現代のヨーロッパの言葉の基礎は、ネアンデルタール人によってつくられた。アフリカのホモ・サピエンスがヨーロッパにやってきてつくったのではない。そのころヨーロッパにやってきたアフリカ人などひとりもいない。
言葉が地域によって違うということは、その地域に住み着くことによって生まれてくるということを意味している。
人間は、なりゆきに身をまかせてしまう。だから言葉は、なりゆきから生まれてくる。この場合のなりゆきとは、風土という環境のことであり、その地域に住み着いた歴史のことだ。
三代続けば江戸っ子だという。どんな家族も、その地に三代住み着けば、その地の言葉になってしまう。
会津はもともと越後の上杉の領地だったが、江戸時代になって徳川の三河武士の一族郎党が入植してきた。しかし彼らが三河の言葉を使い続けたかといえば、そうではなく、けっきょくは彼らもまた会津の風土に染まっていった。彼らは、言葉まで民衆を支配することはできなかった。それは、民衆もまた、言葉は自分たちがつくったものではなかったからだ。言葉は、風土がつくり育ててきたのだ、
その地域の風土が言葉になる。人間の知能が言葉を生むのではない、風土すなわちその地域に住み着いた歴史から言葉が生まれてくるのだ。
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人間は、知能を持ったから言葉を生みだしたのではない。言葉を持ったから知能が発達したのだ。抽象化とか象徴化とかの知能によって言葉が生まれてきたと語る人類学者たちは、まったく順序が逆の考え方をしている。
言葉を覚えるのに知能が必要なら、赤ん坊は言葉なんか覚えられない。言葉を覚えてしまうような状況を生きているから覚えてしまうだけのこと。状況が言葉を覚えさせるのであって、知能によるのではない。そういう「状況=風土」があるだけのこと。だから、地域によって言葉が違う。
言葉の発生は、この生の仕組みから生まれてくる「音声」が言葉になっただけで、知能によって言葉をイメージしたのではない。
起源としての言葉は、心の動きを表出する「音声」であって、具体的な何かを意味しているのではない。意味は、音声が発せられたあとに気づかされる。だから、赤ん坊だって言葉を覚えてしまうのだ。
単語を組み合わせることを覚えて「ちょっと待っててね」という文節をつくるようになるのではない。いきなり「ちょっと待っててね」と言って、やがてそれが単語の組み合わせであることを覚えてゆく。それは、相手に今ここの不足を与えている状況のときに発する言葉であり、幼児はそういう関係の気配に気づくのであって、言葉の意味に気づくのではない。
幼児は、言葉の意味なんか何も知らない。しかしそういう「関係=状況」については、はたで思うよりもずっとよくわかっている。彼らは、そういう「関係=状況」に苦労して生きているからだ。たとえば、おっぱいが必要なのに飲ませてもらえないとか、そんな状況を何度も体験すれば、「関係」に対する意識は切実になってくるだろう。
そしてそれは、おっぱいを飲ませてもらうためにはどうすればいいか、ということではない。人間の赤ん坊は、自力でおっぱいにたどり着く能力が欠落した状態で生まれてくる。それは、おっぱいにたどり着こうとする欲望を持っていない、ということだ。
生き物は、実現可能なことしか欲望しない。人間の赤ん坊は、おっぱいにたどり着こうとする欲望を持つことなく生まれてくる。ただ、空腹であることを嘆いて泣いているだけである。だからこそ、おっぱいが与えられたときのよろこびがひとしおのものとして体験される。
そういう「嘆き」と「ときめき」の振幅を深く豊かに切実に体験するところから、「関係=状況」に対する意識が育ってくる。ひとりぼっちでこの世界に置き去りにされてあることの「嘆き」と、他者(世界)と出会うことの「ときめき」、この二つの感慨がセットになって、言葉を発する資質が育ってくる。
赤ん坊は欲望しない。つまり、未来なんか予測しない。だからこそ「今ここ」に対する感慨が極まって言葉を話すようになってくる。
「状況=関係」を受け入れ、「状況=関係」に嘆いたりときめいたりすること、それが、言葉の発生の契機になっている。
人間は、根源において、「状況=関係」を欲望するのではない、受け入れるのだ。だから言葉は、地域によって違ってくる。
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言葉は、「意味」として発生するのではない。
これは、重要なことだ。
赤ん坊が「ワンワン」と言っても、犬のことを意味しているのではない。犬と出会っていることの「ときめき」が表出されているにすぎない。赤ん坊は、それが犬を指す言葉だということを知らなない。犬との出会いのときめき、すなわち犬との「関係」を表す言葉だと思っている。
