「漂泊論」・9・「出アフリカ」という旅

   1・人類拡散の契機
「集団的置換説」を唱える研究者たちは、4万年前にアフリカのホモ・サピエンスという人種が大挙してヨーロッパに進出していったという。
しかしそのホモ・サピエンスだって、原住民であるネアンデルタールを駆逐できるほど強くて優秀な人種だったら、アフリカを出てゆくはずがないのである。そしてたとえヨーロッパに行ったとしても、チンパンジーのようにオーバーラップゾーンをつくりながら相手を追い払うというようなことはしないはずである。そういうやり方は、原始人の本性にはない。相手のテリトリーとのあいだに「空間=すきま」をつくって、離れて暮らそうとする。これが、直立二足歩行をする人間の本性だ。
そのときアフリカのホモ・ホモサピエンスは、アフリカの環境にすっかり適合して、アフリカにおいてのみ強い存在だったわけで、アフリカから出てゆく能力も出てゆこうとする衝動もなかったのだ。
4万年前にアフリカのホモ・サピエンスが大挙してヨーロッパに進出していったということなど、あり得ないのだ。そのとき、ヨーロッパまで移住していったアフリカ人などひとりもいない。遺伝子だけが集落から集落へと手渡されながら、ヨーロッパのネアンデルタールのところまで伝播していっただけである。このことは、いずれ遺伝子学的にもきっと証明されるにちがいない。
そのとき人類はすでに、ユーラシア大陸の隅々まで拡散していた。
人間は、旅をする生き物であると同時に、疲れ果てて住み着いてゆく生き物でもある。原始時代には、疲れ果てて住み着いていったのであり、チンパンジーのようなテリトリー争いはなかった。
テリトリー争いをしない生き物だったから、地球の隅々まで拡散していったのだ。
ましてや、そのとき地球上でもっとも住みにくい地域であった氷河期の北ヨーロッパで、どうしてテリトリー争いが起きるというのか。
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   2・滅びそうなものを介助するという習性
アフリカのホモ・サピエンスが、どうしてよりによって氷河期の北ヨーロッパに住み着いてゆかねばならないのか。
そうしてそのときもしもネアンデルタールが滅亡の危機に瀕していたら、ホモ・サピエンスはけんめいに助けようとするだろう。逆であっても同じだ。それが、「介護をする」という人間の本性であり自然だ。
われわれ現代人だって、滅亡の危機にあるクジラやトキを生き延びさせようとするおせっかいをしゃかりきになってやっているではないか。相手が人間なら、なおさらがんばってそうするだろう。
原始社会においては、人間どうしがテリトリー争いをしなければならないほど人口が密集していたわけではない。土地は有り余っていたのだ。
土地は有り余っていたのに、それでもネアンデルタールは、住みよい土地に集まってしまうのではなく、ヨーロッパじゅうに拡散していた。まず、そのことの意味を考える必要がある。つまり原始人は、それほどたがいのテリトリーがくっついてしまうことを嫌っていたのだ。それはアフリカのホモ・サピエンスならなおさらそうで、彼らの群れと群れは、サバンナという緩衝地帯を隔てた関係でしか生きたことがないのである。
原始時代においては、人がそばにいて滅びることはなかった。滅びそうになっている人間は、けんめいに生かそうとした。
ホモ・サピエンスだろうとネアンデルタールだろうと、相手がそばにいれば見殺しになんかしない。ろくな文明も持たない原始人が氷河期の北ヨーロッパで生き残ってゆくことができたのは、まさに誰もが「そばにいる人間を見殺しにしない」という本能を持っていたからだ。
どう考えても生き残ることなんかできるはずがないのに彼らは、生き残っていったのだ。
ホモ・サピエンスにその本能がなくネアンデルタールを見殺しにしてしまったというのなら、まさしくその習性ゆえに彼らには氷河期の北ヨーロッパを生き残ってゆく能力がなかったことになる。
他人を見殺しにしない、という本能を持っていなければ、原始人が氷河期の北ヨーロッパを生き残ってゆくことなんかできない。
つまり、ホモ・サピエンスネアンデルタールが交雑していたというのなら、一か所から両方の骨が出てくるという例がいくらでもあるはずである。
そして今のところ、ヨーロッパからアフリカ的純粋ホモ・サピエンスの骨が出てきたという例は、ひとつもない。すべてのホモ・サピエンスといわれる骨にネアンデルタールの遺伝子が混じっている。現在のアフリカ以外の人類のすべてに、ネアンデルタールの痕跡が残っている。
つまり、ヨーロッパに上陸したアフリカの純粋ホモ・サピエンスの骨なんか、ひとつも見つかっていないのだ。集団的置換説を証明したいなら、そんな骨がヨーロッパからいくらでも出土してくることを示さねばならない。
4〜2万年前にアフリカからヨーロッパに旅していったホモ・サピエンスなどひとりもいない。
