いい社会をつくろうとする善意ほど邪悪なたくらみもない、と僕は思っている。
たとえば、いい社会をつくろうとする「公共心」とか「公民意識」といった制度的な観念の持ち主は、邪魔者や弱い者を排除しないが、彼らを教育して邪魔者や弱い者ではない存在にしようとする。子供や若者が子供や若者であることを許さない。公共心や公民意識を教育して、子供や若者ではない「大人」という存在にしてしまおうと画策する。
教育とは、子供が子供であることを許さない制度である。若者が若者であることを許さない制度である。というか、教育がそのようにして大人の優越性を確認するための制度になってしまったらおしまいだ、ということだろうか。
子供や若者には、公共心も公民意識もない。そういう子供や若者が大切にされる社会で、集団性のダイナミズムが生まれる。そんな社会では、イノベーションが起きる。
それに対していい社会をつくろうとする大人の善意がのさばっている社会では、子供や若者は追い詰められねばならないし、進歩も発展もない。公共心や公民意識に守られて愚鈍な大人たちがのさばり続けるだけである。大人たちに緊張感がないから、ますます愚鈍でグロテスクな顔をした大人が増えるばかりである。
現代社会は、どうしてこんなにも愚鈍でグロテスクな大人ばかりになってしまったのだろうか。それは、いい社会をつくろうとする「公共心」や「公民意識」を持て、と愚鈍でグロテスクな大人たちが子供や若者に強制してくる社会になってしまっているからだろう。
正義づらして安心しきっている大人ほどグロテスクな存在もない。
公共心や公民意識を持たない子供や若者が否定される社会であるかぎり、安心しきった大人たちの顔はどんどん愚鈍でグロテスクになってゆく。
いまどきの子供や若者たちは、この社会の大人たちの顔はどうしてこんなにも愚鈍でグロテスクなんだろう、と驚きおびえている。
いい社会をつくろうとする善意ほど邪悪なたくらみもない。
人間社会は、「いい社会でなくてもいい」という心の動きからダイナミズムやイノベーションが生まれてくる。つまり、社会なんてどうでもいい、この世のもっとも弱い存在である「あなた」が存在することのめでたさこそいちばんだ、という心が基礎になって、社会のダイナミズムやイノベーションが生まれてくるのだ。
賢くてご立派な大人が存在することがめでたいのではない。今や、そんな大人たちがいかに愚鈍でグロテスクな顔をしているかということを思い知らされている世の中になってしまっているのだ。
この世のもっとも弱い者の存在を誰もが祝福している社会においてこそ、ダイナミズムやイノベーションが起きているのだし、ネアンデルタール人は、そういう社会をつくっていた。
賢くてご立派な大人の存在などどうでもよろしい。
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青森の三内丸山遺跡が発見されたとき、司馬遼太郎は、青森こそ縄文時代の「まほろば=理想郷」だった、と言っていた。
これは違うと思う。
司馬氏が言うような、うまい食い物がたくさんとれて住み心地のいい土地だったわけではないはずだ。
寒いし雪はたくさん降るし、住み心地なんかいいはずがない。
人間は、必ずしも住み心地のいいところに住み着くとはかぎらない。人間にそんな行動原理があるのなら、現在のような、地球の隅々まで拡散しているということは起きていない。
原初の人類だって、チンパンジーと同じように、熱帯地域の外には出て行かなかっただろう。
住み心地がいいから住み着くなどというのは、猿の論理なのだ。人間には当てはまらない。
いい社会をつくろうとする善意や公民意識なんか、猿並みの脳みそでしかない。
まほろば=理想郷」だったから住み着いていったのではない。
ただたんに「行き止まり」の地だったからだろう。その先はもう、津軽海峡だ。
人間の群れは、行き止まりの地に人が集まってしまうようにできている。
三内丸山遺跡の人々は、「もうどこにも行けない」という気分を共有しながらそこに住み着いていった。
「もうどこにも行けない」ということは、「誰も追い出すことはできない」ということであり、そういう気分を基礎にして人々が寄り添い集まっていったのだ。
「誰も追い出すことはできない」とは、この世のもっとも弱い者の存在を祝福する、ということだ。人々の心にそういう集団性が芽生えて大きな集団ができていったのであって、食い物がうまくて住みよいからとか、そういうことだけで大きな集団ができるわけではない。
住みよいことが大切であるのなら、住みよさを守るために、余分な人間や気の合わない人間はどんどん追い出してしまおうとするだろう。住みにくい土地だからこそ、そういう欲望を持たないで人々が寄り添い集まってゆくことができた。人間の集団性は、そういうパラドックスの上に成り立っている。だから、住みよい土地にひしめき合うだけでなく、地球の隅々まで拡散していったのだし、原初においては、氷河期の北ヨーロッパとか、そういう住みにくい行き止まりの土地でこそより大きな集団がいとなまれていた。
ネアンデルタールにしろ三内丸山遺跡の人々にしろ、彼らは「べつに住みよい社会でなくともいい」と思っていた。住みよくなくてもそこに住み着くしかなかったし、この世のもっとも弱い者が生きていてくれるのなら、それ以上のよろこびはなかった。
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700万年前に直立二足歩行をはじめた人類の脳は、はじめの3,400万年はとくに発達することもなく、猿と同じレベルだった。
そこから猿のレベルを超えていったのは、おそらく、テリトリーが狭くなって群れが密集していったことにある。そのストレスが脳を発達させたのであり、そのストレスを生きることができるのが、人間と猿との違いだった。
しかし密集した状態で暮らせるはずのアフリカの人類集団が、2,300万年前ころからどんどん小さくなっていった。それは、地球気候の乾燥化とともに住み処の森がどんどん縮小してゆき、やがてはサバンナを横切って小さな森から小さな森へと移動しながら暮らすということを余儀なくされていったからだ。
