人と人の関係は、たがいの身体が「今ここ」で出会っている、ということが基本になる。
われわれの身体は、この社会において他者と「ともにある」のではなく、「出会う」のだ。
愛し合ったり、協力して何かしたりするとき、「身体が共鳴し合う」あるいは「運動共鳴」などといわれる。これが人と人の根源的な関係だ、と。
「ともにある」という関係でなければ「共鳴し合う」という事態も起こらない。
ほんとに人と人の身体は共鳴し合うのだろうか。
抱きしめ合っているとき、たがいに、みずからの身体のことは忘れて、他者の身体ばかり感じている。とすれば、このとき一方の身体は存在しないのだから、身体と身体は共鳴し合っていないことになる。
われわれのこの身体は、他者の身体と「共鳴」するのではない。みずからの身体のことは忘れて、ただもう他者の身体が存在することに憑依しているだけだ。
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たとえば、他者の身体がどのように動こうとしているのかを予測するとき、みずからの身体を基準にして予測するのではない。そのとき、他者の身体の存在がこの世界のすべてなのだ。
他者の身体の動きにつられて自分の身体も動く、ということはある。しかしそれは、他者の身体の動きを予測しているのではない。ほとんど同時であっても、げんみつにはあとから追いかけているだけである。
つまり、他者の身体によって、みずからの身体が動かされるのであり、みずからの身体に対する意識はないのだからみずからの身体は勝手に動いてしまっている。
サッカーのディフェンダーは、ボールをドリブルする相手選手の動きに合わせて動きながらそのゆく手を阻もうとする。相手が右に動けば、こちらも右に動く。それは、みずからの身体を基準にして相手の動きを予測しているのではない。相手の動きに動かされているのだ。そのとき彼は、みずからの身体のことなど何も考えていない。ひたすら相手の身体の動きに憑依している。
そのときディフェンダーの体は、勝手に動いてしまっているだけである。これは、げんみつには「共鳴している」とはいえない。この表現は、制度的な言い方であって、科学的とはいえない。たとえばそのとき、脳のはたらきは、相手の身体の動きに反応しているだけで、みずからの身体を動かそうとするはたらきは起きていない。運動中枢であるといわれている小脳は、おそらく、動いてしまっている足に合わせて身体全体のバランスをとってゆくようなかたちではたらいているはずである。そして、バランスをとるためにすこし腕を動かすとすれば、それは、みずからの腕に対する意識を消去し解放して、腕に勝手に動く自由を与えている。そのとき腕は、勝手に足の動きと連動しているだけであって、脳が指令を出しているのではない。
まあ、ひとつの現象として、身体と身体が「共鳴している」といってもいいのだが、つまりそういう文学的な表現があってもいいのだが、げんみつな意識の主観性においては自分の身体は「ない」のだから、共鳴しようがない。われわれの制度的な観念が、「共鳴している」と思っているだけで、実際にはべつに「共鳴している」わけではない。
道を歩いていて相手とぶつかりそうになったら、よけようとする。そのとき、相手の身体の動きによって、他者の身体とぶつかった記憶が呼びさまされる。これは、原初の二本の足で立ち上がったときの記憶でもある。本能的によけようとする。人間は、同じ動きをしないでもすむために二本の足で立ち上がり、たがいの身体のあいだに適度な「空間=すきま」をつくった。
イワシや鳥の大群は、みなが同じ動きをしなければ、たちまちぶつかり合ってしまう。しかし人間の群れは、同じ動きをしないでもすむように、二本の足で立ち上がってたがいの身体のあいだに適度な「空間=すきま」をつくった。「共鳴」しないことこそ人間の自然なのだ。
人間の身体と身体は「共鳴」しない。思わず同じ動きをしてしまうこともあれば、逆の動きをしてしまうこともあるし、あるいはただもう体が固まってしまうこともある。それは、共鳴していない、ということだ。かんたんに「共鳴」などと言ってもらっては困るのである。少なくともそういういい方は、科学的ではない。
