人間を生かしている根源的な心の動きとは何か。
いちばん知りたいのは、そのことかもしれない。
その手掛かりとして、いま僕は、原始人の心を問うている。
原始人の心の動きや行動を、現代人の人間観や世界観で裁量することはできない。しかし、そうは思いつつ、誰もが知らず知らずその文脈で考えてしまっていたりする。まあ、ネアンデルタール人であれ、われわれと同じ人間であることは確かなのだ。
とりあえずわれわれが考えるのは、「人間は限度を超えて密集した群れをいとなむ猿である」ということだ。直立二足歩行をはじめた人類は、その習性を持ったことによって、猿ではない猿になった。
そうして2,300万年前にサバンナに出ていったことによって、密集した群れをいったん解体し、その暮らしに適合していった。
一方密集した群れを維持しているものたちは、サバンナの暮らしに適合できないまま、外へ外へと追い出されてゆき、結果的にそれが、人類がアフリカの外のユーラシア大陸に拡散してゆく契機になった。
彼らは、人間ならではの集団性を維持しているものたちだった。ことにヨーロッパに拡散していったものたちは、ひたすらその集団性を止揚しながら、50万年前には氷河期の北ヨーロッパまで拡散していった。これが、20万年前以降のネアンデルタールの祖先たちだった。
ネアンデルタールの特徴のひとつは、限度を超えて密集した群れをいとわない集団性にあった。この生態が、氷河期の極北の地という過酷な環境の下で生きることを可能にしていた。
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人間を生きにくくさせているのは限度を超えて密集した群れの中に置かれていることであり、またその状況が人間を生かしてもいる。
人類が本格的に限度を超えて密集した群れをいとなむようになったのは、氷河期の北ヨーロッパに住み着いたことからはじまる。人間は、猿のレベルを超えて脳が発達したころからどんどん密集した群れの中で生きることができるようになり、氷河期の北ヨーロッパに住み着いたことによってさらに爆発的に脳が発達した。
集団的置換説の人類学者たちは、何がなんでもアフリカの方がヨーロッパより脳の発達が進んでいたように考えたがるが、公平に比べれば、密集した大きな集団で暮らしていたヨーロッパの方が先行していたに決まっているし、考古学の発掘結果もそのようになっているはずだ。
原始人が極寒の地に住み着くことは、限度を超えて密集した群れの中で暮らしてゆくという実験でもあった。
彼らは、その厳しい寒さをどのように克服していったか。
抱きしめ合ってたがいの体温で温め合うということは、有効だったに違いない。
人類は、二本の足で立ち上がることによって、正面から抱きしめ合ってセックスをするということを覚えていった。
ネアンデルタールとその祖先たちが50万年前の氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったとき、正面から抱きしめ合うことはすでに知っていた。彼らは、その行為を、セックス以外のふだんでもするようになっていった。
現代人は、そんなことをしないでも生きてゆける。しかし50万年前の彼らは、それをしないと生きてゆけなかった。
現代人よりも原始人の方がずっと抱きしめ合うという行為をしていたはずである。彼らにとってそれは、たんなるあいさつ以上の、生きるための切実な行為だった。
それは、他者の体を温め他者を生かす行為だった。
抱きしめ合えば、自分の体に対する意識が消えて、他者の体ばかり感じている。つまりそれは、他者が生きてあることに気づく体験である。極寒の地で死と背中合わせで生きていれば、それこそが何よりも深く豊かな感動になる。
他者が生きてあることに対する感動、その体験が彼らを生かしていた。
その体験が、彼らの生存の基礎になっていた。
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死と背中合わせのところに立たされれば、自分の体を忘れてしまうことこそ救いになる。抱きしめ合えば、そういう体験ができる。
自分の体に対する意識が消えてしまう体験と、他者の身体に気づく体験は、セットになっている。意識は、ふたつのことを同時に意識することはできない。つまり、他者の身体を感じていれば、みずからの身体の寒さを忘れることができた。
みずからの身体の存在を忘れてしまうこと、これが、ネアンデルタールとその祖先たちの極寒の地を生きる作法だった。
氷河期の北ヨーロッパに住み着いたネアンデルタールは、ふだんから自分の身体のことを忘れて生きていた。忘れなければ生きられなかった。したがって彼らには、自分の身体を生かそうとする衝動はなかった。あくまでも、他者の身体が生きてあることに気づくことこそ救いであり、生きてあることの醍醐味だった。
それは、ひたすらみずからの身体に執着する現代人とは対極の心の動きだといえる。彼らは、自分の身体などかまっていられなかった。かまっていたら、生きられなかった。
