフリカを出て拡散していった。他の群れとの緊張関係なしに生きられるのなら、食い物も気候環境も、さしあたってどうでもよかった。そうやって、50万年前には、とうとう氷河期の北ヨーロッパまでたどり着いてしまった。
緊張関係になれば一方が逃げてゆくのが人間の習性だった。
人間は、正面から向き合いながら、たがいの身体とのあいだに「空間=すきま」をつくってゆく。群れどうしの関係においても、たがいのテリトリーのあいだに「空間=すきま」をつくらないと安心できない。だから、チンパンジーの群れがそばに寄ってきたら、もう逃げてゆくしかなかった。身体的にも精神的にも、戦う能力がなかった。
人間自身の群れの中でも、追い払われたり脱落したりして逃げてゆくものがたくさんいた。そうして、いったん逃げ出したらもうもとのところに戻ろうとする気持ちを失っているから、行けるところまで行ってしまう。
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   5・人類は、生きてあることのいたたまれなさによって拡散していった
チンパンジーは人間よりも強い猿だったからアフリカにとどまり、弱い人間は、アフリカを出て地球の隅々まで拡散していった。
人間は、嘆きを生きることのできる存在であり、その嘆きをカタルシスに昇華しながら地球の隅々まで拡散していった。
拡散していったのは、あくまでそのときの環境に適合できない弱いものたちだった。弱いものほど嘆きをカタルシスに昇華してゆく能力を持っていたから、その住みにくい新天地に住み着いてゆくことができたのだ。
人間は、幾重にも生きてあることのいたたまれなさを抱えている。だから漂泊するし、だからこそ、どんなに住みにくくても懸命に住み着いてゆこうとする。
人間は、猿よりも弱くてだめな猿だった。そういうかたちで猿とは違う存在になっていったのだ。
まあ、誰だって「漂泊」というテーマを抱えて生きている。歳をとって体が衰弱してくると、よけいにそれが切実になる。そして、生まれたときからすでに生きることに疲れ果てている人もいる。
いや、人間なら誰だって、生きてあることに疲れ果てている。
漂泊するとは、嘆きかなしむことだ。
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【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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