蛇に睨まれて身動きできなくなっている蛙のその状態を、「共鳴」という言葉でどう説明するのか。「動くな」という蛇の命令を察知して動かなくなった、とでもいうのか。アホらしい。
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現代社会は、こんなにも限度を超えて大きく密集してしまっている。だから、みんなが同じ動きをしなければならない、という意図で法律制度ができた。
まあ法律でなくとも、ひとまずみんなで「約束事」をつくりそれを守り合うことでこの世界は動いている。
しかしわれわれは、その制度や約束事から逸脱してプライベートな時間を持って愛や友情を確かめ合っている。そういう時間を持たなければ、人は生きられない。「同じ動きをする」とか「共鳴する」とか、そういうことから逸脱してゆくことが人間の自然なのだ。
共鳴しないことこそ、人(身体)と人(身体)の関係の自然なのだ。
原始人の世界の話に戻ろう。
ネアンデルタールは、どのようにしてチームワークの狩を覚えていったのか。
みんなが同じ動きをすればいいというものではないだろう。獲物を追い立てるものと待ち受けてガツンと攻撃してゆくものがいる。追い立てるといっても、それぞれの持ち場があって、それぞれの判断で動いてゆかねばならない。正面立つものと、横から追い立ててゆくものがいる。先頭に立つものと、それをサポートするものでは動きが違う。
サッカーだって、正面からドリブルしてゆく選手がいれば、サイドをけんめいに駆け上がってパスを待ち受ける選手もいる。
ヨーロッパ人は、そういうことを本能的に知っているから、子供のうちからそういうチームワークの動きができる。それは、ネアンデルタールの伝統だ。
ちなみに日本の子供は、みんながボールのあるところに寄ってゆくという傾向が強い。
いずれにせよ、身体と身体の「共鳴」によってチームワークを覚えてゆくのではない。そこに他者の身体が存在するということを感じつつ、同じ動きをしない、ということの上にそれは成り立っている。
みんなが同じ主旋律を歌っていたら、ハーモニーなんか生まれてこない。西洋人はそういうことを本能的に知っているから、オーケストラのあんなにも大がかりで複雑なアンサンブルを生みだしてきた。この場合、共鳴しないことが、共鳴することなのだ。相手につられて同じ旋律を合唱したり演奏したりしているわけにはいかない。
ネアンデルタールのチームワークの狩だって、このような関係の上に成り立っていたはずである。
「ゆらぎ」などという。すべての分子が同じ動きをしていたら、そういう現象にはならないだろう。すべての分子が違う動きをしていることを「ゆらぎ」というのではないのか。
どこかのアホな知識人の言う「公民意識」なんて、みんなが同じ動きをして同じように思うということにほかならない。まあ、この社会がそういう不自然な約束で成り立っているとしても、プライベートでそこから逸脱してゆく醍醐味を体験できないのなら、生きることはとてもしんどいものになってしまう。
少なくともネアンデルタールのチームワークは、身体と身体は共鳴しない、という人としての自然の上に成り立っていた。
人類の歴史のすべての「起源」は、人としてのというか生き物としての「自然」から生まれてきたのであって、そこから逸脱した人間的な「知能」とか「社会性」などというところから生まれてきたのではない。そんなことは、たんなる「結果」のことであり、その「結果」によって言葉や社会が変質してきただけのこと。
人間の歴史は直立二足歩行からはじまり、起源としての文化や文明は、すべて生き物としての自然が極まって生まれてきたのであって、人間的な能力を持ったからではない。人間的な能力は、「結果」にすぎない。
原初の人類は、人間的な能力や特性で立ち上がったのではない。立ち上がった結果として、人間的な能力や特性を獲得していったのだ。
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抱きしめ合うことは、身体と身体が共鳴することではない。自分の体のことは忘れて相手の体ばかりを感じる体験である。たがいに、自分の身体のことは忘れている。それは、二人の体が一体化していると感じていることではない、自分の体のことは忘れて相手の体ばかりを感じるというそのことこそ、抱きしめ合うことの実体験であり、ときめきはそこにこそある。
