ネアンデルタール人は、早く成長するがそのぶん寿命も短いという体質だった。子供は、早く成長しなければ、その極寒の環境の下では生き残ることができない。彼らの平均寿命は30数年で、生まれた子供の半数以上は大人になる前に死んでいった。
しかも彼らは、大きな集団で、洞窟のまわりに定住していた。
人類史上、ネアンデルタール人ほどたくさんの死者との出会いを体験して生きていた人々もいない。その「別れ」のつらさが身にしみている人々だったから、人との「出会い」もより豊かにときめいていった。
朝目覚めて「おはよう」と言うことだって、「出会い」である。抱きしめ合うことも、つねに「出会いのときめき」が起きてくる人々だったから習慣化されていったのだ。
「他者とともにいる」ことのよろこびがどうのと言ったって、別れは必ずやってくるのだ。たえず別れのかなしみを受け入れて生きていた人々はもう、「他者とともにいる」という事態に耽溺してゆくことはできなかった。そんなことに耽溺してしまったら、別れを受け入れることができなくなる。
別れがあるから一緒にいることがいとおしいのだ、と世間ではよく言う。冗談じゃない、一緒にいれば鬱陶しくなってしまうのが人間の本性だ。このことは、誰も避けられない。一緒にいることのストレスをなだめる装置として、言葉をはじめとするさまざまな人間的な文化が生まれてきたのだ。
一緒にいることがいとおしいのなら、言葉なんか生まれ育ってこない。黙ってじっと見つめ合っていればいいだけだろう。人と人の関係がそれだけですむと、あなたたちは思うのか。
別れがあるから一緒にいることがいとおしいのだ、なんて、こんな嘘っぽい言い草もない。一緒にいることなんか、鬱陶しいだけなのだ。
原初の人類は、その「一緒にいる」という鬱陶しい関係を解体して二本の足で立ち上がり、「出会う」という心ときめく関係を見出していったのだ。
一緒にいることなんか、鬱陶しいに決まっている。しかし人類は、そんな関係においても、そこに「出会いのときめき」が生まれてくるような言葉をはじめとする文化を生み出していった。言いかえれば、言葉をはじめとする出会いのときめきの文化を育てていったから、こんなにも密集して「一緒にいる」ことに耐えられるようになったのだ。
人間ほど一緒にいることを鬱陶しがる生き物もいない。だからこそ、そのことを克服する文化を生み出し、いつの間にか猿よりもなお密集して一緒にいることができるようになっていった。
人間は、一緒にいることがいとおしいから大きく密集した集団の中にいることができるのではない。そんな鬱陶しい集団でも「出会いのときめき」のタッチを挿入してゆくことができるから可能になっているだけである。
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人と人の関係の基本的なコンセプトは、「出会い」と「別れ」にあるのであって、「一緒にいる」ということではない。
出会いがあれば、別れがある。別れがあるから、出会いがある。
人が「出会いのときめき」という心の動きを持っているのなら、とうぜん「別れのかなしみ」を体験することも避けられない。
人と人は、けっして「一緒にいる」ということはしない。たとえ一緒にいても、心はつねに「出会い」と「別れ」の振幅の中に身を置いている。
人の身体と身体は「共鳴」なんかしない、と前回に書いた。われわれの身体は、基本的には存在しないのだ。われわれは身体のことなど忘れて暮らしている。それは熱いとか寒いとか腹が減ったとか痛いとか苦しいとか、そういう危機においてのみ気づかされる。ふだんは、身体のことなんか忘れて暮らしている。われわれは内臓のことも骨のことも、忘れているし、内臓を意思で動かすこともできない。体のことなんか忘れて暮らしているし、それは思う通りにならない対象である。
基本的には、身体は存在しないのだ。したがって「共鳴」することもない。他者と一緒に何かをしてゆくことは、自分の身体のことなんか忘れて、他者の身体ばかり感じてゆくことだ。そのときみんなが、自分の身体なんか忘れている。だから、身体と身体は「共鳴」しない。誰もが自分の身体なんか忘れている状況において、もっともダイナミックな連携が生まれるのだ。
出会いのときめきとは、他者の身体ばかり感じることである。もちろん、ネガティブなときめきもあって、他者ばかりありありと感じるからこそ大いに傷つき追い詰められてしまうことにもなるのだが。
いずれにせよ、人間の根源的な存在の仕方において、身体など「ない」のだから、「一緒にいる」という状態も原理的に成り立たないのだ。
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われわれは、そばにいる人を見て、「あああの人は背が低い」とか「高い」ということを感じることができる。それは自分の身体を基準にしているからだが、その身体は、内臓や骨を持った物体としての身体ではなく、たんなる非存在の空間である「身体の輪郭」を物差しとして持っているというだけのことである。それは、物体としての身体ではない。
われわれにとっての身体は、物体として「共鳴」するような存在ではない。
「一緒にいる」という事態は、物体としてのみずからの身体を感じさせられることであり、それは、暑いとか寒いとか痛いとか苦しいとか、そういうことと同じ位相の、身体の「危機」の状態にほかならない。だから「鬱陶しい」と感じるのだ。
身体のことを忘れて「共鳴」しない状態になれるから、人と一緒にいることができる。人間はそういう文化を持っているから、限度を超えて大きく密集した集団の中にいることができるのだ。
一緒に暮らしていても、眠りにつくことはひとつの「別れ」であり、朝目覚めれば「おはよう」といって「出会い」を体験している。
人と人は、「一緒にいる」ことを忘れて「出会い」と「別れ」の心の位相を持つことができるから、一緒にいることができるのだ。その機能として、言葉が生まれ育ってきたし、抱きしめ合ってセックスするということも盛んになってきたのだ。
いやまあ、「一緒にいることがいとおしい」などと倒錯的なことをいう知識人はいくらでもいるのだが、そんなところに人の心の動きの普遍があるのではない。人は、一緒にいてもなお、そこに出会いと別れのニュアンスを生みだしながら、その鬱陶しさを克服しているのだ。
