おさらいをしておきたいと思う。このことは何度でも言いたいのだ。
ホモ・サピエンスの遺伝子だけが世界中に拡散していったのであって、アフリカのホモ・サピエンス自身が世界中に旅して拡散していったのではない。
人類は、猿人の段階から、すでにまわりの他の集落と女を交換するということを頻繁にしてきた。それによって遺伝子や文化は世界中に広がっていった。
10〜5万年前、世界中が同じような石器をつくっていたし、ホモ・サピエンスの遺伝子も世界中に伝播していった。人間の世界は、そういう構造になっている。
にもかかわらず、言葉だけは地域ごとに閉じられていって、べつべつの進化を歩んだ。
人類の言葉の基礎は、おおよそ200万年ごろには出来上がっていたといわれている。そのころには、猿とは違って、いろんなニュアンスの音声を発することができるようになっていた。
人間と猿の根源的な違いは、知能の差にあるのではない。人間だって大昔は猿と同じ知能しか持っていなかった。それでも猿とは違っていたのだ。
まず、二本の足で立ち上がることは、とてもストレスフルな行為だった。このことは数か月前の「直立二足歩行の起源」というシリーズで何度も書いた。
その姿勢は不安定だし危険だし、とにかくそういうストレスを引き受けたところから人間の歴史がはじまっている。人間は、そういう「嘆き」と「ときめき」の振幅が猿よりもはるかに大きい。そういう心の動きの豊かさが、脳を発達させた。そのようにして脳はますます発達して、身体はますます無力になっていった。人間は身体の無力を脳で補っている存在である。その落差がひとしお胸にしみるかたちで生きている。言葉は、そういう存在の仕方から生まれてきたのだ。
人間の赤ん坊は、お母さんのおっぱいににじり寄ってゆく能力すらない状態で生まれてくる。それは、にじり寄ってゆこうとする衝動を持たない状態で生まれてくる、ということだ。
人間は根源において「欲望」を持たない。ただもう、みずからの置かれてある状態を受け入れる。これが、人間性の基礎だ。人間は死を意識する存在であるが、死を受け入れる存在でもある。そういうストレスフルな存在だから、脳が発達した。
人類学者はしばしば、肉食をはじめたから脳が発達した、というような言い方をするが、この考えはあとさきが逆である。脳が発達したから、それを維持しそのはたらきを安定させるために肉を食ったりたくさん食ったりしなければならなくなったのであり、それに合わせて猿のレベルを超えて身体も大きくなってきた。
身体は大きくなったが、人間の身体はまったく無力である。身体が大きくなることのメリットなどなかったが、たくさん食えば大きくなるほかなかった。
脳や身体が大きい生き物になってしまったから、赤ん坊は無力のまま生まれてくるほかなかった。
人間の赤ん坊は、みずからの身体の無力性がひとしお胸にしみている。だからこそ世界や他者との関係に対する意識も切実になり、より豊かに心が動く。その心の動きから、さまざまなニュアンスの音声が口からこぼれ出てくる。
原初の人類が猿のレベルから逸脱してさまざまなニュアンスの音声を発するようになっていったとき、何かを伝達しようとしたのではない。人間はもともとそのような「欲望」は持っていない。ただもう世界や他者との関係に対する感慨が極まって、さまざまなニュアンスの音声を発するようになっていったのだ。
発掘された骨の構造などから、200万年前ころにはすでにそういう存在になっていたといわれている。
原初の言葉は、思わずこぼれてしまう「音声」だったのだ。何かを伝達しょうとする目的があったのではない。ただもう人間は、そういう音声がこぼれ出てしまうほどストレスフルな存在だったのであり、その「嘆き」と「ときめき」の振幅の大きさから脳が発達し、言葉が育っていったのだ。
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人類の言葉は世界中で違うが、そのような「音声」として生まれ育ってきたことは同じである。同じ人間だから同じに決まっている。
「かわいい」とか「さようなら」という言葉のなんとなくの語感は、世界中の人がわかる。
原初の言葉は、人間であることの与件としての、そういう「嘆き」と「ときめき」の振幅から生まれ育ってきた。
多くの世の人類学者たちは、ホモ・サピエンスネアンデルタールとどちらの知能が進化していたのかというようなことばかり言い立てる。彼らは、どちらも同じ人間であるということ、すなわち人間であることの与件に対する考察がまったくできていない。
ほんとにアホばっかりだなあ、と思う。
人間が二本の足で立って歩く存在であるかぎり、猿とは違うのであり、二本の足で立って歩く存在であるかぎり、ネアンデルタールホモ・サピエンスが違う生き物であることなんかあり得ないのだ。同じ人間に決まっているし、両者が交配すれば、混血の子が生まれる。
しかし、交配なんかしなかった。アフリカのホモ・サピエンスはアフリカの外には出て行かなかったし、ネアンデルタールネアンデルタールどうしで交配していただけだが、誰かがホモ・サピエンスの遺伝子を血の中に持ってしまえば、その遺伝子はたちまちヨーロッパのネアンデルタール中に広まってしまう。何しろその遺伝子のキャリアは長生きするから、その遺伝子のキャリアばかりが生き残ってゆくことになる。そうして、ネアンデルタールどうしで交配しているだけなのに、血の中のホモ・サピエンスの遺伝子の割合はどんどん濃くなってゆく、ということになる。