彼らにとってみずからの身体は存在ではなかった。他者の身体だけが、この世に生きて存在するものだった。
彼らは、他者の身体を生かそうとした。それが、彼らの行動原理だった。
狩の獲物は、死に近いものから順番に食べていった。それはモラルでも制度でもなく、自分の身体に対する意識を持たないものたちの自然な心の動きだった。彼らの意識は、自分の身体ではなく、他者の身体に向いていた。
原初の人類が二本の足で立ち上がることにしても、密集した群れで体をぶつけ合いながら他者の身体ばかりを感じてみずからの身体のことを忘れてしまったときに起きたことだった。そうやって、気がついたら立ち上がっていたのだ。そのとき、身体のことを忘れてしまうということが起きなければ、それは実現しなかった。
人間性の根源は、みずからの身体を忘れてしまうことにある。人間的な快楽や感動は、そのようにやってくる。我を忘れて熱中すること、それが、寒さに震えるネアンデルタール人たちの救いであり、生きてあることの醍醐味だった。
いや、いつの時代も人間は、基本的にはそのように存在しているのではないだろうか。
人間を生かしているのは、「我を忘れる」体験なのだ。したがって、生きようとする衝動など原理的に存在しない。ネアンデルタールには、現代人のような自分をまさぐってばかりいる趣味はなかった。
「生きようとする本能」などという概念は、自分まさぐってばかりいる近代の自我意識による制度的な妄想にすぎない。生き物にそんな本能はない。
そうして、「我を忘れる」体験は、他者の身体に気づくことによってもたらされる。
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生きてあることのもっとも基礎的な体験は、他者の存在に気づく、ということにある。そういう体験をもっとも深く純粋に突き詰めたのが、ネアンデルタール人の社会だった。
誰もが他者に気づき他者を生かそうとし、しかも抱きしめ合う社会であったのであれば、大きく密集した集団にならないはずがない。
人間は、大きく密集した集団をつくろうとする衝動を持っているのではない。そんな集団は、鬱陶しいばかりだ。そういう衝動を先験的に持っているのなら、直立二足歩行をはじめたときから集団の規模はどんどん膨らんでいったことだろう。しかしそれが本格化したのは、そこから6〜700万年後の、ネアンデルタールとその祖先たちが氷河期の北の地に住み着いてからのことである。
直立二足歩行する人間は、先験的に大きく密集した集団の中に置かれてあるような存在の仕方をしている。大きく密集した集団の鬱陶しさに耐える装置として、直立二足歩行が生まれてきた。人間は、べつにそんな集団をつくろうとする衝動を持っているわけではないが、すでにそんな集団の中に置かれてあるような心の動きや行動様式を持っている。
ともあれ、ネアンデルタールとその祖先たちが氷河期の北ヨーロッパに住み着くという死と背中合わせの実験をしなければ、人類は、国家などという途方もなく大きく密集した集団は生まれてこなかったし、スタジアムに数万人がひしめき合って歓声を上げるというお祭り騒ぎをすることもなかっただろう。
現代社会の基礎は、ネアンデルタールとその祖先たちがつくった。
たとえ現代の地球上の人類のすべてがホモ・サピエンスであったとしても、アフリカのホモ・サピエンスの知能とやらが基礎になっているのではない。
7〜3万年前にアフリカを出ていったアフリカの純粋ホモ・サピエンスなどひとりもいないのだ。
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人間の集団は、限度を超えて密集している。この集団を心地いいものにするには、そのレベルまで集団を縮小しなければならない。このままであるためには、心地いいものでなくてもかまわない、という意識を持っていなければならない。つまり人間は、根源において、集団をつくろうとする衝動も、心地いい集団(よい社会)にしようとする衝動も持っていない、ということだ。
だからこそ、こんなにも大きく密集した集団の中にいられる。
そして、それでもなぜこんなに大きく密集した集団になってしまうかといえば、集団の中のもっとも弱い者を生かそうとする衝動を持っているからだ。
もっとも弱い者が生きられるのなら、だれもが生きられるだろう。
もっとも弱い者を生かそうとするなら、誰も集団から追い出すわけにはいかない。追い出した瞬間から、もっとも弱い者も、追い出してもいい邪魔な者になる。もともともっとも弱い者は、集団の安定を妨げる邪魔な存在なのである。集団の安定が大切なら、もっとも弱い者はいない方がよい。
しかし人間は、根源において、集団の安定など望んでいない。集団に対する意識などないのだ。
ただもう、目の前の他者との関係が気になる。
