生きてあることの「かなしみ」、といっても、そうそう明確に自覚される感情ではない。しかしそれは、この生の通奏低音として、誰の中にも息づいている。
だから人間は、この世界や他者に、ほかの動物よりもずっと深く豊かにときめいてゆく。そういう契機を持たなければ、「ときめく」という心の動きは起きてこない。そしてこの「ときめく」という心の動きから人類の文化や文明が生まれてきたのであって、それは、「知能」がどうのという問題ではない。
イノベーションのときめきが、人類の文化や文明を進化させてきた。
現代の科学者だって、彼らを研究に没頭させているモチベーションは、イノベーションのときめきなのだ。それがあるから人は、科学者になるのだ。
生き物は、生きてあることに対する拒否反応を持っている。生き物にとって生きてあることは、「このままでいい」というわけにはいかないのだ。変革(イノベーション)せずにいられない拒否反応を持ってしまっている。拒否反応を持っているから、イノベーションにときめくのだ。
身体の細胞は、日々生まれ変わっている。それは、ひとつのイノベーションだろう。生き物は、生きてあることに拒否反応を持ち、生きてあることのイノベーションにときめくようにできている。
生きてあることに対する拒否反応は、細胞が入れ替わってゆかないと生きてゆけないことからきているのかもしれない。人間だって生き物だから、そういう心の動きをしてしまうようにできている。
何はともあれ生きてあることは、「これでいい」というわけにはいかないのだ。それは、生きてあることに対する「拒否反応=かなしみ」である。
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人間の集団性が進化してきた歴史は、生き物としての本能をかなぐり捨ててきたのではない。人間だって、生き物であることから逸脱することはできない。息をしたり飯を食ったりしないと生きられないし、病気になったり怪我をしたりするし、やがて必ず死んでゆかねばならない。
生き物としての本能(自然)に従いながら、この途方もない集団性を身につけてきたのだ。
生き物の身体は、「もう生きられない」というぎりぎりの状態に置かれるこことによって進化する。それが自然の法則であり、人間の身体や知能だって、そういう状態に置かれながら進化してきたのだ。
ここは住みにくいからほかのところに移動(旅)してゆこうというようなことは、不自然なことであり、それでは進化は起きてこない。直立二足歩行の開始以来、人類は、本能を捨てたから進化してきたのではなく、本能に従って進化してきたのだ。人間といえども「本能(自然)」から逸脱しているのではないし、逸脱したら進化など起こらない。
直立二足歩行だって、自然の力がはたらいて立ち上がったのであって、「メスに食料を運ぶため」とか「武器を手に持つため」とか、そんな不自然な動機によるのではない。集団の限度を超えて密集した状態には耐えられないという、猿としての自然にせかされて気がついたら立ち上がっていたのだ。
そういう「もう生きられない」という危機の中から進化(イノべーション)が起きてくる。
氷河期の北ヨーロッパに住み着いたネアンデルタールとその祖先たちだって、「もう生きられない」というぎりぎりの状態を生きていたのだ。そこから人間としてのどんな進化が起きてきたのか。
「火の使用」や「埋葬」の起源とか、「言葉」や「恋愛=性衝動」や「集団性」の本格化とか、それらの人類史におけるイノベーションは、すべてネアンデルタールとその祖先たちによってもたらされたのだ。
現代の文明や文化の基礎は、ネアンデルタールとその祖先たちによってつくられた。ネアンデルタールホモ・サピエンスの遺伝子をとりこんでクロマニヨンになったからといって、アフリカのホモ・サピエンスと交配したのではない。そのイノベーションに、アフリカのホモ・サピエンスなどひとりも参加していない。
7〜1万年前の氷河期にアフリカを出ていったアフリカの純粋ホモ・サピエンスなどひとりもいない。
アフリカのホモ・サピエンスは、現代の文明や文化の流れに参加することはできなかった。それは、氷河期にアフリカを出ていった純粋ホモ・サピエンスなどひとりもいない、ということを意味する。彼らは、近代になって、ようやく世界の歴史に参加してきた人たちなのだ。
7〜1万年前の氷河期のヨーロッパの歴史に、アフリカの純粋ホモ・サピエンスはひとりも参加していない。その歴史は、あくまでネアンデルタールとその祖先たちだけでつくられたのだ。
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7〜1万年前の氷河期は、世界中のだれもが「住み着く」ということをけんめいに模索し、人類の集団性の基礎がつくられていった時代なのだ。
もちろんそのころの地球上でもっとも大きな集団は北ヨーロッパネアンデルタール=クロマニヨンによって実現されていたのだが、なにはともあれ世界中の人々が住み着こうとしている時代だったのだ。
アフリカ人が世界中に旅して住み着いていったのなら、現在の「コーカソイド」「ネグロイド」「モンゴロイド」などという差異は、生まれてくるはずがない。赤道直下のアフリカ人が赤道直下のフィリピンに行って、身体の形質が変わるはずないじゃないか。
アジアにはアジアの200万年の進化の歴史があるのだ。
アフリカの黒人が北ヨーロッパに行けば数万年で白人に変わるということもあり得ないのだ。エスキモーがいまだにモンゴロイドのままであるように、黒人が北ヨーロッパに行ってもやっぱり黒人のままなのだ。
そうして、エスキモーがいつか白人になることも、きっとないだろう。
現在の白人は、おそらく数十万年前、ヨーロッパに移り住んでから体毛が抜け落ちたから肌が白いのであって、黒人が白人に変わったのではない。彼らは、黒人であったことなど一度もないから、白人なのだ。