そのときのクロマニヨンという人種の出現は、ネアンデルタールホモ・サピエンスの遺伝子のキャリアに変わっていっただけのことだ。
氷河期の北ヨーロッパは、アフリカ人がいきなり旅していってかんたんに住みつけるような生やさしい環境ではなかった。そんなことくらい、ちょっと考えれば想像がつくことだ。
それでもこの国では、プロもアマチュアも、寄ってたかって「集団的置換説」を大合唱している。
そのとき、ヨーロッパに移住してネアンデルタールと交雑したアフリカの黒人などひとりもいない。
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   3・そのときヨーロッパに移住していったアフリカ人などひとりもいない
原始人にとっての気候の変動という負荷は、現代人よりもはるかに大きいはずである。アフリカのホモ・サピエンスは、アフリカでの700万年の歴史を経て、アフリカの気候環境にすっかり適合してしまっていたのである。
そして氷河期のアフリカは、暑からず寒からず、地球上でもっとも住みよい地域だった。どうしてそんな環境を捨ててわざわざ極寒の北ヨーロッパに移住してゆかねばならないのか。
置換説の代表的な研究者であるイギリスのストリンガーは、この氷河期に、50万年そこに住み着いてきたネアンデルタールはその寒さに耐えきれずに南下し、熱帯育ちのアフリカのホモ・サピエンスは北上して悠々とそこに住み着いていった、といっているのである。こんなとんちんかんな話があるものか。
アフリカのホモ・サピエンスは、アフリカでしか暮らせないような体に進化してしまっていた。しかしそのネオテニー幼形成熟)の遺伝子は、集落から集落へと手渡されながら、やがて北ヨーロッパネアンデルタールの体にも住み着くようになっていった。
氷河期のアフリカは、とてもいい気候だったから、赤ん坊がゆっくり成長していっても生き残ることができた。そうやってゆっくり成長して長生きするネオテニー幼形成熟)の体質になっていった。しかしこの体質では、氷河期の北ヨーロッパに行けば、たちまちすべての赤ん坊が死んでしまう。
この遺伝子は、寒さに耐えられるネアンデルタールの赤ん坊が持つことによって、はじめて氷河期の北ヨーロッパで機能することができる。そうして彼らは、以前よりも寒さに耐える能力を少し落としたが、以前よりも長生きできるようになっていった。このことは、考古学の証拠からいくらでも説明がつくはずである。
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   4・文化が花開く契機
4万年前以降、ヨーロッパの壁画芸術などの原始文化は飛躍的に花開いていった。
こういうことを、ほとんどの人類学者は、知能が発達したからだという。知能が発達したアフリカのホモ・サピエンスが移住していったからだ、という。
何をバカなことをいっているのだろう。寒さを克服してゆくことによって知能が発達したというのなら、そのいとなみを50万年続けてきたネアンデルタールの知能が発達していなかったはずはない。そして寒さを克服してゆく体験をしたことのないアフリカのホモ・サピエンスがその時点でネアンデルタールの知能よりも発達していたはずがない。
まあ、知能などというもので文化が花開くものか。そんなあいまいなもので文化が花開くと考えているおまえらの脳みそのなんとお寒いことか。
それは、生きにくい生を生きているというその「嘆き」から生まれてくる。
住みやすい気候のアフリカで歴史を歩んできたホモ・サピエンスよりも、氷河期の北ヨーロッパで生きるか死ぬかの暮らしを50万年続けてきたネアンデルタールの方が、その嘆きを生きる感性を豊かに持っている。文化は、その最終氷河期を生きる「嘆き」から花開いてきたのだ。
ホモ・サピエンスネオテニーの遺伝子を持ってしまったネアンデルタールは、長生きできるようになったが、その最終氷河期の激烈な寒さに翻弄されていった。その「嘆き」から文化が花開いてきたのであり、その「嘆き」を生きるという伝統は、アフリカのホモ・サピエンスよりもネアンデルタールの方が豊かにそなえていた。
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   5・「未来を見通す計画力」だなんて、やめてくれよ
『人類がたどってきた道』という本の著者である海部陽介という東大系の研究者は、人類の文化が花開いてきた発端は「未来を見通す計画力」を持ったことにある、といっておられる。
まったく、この国の人類学の研究者なんかこんなアホばかりなのかと情けなくなってしまう。
「未来を見通す計画力」とやらをそなえた政治家や社会学者や法律家や経済人が、美意識や文化的な感性が突出しているとでもいうのか。