犬を犬だと認識することと、犬を見て「犬」と言うこととは違う。犬を犬だと認識することくらい、猿でもしている。しかし人間は、犬を見てときめき、犬との関係を意識する。
無力で未来を予測するシステムを持たない人間は、世界との関係を、より深く豊かに切実に意識する。言葉は、そういう心の動きの表出として生まれてくる。言葉が根源において表現しているのはそういう心の動きであって、対象そのものではない。
「ワンワン」は、根源的には犬を表す言葉ではなく、犬との出会いのときめきを表出している言葉なのだ、
人間は、言葉によって世界との関係を切り結ぶ。言葉は、世界との関係を切り結ぶ心の動きを表出しているのであって、世界=対象そのものを表しているのではない。何はともあれ言葉は、そのようにして発生してきた。
「これは猫だよ」といわれて、「ああこれが猫という生き物か」と納得する。そのときはじめて猫との固有の関係を意識する。そうして、「猫」と言う。それは、げんみつには、猫に対する感慨の表出であって、猫そのもののことを言っているのではない。結果的には猫を表す言葉として習慣化してゆくのだが、はじめて発するときは、猫との関係が生じたことの感動が音声になっている。
言葉は、関係に対する感動が音声になって発生する。
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原初の言葉は「語感」の上に成り立っていたのであって、「意味」をともなって生まれてきたのではない。意味は、言葉が生まれたことの「結果」として認識される。
やまとことばの「熊(くま)」は、「怖い」というニュアンスの言葉だった。息が詰まるような感慨が胸に満ちてくることを表した。「くるしい」の「く」と、「まったり」の「ま」。だから、神に対する「畏れ」も「くま」と言った。
原初の日本列島の住民は「くま」という言葉に対してそういう語感を共有していた。それは、直接的には、熊という動物の意味を表す言葉ではなかった。熊との「関係」を表した。
英語では、「ベア」という。ドイツ語でも同じらしい。つまり北ヨーロッパの人々は、遠い昔からずっとそう呼んでいたのだろう。熊なんか大昔からいたし、これは、あまり変わりようのないプリミティブな言葉のはずである。
もしかしたらネアンデルタールだって、熊のことを「ベア」と言っていたのかもしれない。
「ヘア」は体毛のことだから、「毛むくじゃら」という意味で「ベア」と言ったのだろうか。濁音は、強調の機能もある。
「へ」は、「へえ」の「へ」、何かの出現に驚いたり感心したりしたときに洩れ出てくる音声。「へ」という音は、は行の中でもとくに、息を吐きだすというより、「息が洩れる」という感じで発声される。そうやって発声される感触から、「出現する」というニュアンスになる。
体毛も、成長するにしたがって出現してくる。
「あ」は、「あっ」と気づくの「あ」。
北ヨーロッパの原初の人々が体毛のことを「ヘア」と言っていたとしたら、それは、体毛の出現に驚いたり感心したりする感慨を表出していたのではないだろうか。
日本人だって、お化けの出現に、「ひやあ」といって驚く。
その出現することに対する驚きや恐怖を強調して、「ベア」と言ったのかもしれない。
とすれば、「くま」も「ベア」も、原初のニュアンスはそう違いないことになる。ニュアンスは同じでも、風土が違うから音韻は微妙に違う。たとえば、「ベア」は熊に遭遇した直接的な体験を語っているのに対して、やまとことばの「くま」は、「あの森の中に怖い熊がいる」と想像する心の動きで語られている。イマジネーションの流儀が違うのだ。それは、風土の違いである。
日本列島では熊と人間の棲み分けができていたが、ネアンデルタールアイヌ人のように積極的に熊の狩りをしていたし、わりと日常的に遭遇していたのだろう。
アイヌは、熊のことを「カムイ」と言う。「カム」とは、「関係する」ことの心の動きから表出される音韻である。ものを食う時の「カム」は、歯と食い物が「関係する」行為である。「イ」は強調の音韻。いのいちばんの「い」。「カムイ」もまた、熊との遭遇をしている人たちの言葉である。「くま」のいるところには近づかなかった人々が、熊の狩猟をするようになって「カムイ」という音韻に変わっていったのかもしれない。
アイヌであろうとあるまいと、もともと日本列島の住民は誰もが熊のことは「くま」と言っていたのかもしれない。
何はともあれ、「くま」も「ベア」も「カムイ」も、熊そのものを指す言葉ではなく、熊との「関係」を表す言葉として生まれてきたのだ。
言葉を生み育てるのは、人間ではなく、風土なのだ。
そして風土が生み育てるのは、「意味」ではなく、「語感」にほかならない。
語感に対する感覚は、人間であるかぎり、そう変わりはない。
だから、近ごろの「かわいい」という言葉だって、世界中の人がなんとなくその語感をとらえることができるから、そのままのかたちで世界中に広まったのだろう。