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出会うことや別れることに大きく心が動くことが、猿とは違う人間性だともいえる。
物をなくすことだって、ひとつの「別れ」である。猿はそんなことはすぐ忘れるが、人間はいつまでも悔やんだり嘆いたりする。
人は、「死」という概念を持ったことによって「別れ」のつらさがひとしお身にしみる存在になった。
別れのかなしみを深く味わったから、出会いのときめきも豊かに体験するようになってきた。
人は、人と人の関係に「出会い」と「別れ」のニュアンスを持たせていったことによって、大きく密集した集団をいとなむことができるようになったのだ。
氷河期の北ヨーロッパに住み着いたネアンデルタールとその祖先たちは、まず「他者の死=別れ」のかなしみをたくさん体験していった。そうしてそこから、次々に子供を産んでいったり、積極的にまわりの集落と女を交換したり、ときには集団どうし合流したりしながら、たくさんの「出会い」のときめきを体験していった。この「別れ」と「出会い」を深く豊かに体験していったところから、大きな集団が生まれてきた。
「一緒にいる」ことのいとおしさとかよろこびなどという心の動きから大きな集団が生まれてきたのではない。人と人の関係に「出会い」と「別れ」のニュアンスを付与してゆくことによって、大きな集団になっていったのだ。
人間の集団を大きく密集したものにしている根源的な契機は、「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」を深く豊かに体験してゆく存在であることにあることであって、「一緒にいることのよろこび」ではない。
「一緒にいること(共生)のよろこび」などというものはない。人間は、そんな心の動きで大きく密集した集団をいとなんでいるのでも、他者との関係を結んでいるのでもない。
人と人の関係における人間性の基礎は、「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」にある。
人と人は、共生していない。というか、人間社会における「共生」という状態の根源的な心の動きは、「出会い」と「別れ」の振幅としてはたらいている。つまり、状態としての共生はあっても、心の動きとしての主観的な共生はない。
「一緒にいる」ことなど鬱陶しいばかりだが、それでも「一緒にいる」ことができるのが人間なのだ。一緒にいることなど忘れてしまえるから、一緒にいることができるのだ。
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言葉を交わすことは、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を祝福してゆく行為である。言葉は、そこで生成している。そのとき人と人は、その音声をともに「聞く」ものとして、その「音声=空間」を共有している。それはつまり、たがいの身体がくっついてしまうことを回避している状態であり、ひとつの「別れる」という体験であると同時に「出会う」という体験でもある。
そのとき人と人は、出会い続けていると同時に、別れ続けてもいる。人間は、そういう関係をつくっていったことによって、こんなにも大きく限度を超えて密集した集団をつくることができるようになった。そういう関係をつくらないかぎり、限度を超えて大きく密集した集団など成り立たない。
人間の限度を超えて大きく密集した集団をいとなむことのできる能力の基礎は、集団を鬱陶しがる、ということにある。人間は、集団をつくりながら、集団から逃れる醍醐味を見出してゆく。集団は、大きく密集していればいるほど、そのぶんそこから逃れる醍醐味も深く豊かになってゆく。そうやって人は、人と人の関係に「出会い」と「別れ」のニュアンスを付与してゆくタッチを進化させてきた。
人間のその集団は、「一緒にいることのよろこび」が見出されていったことによって生まれてきたのではない。他者との一対一の関係の「出会いと別れ」のタッチが極まって生まれてきたのであり、そのタッチをより進化させながら、より大きく密集していったのだ。
したがって、一対一の関係がスムーズにならなければ、集団の充実もない。これは、現代的な問題でもあるはずだ。「公民意識」とか「公共性」とか「一緒にいること(共生)のよろこび」などというそらぞらしいスローガンにすがっていてもむなしいだけであり、現代的な病理はますます深くなることだろう。
人間の集団を成り立たせている根源的な心の動きは、「一緒にいる」という共生意識ではなく、「出会いと別れ」の「空間意識」なのだ。
ともあれ人類がそうした集団性を発達させる最初のきっかけは、おそらく、死者との別れを深く豊かに体験し、死という概念を持ってしまったことにある。
言葉だって、つまるところ他者の死という別れのかなしみを持ったことによる「空間意識」から生まれ育ってきたのだ。
であれば、人類の歴史における言葉の発達や集団の拡大という文化は、極寒の北ヨーロッパに住み着いていったネアンデルタールとその祖先たちが地球上でもっとも先行していたと解釈しなければつじつまが合わない。そしてその基礎の上に、クロマニヨンの文化が生まれてきた。
熱帯育ちのアフリカのホモ・サピエンスには、その基礎はなかった。
4〜3万年前にヨーロッパに移住していったアフリカのホモ・サピエンスなどひとりもいない。
文句があるなら、だれでもいいからどうか言ってきていただきたい。よろこんであなたのアホさ加減をえぐり出して差し上げる。できることなら、この国の海部陽介氏とか赤澤威氏とかイギリスのストリンガーとか、そういうえらそげに「集団的置換説」を吹きまくっている研究者たちに抗議してきてもらいたいものだと思っている。彼らが、人間の根源やネアンデルタールの心について僕よりも深く遠くまで考えていると思われるのなら、だれでもいいからどうか教えていただきたい。
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