ホモ、サピエンスの遺伝子のキャリアは、ゆっくり成長して長生きする。ゆっくり成長する個体など赤ん坊のうちに死んでしまって淘汰されてきたのだが、人類の文明の進歩とともに、そういう個体でも生き残れるようになってきた。そうなればもう、長い歴史のうちには、長生きできるそういう個体ばかりになってゆく。これが、現代人の血にホモ・サピエンスの遺伝子の要素が濃くなってしまったゆえんだろう。
べつに、アフリカのホモ・サピエンスが世界中に拡散して住み着いていったのではない。
それぞれの地域の先住民どうしが交配してきただけのこと。それでもその遺伝子は、世界中に広まってしまった。
先住民どうしで交配してきたから、世界中でこんなにも言葉が違ってしまったのだ。アフリカのホモ・サピエンスが世界中に散らばって先住民と交代したという「集団的置換説」では、この言葉の問題の説明はつかない。
50人のネアンデルタールの集落に150人のアフリカのホモ・サピエンスが乗り込んでゆけば、その集団の言葉はアフリカの言葉になってしまう。現在のヨーロッパの言葉には、アフリカの言葉だった痕跡が残っているのか。そんな痕跡は何もない。
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人類の言葉を発達させたのは、関係であり状況であり風土であり歴史であり、そこから起きてくる心の動きの表出だった。どの地域も、原初においてはそういう流儀で言葉を進化させていった。
出アフリカ……現代の人類学のつまずきのすべては、アフリカのホモ・サピエンスをアフリカの外へと旅立たせてしまったことにある。そんな事実などいっさいないのに。
原始人は旅なんかしていない。
旅をしないで懸命に住み着いていったから、現代にいたる文明や文化の萌芽がそこで起きてきたのだ。
とりわけ死と背中合わせで氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったネアンデルタールのところで、もっともラディカルな進化が起きた。
旅をしなかったから、集団性が本格化してきたのだ。
人類は、大きな集団を持ったことの「結果」として旅をすることを覚えていったのであって、原始人が旅をしたがるような人々だったら、大きな集団なんか生まれこなかったのだ。
人間は、「今ここ」に生きてあることそれ自体がひとつの「旅」であるような存在の仕方をしている。だから旅をしなかったのであり、だから旅をするようになってきたのだ。
原始時代は、その地に住み着いてゆく日々の暮らしそのものが「たび」だった。
何はともあれ、人類の文化や文明を進化させたのは「知能」などというものではない。その地にけんめいに住み着いていった歴史から生まれてきたのだ。
そして、アフリカのホモ・サピエンスの知能がヨーロッパのネアンデルタールよりもすぐれていたということもない。
ネアンデルタールは、現代のヨーロッパ人の祖先なのだ。このことは、遺伝子のデータとも矛盾していない。ただ、置換説の研究者たちが、勝手にそうでないかのように解釈してしまっているだけのこと。
現代の人類の集団性は、良くも悪くも欧米人のそれがもっとも高度で本格的である。それは、彼らがネアンデルタールの子孫だからであって、アフリカのホモ・サピエンスの子孫だからではあり得ない。アフリカのホモ・サピエンスは、現代の世界においてもっとも集団性が遅れた人々である。
現在の欧米人による集団性のメンタリティ(=文化)は、ネアンデルタールとその祖先たちが氷河期の北ヨーロッパに住み着いた50万年の歴史の上に成り立っている。
そういうことを、当の欧米人自身がまったくわかっておらず、自分たちの祖先はアフリカのホモ・サピエンスだと合唱しているのは、何やら奇妙な眺めである。
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彼らがなぜ現代人はすべてアフリカのホモ・サピエンスの子孫だと思いたがるのかということの根拠のひとつとして、何はともあれ現代人の血の90%以上はホモ・サピエンスであるということにある。
先住民どうしの交配で、何かのはずみでまぎれこんだだけのホモ・サピエンスの血がどんどん濃くなってゆくということなどあり得ない、という。
しかし、あり得るのだ。
とくにミトコンドリア遺伝子の場合は、女親からしか伝わらないという特徴を持っているから、一回の交配で100%ホモ・サピエンスの遺伝子のキャリアになってしまう。
また遺伝子全体においても、とにかくホモ・サピエンスの遺伝子のキャリアの個体は、先住民の遺伝子の個体よりもネオテニーで長生きする。ホモ・サピエンスの血が濃くなればなるほど長生きする、つまりホモ・サピエンスの血が濃い個体ほど多く生き残ってゆく。そうして数万年もたてば、すべての個体が90%以上ホモ・サピエンスの血を持つようになってゆく。べつに誰もアフリカのホモ・サピエンスと交配していなくても、だ。
最初は1パーセント混じっただけでも、数万年の後には誰もが90%以上のキャリアになってしまう。
長生きする遺伝子であるということは、そういう効果をもたらす。
もともと人類は、短命だった。チンパンジーと同じように、せいぜい30数年しか生きなかった。それが、アフリカのホモ・サピエンスの血が混じったことと文明の発達によって、どんどん長生きするようになっていった。
そうして今や、「大人」という愚劣な人種がのさばる世の中になった。いいことなんだか、悪いことなんだか。
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