森は小さいし、移動生活をしなければならないのなら、もう大きな集団は組めなかった。
たとえば大集団でサバンナを歩いていて肉食獣に襲われ、みんないっせいに駆け出せば、たちまち将棋倒しになってしまう。直立二足歩行する人間は、シマウマのように、大集団でもたがいの身体の距離(空間)を保ちながら動き回るということなどできない。
人間は限度を超えて密集した集団の中で暮らすことができるが、限度を超えて密集した集団で行動することはできない。だから、移動生活をしていれば、自然に集団は縮小してゆく。
原始人が大きな集団で旅をすることなど不可能である。徒歩の野宿であるかぎり、大きな集団の旅なんかできない。縄文弥生時代の日本人だって、大集団の旅なんかできなかった。
にもかかわらず「集団的置換説」の人類学者たちは、7〜3万年前のアフリカのホモ・サピエンスが先住民の集落の人員数を上回る大集団で旅をしていった、と言う。原始時代にそんな旅などできるはずがないのだ。
旅(移動生活)をすれば必然的に集団の規模は縮小してゆく。これは、人類の歴史の法則である。
定住することによって、はじめて集団は大きくなってゆく。
まあ、2,300万年前のアフリカでは、森が縮小したために集団が密集化していったことを契機に、そのストレスとともに脳が発達していったのだろう。
何はともあれ人間は、旅(移動生活)をしないのであれば、密集した群れの中で生きられる能力を持っている。
密集してもストレスを感じないのではない。ストレスとともに生きられるのが人間なのだ。そのストレスとともに脳が発達してきた。
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原始時代に、近代のヨーロッパ人が大型客船に乗ってアメリカ大陸に移住してゆくのと同じようなことが、できるはずがない。それは、人間が移動したのではなく、船が移動したのだ。人間は船の中で定住生活をしていただけである。
人間は、定住生活をしないかぎり、大きな集団を組むことはできない。
直立二足歩行する人間は長距離移動できる生き物だが、大集団で移動するということは、ほかの動物よりずっと苦手なのだ。そこのところを混同するべきではないし、混同して語っている「集団的置換説」など、なんの説得力もない。
移動生活をしているかぎり、群れはどんどん縮小してゆくのだ。
現在のアフリカの移動生活をする未開人だって、例外なく小さな集団で暮らしているわけで、おそらくこのかたちが、200万年前から20万前以降のホモ・サピエンスにいたるアフリカ人の生態でもあったはずである。
200万年前の人類は、大きく密集した集団を解体して、サバンナの暮らしに適合していった。
つまり、そのときアフリカを出てユーラシア大陸に拡散していったのは、集団を解体しないためにサバンナの暮らしに適合できなかったグループだったことになる。そういうグループが、森伝いに外へ外へと追いやられていったのだ。
したがって、そこからヨーロッパに拡散していったグループは、最初から集団性を持っていた。集団性を維持していたから、やがては氷河期の北ヨーロッパに住み着いてゆくことができた。
それに対してアフリカのホモ・サピエンスには、現在の多くのアフリカ人と同じように、集団性が欠落していた。彼らには大きな集団を組織する能力がなかった。
アフリカのホモ・サピエンスとヨーロッパのネアンデルタールとどちらの知能がすぐれていたかとか、そういうこと以前の先験的な生態の問題として、集団性が欠落していたアフリカのホモ・サピエンスが大挙してヨーロッパに移住していったということなどあり得ないのだ。
アフリカでは、サバンナの暮らしによって集団性を喪失していった。これはまぎれもない歴史的な事実である。
サバンナに出ていったことによって人類の脳は飛躍的な発達をしたのではない。定住することによって集団性が進化し、そのストレスによって脳が飛躍的に発達したのだ。
その進化は、ヨーロッパでは、北ヨーロッパネアンデルタールとその祖先たちが先導していたし、アフリカでは、南アフリカの人々の方が脳が発達していた。つまり、行き止まりの地では、人が集まってきて定住を余儀なくされてしまう。そういうところで集団性と脳の進化が起きたのであって、けっしてサバンナではない。
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人間は、住みよい土地を求めて拡散していったのではない。
住みよい土地からはじき出されて拡散していったのだ。
そしてそういう「住みよい」ところからはじき出された者たちのところから人類の歴史のイノベーションが生まれてきたのだ。
住みよい社会をつくろうとするなら、邪魔者は排除しなければならない。住みよくなくてもかまわないという心の上に、人間のこの限度を超えて大きく密集した集団が成り立っている。
人間が限度を超えて大きく密集した集団をいとなむ生き物である以上、いい社会をつくろうとする公共心や公民意識は、原理的に成り立たないのだ。
限度を超えて大きく密集した集団は、「いい社会でなくともよい」という覚悟というか、なりゆきにまかせる心の上にしか成り立たない。
ただもう、この世のもっとも弱い存在である「あなた」が存在できるのならそれでいい。ネアンデルタール三内丸山遺跡の集団性は、そういうことをこの上なくめでたいこととする心の動きの上に成り立っていた。
なんのかのと言っても、人間が赤ん坊を育てようとしたり、今にも死にそうな老人や身体障害者を介護したりするのは、根源においてそういう心がはたらいているからだろう。それが、尋常な人の心だ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
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