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言葉は、どの地域でも「語感」とともに生まれ育ってきた。にもかかわらず、地域ごとの風土によって発声される音韻が違ってくる。それは、アフリカのホモ・サピエンスがヨーロッパやアジアまで進出して先住民と入れ替わっていったということなどあり得ないことを意味する。どの地域の人々も、それぞれの地域に住み着いて独自の言葉を育てていたのだ。だから、氷河期明け以降に人々が世界中に旅していくようになっても、もう変わりようがないほど地域独自の言葉ができてしまっていた。
たった数万年前にアフリカのホモ・サピエンスが世界中に拡散して先住民と入れ替わっていったのなら、今ごろ言葉だってアフリカもアジアもヨーロッパもたいして違いない。
同じ人間なのだから、どの地域も同じように「語感」として生まれ育ってきたのである。それでも風土によって、こんなにも違ってしまった。それは、言葉がそれほどに風土に左右されるものだということと、それほどにそれぞれの地域独自の長い歴史があるということだ。
おそらく、ヨーロッパの言葉もアジアの言葉もアフリカの言葉も、それぞれ少なくとも20万年の歴史を持っている。いや、それぞれ原始言語からそのまま発達してきた100万年以上の固有の歴史があるのかもしれない。
ヨーロッパとアフリカでは、言葉の成り立ちがまったく違う。それは、ネアンデルタールホモ・サピエンスの違いである。アフリカの純粋ホモ・サピエンスは、アフリカにとどまってアフリカの言葉をはぐくんできたのであって、7〜1万年前にアフリカを出ていったアフリカの純粋ホモ・サピエンスなどひとりもいないのだ。
そしてヨーロッパでは、アフリカの影響などまったく受けることなく独自の言葉を育ててきた。
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ネアンデルタールの知能はすでに現代人のレベルまで発達していたし、彼らはすでにおしゃべりをする楽しみを持っていた。これは、今や考古学の常識のはずである。
現代のヨーロッパの言葉は、ネアンデルタールの伝統の上に成り立っている。
3万年前にいったんアフリカの言葉になり、そこからヨーロッパの言葉へと変化してきたというのか。そんなことがあるはずない。アフリカの言葉は、アフリカの言葉として変化発展するだけである。
言葉は時代とともに変化してゆくものだが、日本語がロシア語や朝鮮語に変わるわけではない。
現代のヨーロッパ人が3万年前にアフリカからやってきたアフリカ人の子孫であるのなら、言葉もアフリカのタッチで進化してきたはずである。
しかし現代のアフリカの言葉とヨーロッパの言葉は、まったく違う歴史を歩んできたことは明白であり、それはたった3万年の違いではない。3万年前の北ヨーロッパで突然言葉が生まれたというのでもない。
そのころヨーロッパに進出していったアフリカ人などひとりもいない。
そのころ人類は、世界中の誰もが先祖代々の土地に住み着いて、それぞれの地域の言葉を育てていた。だから、こんなにも世界中で言葉が違ってしまった。
何度でもいう、原始人は旅なんかしていない。アフリカの純粋ホモ・サピエンスの「出アフリカ」など、いっさいなかった。
ヨーロッパの言葉もアジアの言葉もアフリカの言葉も、それぞれそこに住み着いていったものたちの100万年の歴史が刻まれている。
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言葉は、現在の人類学者たちが言うような「象徴(抽象)化)の能力」とか、そんな知能が生みだしたのではない。それぞれの風土によって生まれ育ってきた。人間はその「風土=なりゆき」に身をまかせたにすぎない。身をまかせたからこそ、言葉が生まれ育ってきたのだ。
人間は、言葉を生みだそうとしたのではない。「風土=なりゆき」に身をまかせた結果として、生まれてきてしまったのだ。だから、知能が未発達な赤ん坊でも言葉を覚えることができる。
そのときお母さんと赤ん坊は、言葉を発しようとする欲望を共有しているのではない。なりゆきに身をまかせながら、言葉という「音声」を聞く、という体験を共有している。
赤ん坊は、「なりゆきに身をまかせる」という生き方しかできないし、その能力しか持っていない。しかし、まさにその生き方から言葉を覚えてゆくのだ。
原初の人類は、言葉を頭の中でイメージしたのではない。なりゆきに身をまかせる生き方の嘆きとときめきから、言葉という「音声」がこぼれ出てきたのだ。
しかしまあ僕は、人類学者たちがあまりにも愚劣でとんちんかんなことばかり言っているから、何度も同じことを繰り返してしまう。何度繰り返しても、もどかしさばかりが募る。どうかご容赦を。
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