文化的な感性は、未来のことなど忘れて生きてある「いまここ」の「嘆き」を味わいつくしているもののもとに豊かに宿っているのだ。そういう「嘆き」から人間の文化が生まれてくるのだ。
壁画芸術だろうと言葉の発達だろうと、知能問題ではないのである。東大教授どころか、われわれよりも知能が劣った芸術家はいくらでもいる。小説家だって、頭が悪く行き当たりばったりの生き方しかできないくせに言葉に対する感性や人の気を引く物語を発想する能力だけは異様に発達している人がいくらでもいる。
それはともかく、この世の中には、大衆の無意識に付け込む嗅覚が異様に発達している人がいる。
歴史は大衆の無意識がつくってきたのであって、リーダーがつくってきたのではない。いつだってリーダーとか支配者と呼ばれる存在は、歴史を動かす大衆の無意識に付け込んでいるだけなのである。村上春樹がまさにそうだし、ヒットラーだってそうだった。
人類の歴史は、知能が発達した人間によってつくられてきたのではない。そりゃあ東大教授ならそう思いたいだろうが、歴史とはそんなものではない。人間なら誰だって生きてあることの「嘆き」を抱えて存在している。人々の、その「嘆き」の総和が歴史の流れをつくってきたのだ。
知能が歴史をつくってきたのではない、歴史の結果として知能が発達してきただけのこと。
4万年前の人類と現代人とのあいだに知能の差などない、といえばなんだか人間的な論理のように聞こえるが、だから4万年前の人類はその知能で文化を花開かせたというのなら、それだって傲慢で的外れの論理だ。
根源において人間を生かし歴史をつくっているのは、生きてあることの「嘆き」なのだ。
知能なんか関係ない。「未来を見通す計画力」で文化が花開いただなんて、おまえら、ほんとにアホだよ。このことは、海部氏ひとりが言っているのではない。世界中のおおかたの人類学者の歴史認識で、一部の知ったかぶりの世界ではこんな愚論で合意し合っているらしい。
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   6・生命は地球環境に適合していない、適合していないものを生命という
直立二足歩行の起源は、人間中心主義で考えると、必ずつまずく。
生命は、この地球上のじゃまっけな存在として、「死ぬ」という機能を与えられて発生した。われわれ人間であろうとも、生き物は、根源において、この地球上のじゃまっけな存在である。
誰もが無意識においては、この地球のじゃまっけな存在であることを自覚していている。だから人は、生きてある今ここにいたたまれなくなって旅をする。
われわれは、根源において「命の尊厳」などというものは自覚していない。そんなものを自覚することが人間の証しでも根源でもないし、自覚しているなら旅なんかしない。
人間だからこそ、この地球のじゃまっけな存在であることを自覚している。人間だけが自覚している。どこかしらで「自分はここにいてはいかない存在だ」という思いがあるから、人間は旅をする。
かんたんに「好奇心」などといってすませてもらっては困る。その好奇心だって、みずからの今ここに対する不安やいたたまれなさがなければ生まれてこない。人間性というのは、そういうところから生まれてくる。そういう人間性が文化や文明の起源の契機になっている。
人類の文化や文明の歴史は、「知能」という言葉だけでは説明がつかない。人類が知能を獲得したのはあくまで文化や文明の「結果」であって、「契機」ではない。つまりそれは、「パターンの習得能力」であって、「パターンを生みだす(あるいは発見する)能力」のことではない。
人類史のイノベーションになるような新しいパターン(=文化)は、子供やバカギャルの感性から生まれてくることだってあるのだ。
生命は、環境世界(自然)に適合していない。だから、死ぬ。その適合していない不安やいたまれなさから新しいパターンが生まれてくる。適合しない不安やいたたまれなさは、そのへんの凡庸な人類学者よりも子供や若者の方がずっと本格的に感じている。
世の中には、パターンの習得能力しかない大人や似非知識人がいっぱいいる。パターンの習得能力しかない脳みそで、知能が人類の文化や文明を生みだした、といいだすのだ。
生き物は、環境世界(自然)に適合できない存在である。そして文化や文明の起源だって、生き物としての本能が契機になっているのだ。
人間が文化や文明を持っているからといって、生き物の範疇を超えた特別な存在であるわけではない。
われわれは、生き物の本能として、生きてあることの不安やいたたまれなさを抱えて存在している。この不安やいたたまれなさを抱えて人類は、アフリカを出て地球の隅々まで拡散していった。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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