そしてネアンデルタールは、そういう体験を日常的にしていたから、言葉を発達させることができたのだ。
起源としての言葉とは、身体と身体が「共鳴」し合うことか。
そうじゃない。
起源としての言葉は、その空間に吐き出された音声を、たがいに「聞くもの」になり、その「聞く」という体験を「共有」してゆくことによって生まれ育ってきた。
チームワークとは、同じ状況を共有しながら、たがいに別々のことをしてゆく行為である。言葉を交わすことだって、まあそのような体験だ。二人同時に話すわけにはいかない。それでも、「聞く」という体験を共有している。
身体と身体が共鳴し合うなんて、科学的なようでいて、ぜんぜんそうじゃなく、ただの制度的文学的な表現にすぎない。
身体と身体は共鳴しないのだ。しかし、だからこそチームワークが生まれてくる。
空間に吐き出された言葉をともに聞いているとき、ともにその音声に憑依して、みずからの身体に対する意識は消えている。したがって、身体と身体は共鳴していない。おしゃべりの楽しさは、たがいにみずからの身体のことを忘れてしまうことにある。
快楽とは、身体に対する意識が消えてゆくことである。言葉とともにそういう体験を共有してゆくことこそ、おしゃべりのたのしさなのだ。
寒いところで暮らしているものたちは、みずからの身体に対する意識が消えてゆくタッチを持っている。そのタッチ出寒さを忘れるということができなければそこでは暮らせないし、その醍醐味を豊かに体験するから、そんな過酷な地に住み着いてゆくことができるのだ。
したがって、そのとき、世界中でネアンデルタールがもっとも深く豊かに語り合うことの醍醐味を体験していた。
人と人の関係の根源的なよろこびは、「他者とともにいる」というかたちで、たがいの身体を自覚することにあるのではない。みずからの身体が「他者とともにいる」と認識するのではない。それは、他者を認識することではなく、自分を認識している状態なのだ。そうではなく、自分を忘れてひたすら他者の存在に気づいてゆくことこそよろこびであり、それは、他者と出会っている、という体験にほかならない。
抱きしめ合うことのよろこびもおしゃべりのたのしさも、「出会いのときめき」として体験されている。
「出会う」ということこそ、人と人の関係の根源的なかたちである。そのとき、身体と身体は共鳴していない。「共鳴している」と言いたい気持ちもわからないではないが、共鳴なんかしていないのだ。
人と人は、たとえ一緒に暮らしていても、それでもそれなりにそこで、共鳴する以前と以後の「出会い」と「別れ」を繰り返しているのだ。人は、そんな関係の中でも、そこに「出会いのときめき」と「別れの嘆き」を体験しているのであり、そうやって、たがいの身体のあいだのほどよい「空間=すきま」がつくられる。そういうタッチで、ネアンデルタールの連携プレーが生まれてきたのだ。
共鳴しないことが、共鳴することなのだ。
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人間は社会的な存在である、と世の知識人たちが口をそろえて言っている。そうではない、人間を生かしているのは、そうした社会的な関係から逸脱した1対1の「出会いのときめき」であり「別れのかなしみ」なのだ。そこから、ネアンデルタールの大きな集団が生まれ、埋葬という習俗が生まれ、おしゃべりの楽しさが育ってきた。社会的でないことが、社会的なのだ。
人は、社会的な関係から逸脱して、1対1の関係の愛や友情によろこびを見出してゆく。社会的な関係から逸脱してきているから、その関係に「出会いのときめき」が生まれるという側面もある。そして、その「出会いのときめき」の集積として社会のダイナミズムが生まれてくる。
人間社会のこんなにも限度を超えた密集性は、1対1の「出会いのときめき」の上に成り立っている。
人は、「他者とともにいる」のではない、他者と「出会う」のだ。
人間は社会的な生き物であるが、それでも根源においては今なお社会的ではないのだ。
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