人間はなりゆきにまかせてしまうところがある。
彼は自分の意思で会社に通っているが、彼が会社に通う身分になったのは、彼の人生のなりゆきだ。小さいころは野球選手になりたかったし、高校のころはロックスターに憧れていた。大学に入ってからは、何か楽して儲かる商売はないかと考えていたが、どうもありそうになかった。できることなら二―トになってしまいたかったが、そうもいかず、なりゆきで会社に通う身分になった。そうして結婚して子供が生まれればもう、この人生を引き返すことはできなかった。
なりゆきのままに、あれをしたいこれをしたいと思ってきて、けっきょくはするしかないことをしている。そうやって意に染まないなりゆきを引き受けることができるのが人間である。それは、根源においては何かをしたいという欲望を持っていないということを意味する。そしてそれでも人間は、そこからこの世界や他者に対するときめきを体験してゆくのであり、その体験が人間を生かしている。
なりゆきにまかせながら出会おうとなんかしていないから、出会うことにときめくのだ。
未来を予測していないから、未来との出会いにときめくのだ。
われわれは未来を予測する制度の中に身を置いてそういう思考をしてしまう観念の傾向とともに生きているが、それでも根源においてはなりゆきにまかせる心の動きを持っている。だから世界や他者との出会いにときめくのだし、生きていられるのだ。
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小学校のころは、野球選手になりたいと思う環境の中で生きていた。環境から、野球選手になりたい、と思わせられていた。
もしも彼がアマゾンの奥地やエスキモーの村で生まれていたら、そんなことは思わなかっただろう。いや、別の家の別の両親の子供だったら、別の夢を持ったのかもしれない。
生まれてきたということ自体が、自分の意志ではなく、自分に負わされたなりゆきでしかない。
われわれは、なりゆきに身をまかせて生まれてきた。死んでゆくのも、なりゆきである。自殺しないかぎりそのときを自分で決めることなんかできないし、死なないですむことなんかさらにできない。人は、なりゆきに身をまかせようとする本能を持っている。まかせなければ生きられない。だから、野球選手になりたいと思ってしまう。
人は、なりゆきや環境に身をまかせてしまう心の動きを根源において抱えている。だから、言葉が地域ごとに違ってしまうし、その言葉自体、覚えようとしないのに覚えてしまう。
赤ん坊に言葉を覚えようとする欲望なんかない。それでも物心ついたときにはすでに覚えてしまっている。しかも、お母さんやまわりが教えるから覚えるのではない。幼児が覚えた言葉の大半は、幼児自身が勝手に聞いて覚えてしまったものである。覚えようとしたからではない。覚えてしまうような「なりゆき(環境)」に身をまかせた結果なのだ。
すなわち、言葉を覚えるということは、音声を聞く醍醐味によって育つのであって、話そうとする欲望によってではない、ということだ。
自分がしゃべっても、自分の音声を聞いている。だから幼児は、えんえんとひとりでしゃべっていたりする。
演説をする政治家だって、自分の声を聞くことに酔っている。
聞くことは、なりゆき(環境)に身を任せることである。そういう醍醐味が、人類の言葉を発達させた。
おしゃべりをするとき、話すほうも聞くほうも、その音声を聞いている。聞くことによって、その音声を言葉として共有してゆく。これが、会話の現場で起きていることだ。根源的には、どちらも「聞く人」なのである。したがって言葉の根源的な性格は、「伝達する」ということにあるのではない。言葉は、「共有」されるのだ。
そのとき話すほうも聞くほうも、音声が出現しているという「なりゆき=環境」に身をまかせている。
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もともとアフリカで生まれた南方種である人類が氷河期の極北の地に住み着いてしまうことなどあり得ないはずである。
べつに、そこに行きたかったのではない。なりゆきにまかせながら、気がついたらそこに住み着いていたのだ。そこに行けばいいことが待っているとか、そんなことを予測したからではない。そういう「予測」の文脈で語っている人類学の学説なんかぜんぶアウトなのだ。
なりゆきにまかせて気がついたらそこに住み着いていただけであり、それでもそこに住み着くことのときめきを汲み上げていったからだ。なりゆきにまかせる心を持っているから、そこに住み着いてゆくことができたのだ。
ネアンデルタールとその祖先たちの社会は、なりゆきにまかせることのできる心を豊かに持っている人間がリードしていた。そういう心によって、言葉が発達してきた。言葉を発しようとする欲望によって言葉が発達してきたのではない。思わず言葉(=音声)がこぼれてしまう心の動きを豊かにそなえていることによって言葉が発達してきたのだ。
言葉を発しようとする欲望ではなく、深く嘆き豊かにときめく心から言葉が育ってきたのだ。
人間の心(感性)は、何かをしようとすることにあるのではない。それは、硬直した心(感性)なのだ。そんなところから文化や文明は生まれてこない。なりゆきに身をまかせてしまうことによってこそ心(感性)は豊かにはたらくのであり、そこから人間的な文化や文明が進化してきたのだ。
人間性の基礎は、何かをしようとすることにあるのではない、なりゆきに身をまかせながら深く嘆き豊かにときめいてゆくことにある。そこから、言葉が進化してきたのだ。
つまり、人類の言葉は、旅をしようとするものたちによって育てられたのではなく、なりゆきにまかせて住み着いていったものたちが育ててきたのだ。
人間は、なりゆき(=環境)に身をまかせてしまう。だから言葉は、地域ごとに違う。
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この社会は、いい社会をつくろうとする大人の心(感性)によってではなく、じつはなりゆきに身をまかせる子供のような心(感性)の上に成り立っている。そういう心の方が才能があるんだもの。
才能がないやつらがいい社会をつくろうと大騒ぎしたって、この社会はなるようにしかなってゆかない。才能のない大人という人種がのさばっているのもこの社会のなりゆきではあるが、彼らによってこの社会のイノベーションがもたらされているわけではない。
人の心が社会のイノベーションを起こすのではない。それは「時代=環境」の「なりゆき」によってもたらされるのであり、誰もがどこかしらにそういう「なりゆき」に身をまかせる心の動きを持っている。
ヨーロッパのネアンデルタールとアフリカのホモ・サピエンスが違う人間だったのではない。同じ人間として、なりゆきに身をまかせながらそれぞれの地域に住み着いていたのだ。
だから人類の言葉は、地域ごとにこんなにも違ってしまった。
何度でも言う。7〜3万年前にアフリカからヨーロッパに移住していったアフリカ人などひとりもいないのだ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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