人間が直立二足歩行をはじめた直接的な契機は、密集しすぎた群れの中にいて他者の身体とぶつかり合うということにあった。その事態から逃れるようにして二本の足で立ち上がってゆき、他者の身体とのあいだに「空間=すきま」を確保していった。
他者の身体とのあいだに「空間=すきま」を確保すること、これが、人間が猿と分かたれた原点である。
人間は、根源において、他者との関係として存在している。
集団など、限度を超えて大きく密集していようとどうでもいいのだ。
ただもう、他者との関係が安定して心地よい状態であればそれでいい。人間とは、そういう存在なのだ。
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人間は、この世のもっとも確かな「他者」として「この世のもっとも弱い者」を発見した。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、生き物として生き延びる能力を喪失することであった。人間が二本の足で立っている姿は、この世のもっとも弱い生き物が立っている姿でもある。
人間は、観念的には、この世のもっとも弱い存在なのだ。
そして、現実においても、赤ん坊は見ることも身動きすることもできない状態で生まれてくる。われわれのこの生は、「この世のもっとも弱い者」としてはじまる。
「この世のもっとも弱い者」であることは、人間存在の根源的なかたちなのだ。
この世のもっとも弱い者は、生きることができない。だから彼らは、生きようとする衝動を持っていない。生きることのできるものが、生きようとする衝動を持つのだ。
生きることの不可能性を受け入れること、これが、この世に生まれてきた人間(赤ん坊)の最初になすべき仕事である。
それは自分の(身体)への意識を消去して世界や他者に向けることによって可能になる。というか、無力な赤ん坊は、そういう意識のはたらきを持って生まれてくる、ということだ。
人と人が抱きしめ合うということは、このような生のかたちが契機になっているともいえる。
人間は、世界や他者に憑依することによって、みずからの身体に対する意識を消去してしまう。いやこれは、すべての生き物の基本的な生のかたちである。生き物の意識は、そのようなかたちで発生する。
そして人間にとってもっとも確かな「他者」とは、「この世のもっとも弱い者」なのだ。
「この世のもっとも弱い者」は、死と生の狭間に立っている、神にもっとも近い存在である。人は、そのようにして他者に気づく。
他者は、「この世のもっとも弱い者」として立ち現れる。
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人間は、他者とともに存在するのではない、「他者と出会う」のだ。人間は、根源において、社会の中にあるという意識も、社会をつくろうとする意識もない。社会のこともみずからの身体のことも忘れて「他者と出会う」のだ。
人間は、社会の中に置かれてあるがゆえに、社会のことなど考えていない。社会のことを考えているがゆえに、社会のことを忘れる。身体に意識が向いているがゆえに、身体のことを忘れる。そういうかたちで、この生がはじまる。
つまり、人間にとっての「生きた心地」とは、社会のことも身体のことも忘れて、「他者との出会い」にときめくことにある。
原初の人類は、他者の身体とぶつかり合う鬱陶しさから逃れて二本の足で立ち上がり、いったん他者から離れた。そうしてそこから、あらためて他者と出会った。
つまり、他者の身体から離れる、というかたちがこの生の基礎になっているわけで、そこから出会ってゆくのが生きるいとなみなのだ。
われわれはこんなにも大きく密集した集団の中に置かれているのに、ほとんどそれを忘れて暮らしている。根源的には、人間は、そういう社会性を自覚して生きているのではない。
人間が生きるのにもっとも大切なことは、他者との出会いであり関係であって、集団(社会)の中に置かれてあるということではないのだ。
つまりネアンデルタールは、大きな集団をつくろうとしてつくったのではなく、他者との出会いのときめきがひとつひとつ積み重なって、気がついたら大きな集団になっていただけなのだ。
人間社会は、そういうときめきの上に成り立っているのであって、公共心や公民意識の上に成り立っているのではない。子供や若者に教育という名のもとに無理やりそういう意識を植え付けて大人にしてしまおうとばかりしていたら、社会はどんどん停滞してゆき、ダイナミズムもイノベーションも起こってこない。
「他者とともにいる」というまったりとした安心ではなく、「他者と出会う」という体験のときめきこそが人間を生かしている。
「他者とともにいる」などという安心にしがみついて世の大人たちは、子供や女房や若者たちから幻滅されているのだ。
人間性の基礎は「社会性」にあるのではない。すでに社会的な存在であるからこそ、社会性を超えた他者との関係にときめいて生きているのだ。
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