なれなれしいのは鬱陶しい・ネアンデルタール人論110

これは、「一枚懐紙」というタイトルのちょっと風変わりなブログで見つけた名文です。一部ではない、その日の記事の全文です。

団地の丈高い居住棟に挟まれて、幅広の長い道が出入り口へと続いていた。常夜灯に照らされた並木の葉叢は紅葉していた。地面に落葉が裏表を見せ、また重なり合いして散らばっていた。道の突き当たり、出入り口の向こう側に密集する丈低い家々の屋根のはるか上に、丸い月がでていた。彼は歩を止めてしばらくその夜空に浮かぶを月を眺めやった。そのとき、民家のブロック塀がライトを浴びて薄闇に白く浮かび上がった。一台の車がカーブして団地の敷地内に入ってくるところだった。二つの鋭く蛍光色に光る車のヘッドライトが彼に正対して直進してきた。車は彼との距離を半分くらいに縮めると、もう一度カーブして駐車場のスペースへと入って行った。停車した車から中年の男が出てき、居住棟の方へスーツ姿の背を向けて歩いて行った。場内に駐車した男の白い車のボディに赤茶色のアーク灯が反映していた。


ここでいう「彼」とは「私」のことで、いつもそういう書き方をしている。
変な「自分語り」や「心理描写」などしない方が文章として美しい。
ただもう「世界の輝き」を写し取るということ、まあそれはだれにでもできる芸当ではなく、できる人にしかできない。言葉や世界の輝きに対する鮮やかな感受性を持っている人は、めったにいない。そしてその写し取られた世界の輝きの向こうに、その人の心のあやが見え隠れしている。心のあやというか心理を隠しながら世界の輝きだけを鮮やかに写し取ってゆく。世の凡庸な小説家だろうと世間一般のブロガーだろうと、変な「物語」を書き散らして自分をまさぐっているだけで、「世界の輝き」を鮮やかに写し取る知性や感性にはなっていない。
秘すれば花なり……自分の体験も自分の心理も隠しながらひたすら世界の輝きだけを写し取ってゆく文章を書くことはけっしてかんたんなことではなく、そのブログだって「それはちょっと書き過ぎだろう」と思わせられる日もある。ともあれときにこんなみごとな文章に出会うこともあるわけで、正直言って僕にはそんな才能はない。だから、ネアンデルタール人のことを書いている。
ネアンデルタール人の社会に「文章」などもちろんなかったが、おそらく彼らは、そういう世界の輝きを心に刻むことができる知性や感性を持っていた。持たなければその厳しい環境を生きることができなかった。現代人のように、のんきに「自分」や「幸せ」や「生命の尊厳」などという「物語」をまさぐってなどいられなかった。ひたすら世界や他者の輝きにときめいていった。自分を忘れて、その存在そのものに驚きときめいていった。氷河期の北ヨーロッパというその厳しい環境のもとでは、そうやって自分を忘れてときめき続けていないと生きられなかった。
「世界の輝き」に気づくことができれば人は生きていられる。「自分」も「物語」もどうでもいいのだ。
どんな生き方をしようと、どれほど愚かで弱い存在であろうと、目の前のこの世界は美しく輝いている。言い換えれば、そのことに気づいて「自分」を忘れてゆくゆくカタルシス(浄化作用)を体験できなければ人は生きられない。
「世界の輝き」を鮮やかに写し取っている文章は美しい。ただもう「世界の輝き」だけを写し取って読ませる文章が書ける人はめったにいない。その人が書けば、たとえば道端に石ころが落ちているというそれだけのことでも美しく輝いている。

氷河期の北ヨーロッパの洞窟や岩陰に寄り集まって暮らしていたネアンデルタール人は、人と人が無防備に他愛なくときめき合うことができる生態を持っていた。
寄り集まって体を温め合うということなしに原始人の彼らが極寒の北ヨーロッパで生きるすべはなかった。
では、なれなれしくじゃれ合っていたかというと、それだけでは人の集団は成り立たない。そうやって人と人の関係が密着してくると、だんだん鬱陶しくなってくる。原初の人類はその鬱陶しさから逃れて二本の足で立ち上がっていったのであり、その鬱陶しさから逃れて関係してゆくことができる存在だから、国家などという無限に大きな集団をつくることもできている。
ネアンデルタール人は、ひとまずそれまでの人類の限界を超えて大きな集団をいとなむことができていた。それは、ただなれなれしくじゃれ合っていったからではない。
現在のこの国の核家族は、なれなれしくじゃれ合ってゆく関係に浸りながら崩壊していったのだ。そして社会全体にもそうした密着した関係が蔓延してゆくことによって、さまざまな社会病理が生まれてきている。
たとえば70年代の高度経済成長期における会社の上司と部下も仲間どうしもほとんど一日中行動を共にしていて、仕事が終わったあとも当たり前のように一緒に盛り場に繰り出すということをしていた。それがまあ高度経済成長のエネルギーになってもいたのだが、そんな密着した関係で家族や社会をいとなんでいたことのツケが、現在のさまざまな家族崩壊や社会病理として露呈してきていて、今、そのことを反省する時代にさしかかっている。
今どきの若者たちは、なれなれしい関係を生きてきた大人たちからなれなれしい関係を求められても拒否する傾向になってきている。
「共生関係」という言葉は精神病理学の用語らしいが、人と人の関係が密着しすぎてたがいに強く支配し合うようになってゆくことをいう。