そのように、現在のアフリカ以外の地域の人々は、何百万年前までさかのぼろうと、アフリカの黒人だったことは一度もない。アフリカから拡散してきた200万年前は、人類はみな毛むくじゃらの猿のような姿をしていたのであり、そこから「ネグロイド」「コーカソイド」「モンゴロイド」の分化が起きてきたのだ。
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地球気候が、それまでの暮らしやすい温暖期から氷河期に変われば、人類の行動様式も、当然じっとして住み着いてゆくことが追求されるようになる。
こんなことは、考えるまでもなく、すぐわかるはずだ。なのに人類学者たちは、いちばん寒さに弱いはずのアフリカのホモ・サピエンスが氷河期を待っていたかのように大集団で極寒の北ヨーロッパに旅をしていった、などという。まったく、この連中のこのアホさ加減はどうにかならないのかと思う。
氷河期の赤道直下は、一年中気温が20度前後で、人間にとってとても暮らしやすい気候環境である。そのためにアフリカのホモ・サピエンスは、その環境以外では生きられない体質になっていった。
現在の人類の遺伝子の変異幅は、アフリカ以外の人類どうしよりもアフリカ人どうしの方がずっと大きい。それは、彼らが生まれ故郷に住み着いて離れない人々だったことを意味する。マサイ族にはマサイ族100万年の歴史があるし、ピグミーにはピグミー100万年の歴史がある。彼らは、それほど生まれ故郷から離れたがらない人々だったのだ。アフリカ人が遠くまで旅をしたがる人種であったのなら、現在のアフリカは、どこもみんな同じ身体形質になっているはずである。なのにマサイ族は、けっしてすぐそばのピグミーの森には行かなかったのだ。そしてピグミーも、何十万年も森から出てこようとはしなかった。
アフリカ人の遺伝子の変異幅が大きいということは、そういうことを物語っている。彼らは、アフリカどころか、自分たちの生まれ故郷の狭いエリアの外にさえ出ていないのだ。
7〜1万年前の氷河期は、人類が「住み着く」ということを追求していった時代であり、旅なんかできる環境ではなかったのだ。このころの「出アフリカ(アウト・オブ・アフリカ)など、いっさいなかった。
ヨーロッパの集団性とアジアの集団性はちょっと違う。その基礎は、おそらくこの時期につくられた。アジア人もまた、住み着いて独自に集団性を追求していたのだ。
氷河期の寒空の下なら、そうなるのが当り前だろう。
人類は、旅をすることを覚えたことによって地球の隅々まで拡散していったのではない。どんな住みにくいところにも住み着いてゆこうとするメンタリティを持ったことによって世界中に拡散したのだ。
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かんたんに「旅」などといってもらっては困るのだ。
7〜1万年前の氷河期にもっとも高度な集団性と住み着く能力を獲得していったのは、現在のコーカソイドの祖先であるネアンデルタールだ。その基礎によって、氷河期明けの歴史はコーカソイドが先導してゆくことになった。
なんのかのといっても、現在の世界で、ドイツとかフランスとかイギリスとかの北ヨーロッパの人々ほど高度な集団性をそなえた人種もいないのであり、その基礎は氷河期を生きたネアンデルタールによってつくられた。
それは、「知能」によってつくられていったものではない。
『人類がたどってきた道』の著者である海部陽介氏は、ホモ・サピエンスの知能が世界を席巻していったと、この本の中でしつこく繰り返しておられる。まあ。この国の人類学者なんて、おおむねみんな同じ見解らしい。
海部氏によれば、進化(イノベーション)の能力はホモ・サピエンスだけにあって、ネアンデルタールにもアジアの先住民にもなかったんだってさ。まったく、こんなアホが人類学者でございといってのさばっている現在の状況というのは、どうにかならないのかと思う。進化(イノベーション)の能力は、人間の属性であって、ホモ・サピエンスだけのものではない。
ホモ・サピエンスの遺伝子が集落から集落へと手渡されながら世界中に広まっていったのは、それが長生きするネオテニーの性質を持っていたからであって、知能がすぐれていたからではない。
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知能などというものが遺伝子に組み込まれているなどと、どうしてそんな非科学的なことがいえるのか。組み込まれているなら、みんなノーベル賞さ。言いかえれば、遺伝子に組み込まれている脳のはたらきそのものは、たいして個人差はない。
知能は、その人の後天的な人生の環境によってつくられる。もしもネアンデルタールの子供が現代の東大教授の家にもらわれていけば、やがてノーベル賞の学者になる可能性だってある。まあ、知能なんて、その程度のものだということ。
5万年前のアフリカのホモ・サピエンスの知能がすぐれていたといっても、そんなところから進化(イノベーション)が起きてくるわけでもない。そして脳の仕組みとしての知能なんかアフリカ人もヨーロッパ人もアジア人も大した差はなかったし、現代人と原始人だって同じ程度なのだ。
進化(イノベーション)の能力は、すべての人類にそなわっている。そしてそれは、知能によるのではない。人間であることの属性として、あるいは命の仕組みとして、「このままでいい」というわけにいかない生きてあることに対する「拒否反応=かなしみ」が心の底で息づいているからであり、それこそが進化(イノベーション)の根源的な契機なのだ。
氷河期の北ヨーロッパはそういう「拒否反応=かなしみ」がどこよりも深く豊かに生まれてくる場所だったから、ネアンデルタール=クロマニヨンの文化が生まれてきたのだ。
人類の進化(イノベーション)をもたらしたのは、知能ではない。この生に対する「拒否反応=かなしみ」なのだ。
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