ネアンデルタール人が洞窟に寄り集まって暮らし毎晩のように抱き合いセックスしていたからといって、必ずしもなれなれしくじゃれ合っていたとはいえない。たくさんのものたちが狭い洞窟に寄り集まっていたからこそ、ただなれなれしくじゃれ合っているだけではすまなかった。数十万年もそんな生態で歴史を歩んできたのであれば、それだけでは鬱陶しくなってしまうということを骨身に染みて知っていたはずだ。
そんな関係が数十万年も続くためには、関係が密着しすぎないための仕組みというか生態が自然につくられていったに違いない。
おそらく彼らは、他愛なくときめき合い抱きしめ合っていても、いつ別れてしまってもいい関係でもあった。それが、彼らが家族を持たず乱婚関係の社会をいとなんでいたことの意味するところだろう。誰もが「いつ別れてもいい」という関係意識を持たなければ、乱婚関係の社会は成り立たない。
そしてそれは、「いつ死んでもいい」という意識でもある。原始人が氷河期の極寒の北ヨーロッパで暮らせば、明日も生きてある保証はなかったし、半数以上の乳幼児が寒さに耐えられる体になる前に死んでいった。
この国でも「七・五・三」のお宮参りの習俗があるが、三歳になるまでがひとつの関門で、そのあとも男の子は五歳女の子は七歳になって、ようやく大人になるまで育つ見通しが立つのだろう。
人の赤ん坊ほど無力な存在もない。彼らは、いつ死ぬかもわからない状況の中で育ってゆく。「別れ」は、人の身体生理の中に組み込まれている。
心にも身体生理にも「別れ」を持っているからこそ人は、無限に大きく密集した集団をいとなむことができる。
ネアンデルタール人が洞窟にひしめき合って暮らしていたからといって、ただなれなれしくじゃれ合っていたわけではない。彼らこそ「別れ」を深く心に刻んで人と人の関係をつくっていたのではないだろうか。


ネアンデルタール人の社会において、集団の離合集散は日常茶飯事だった。
考古学では、「ある集団があるとき洞窟を放棄してどこかに行ってしまった」などと解釈されることも多いが、どこに行くという当てもないまま100人200人の集団ごと移動してゆくということはありえない。原始時代の道なき道を、女子供を抱えた大集団で当てもなく旅してゆくことなどできるはずがない。というか、もともと集団のアイデンティティ=結束は住み着いた土地に対する愛着の上に成り立っているわけで、その洞窟を放棄したということは、そうやって集団が解体されていったということを意味する。
この問題は、いろいろ考えさせられることが多い。
大和朝廷をつくった古代の奈良盆地の都市集団は、自分たちの祖先は九州の高千穂から神武天皇とともにやってきた、と「古事記」に記しているが、そのたぐいの起源伝説は世界中のどこにもあって、ぜんぶただの作り話にすぎない。それはつまり「ここが最終の土地だ」といっているわけで、それ自体が自分たちが昔から住み着いてきた奈良盆地という土地に対する愛着の裏返しであり、「しょうがなくここに住み着いてきたんじゃない、ここはほかのどこよりも素晴らしい土地だからである」といいたいのだ。
いろいろあったけどやっと「あなた」という理想の伴侶とめぐり会うことができた、といって結婚するのと同じこと。
ひとまずそういう起源伝説をつくっても、それ自体がその集団がその土地に対する愛着を共有して成り立っていることを表明しているにすぎない。その土地に対する愛着の上にその集団のいとなみが成り立っている。したがってその土地を放棄すればもう、集団であることができない。
まあ文明社会の戦争の時代においては、占領した土地に自国民を送り込むということはよくなされてきたが、それだって送り込まれていったのは集団からはぐれたものたちだったのであり、もとの集団がからっぽになったわけではない。
で、その洞窟を放棄したネアンデルタール人たちはどこに行ったのかといえば、集団からはぐれていったものたちがそれぞれまわりの他の洞窟集団に身を寄せていっただけだろう。
住みよい洞窟には人が集まってくる。ネアンデルタール人は、身を寄せてきた旅人を歓待した。と同時に、集団からはぐれていってしまいがちなメンタリティも持っていた。そうやって洞窟が放棄され、そうやって洞窟に人が集まってきた。


ヨーロッパの古代から中世にかけての時期、つまりローマ帝国の衰退・崩壊に合わせるかのように北のゲルマン民族がヨーロッパ中に拡散していった。これを世界史では「ゲルマン民族の大移動」というのだが、ヨーロッパ人は北の民族の方が拡散してゆく行動様式を豊かに持っているらしい。
ネアンデルタール人の社会だって、北の方が集団の離合集散が盛んだった。だから北の方が先にクロマニヨン化していった。それだけどんどん血が入り混じっていったからだ。
現在の人類学の主流である「集団的置換説」では「南からやってきたアフリカ人(ホモ・サピエンス)がクロマニヨン人としてネアンデルタール人を駆逐していった」といっているのだが、これでは北から先にクロマニヨン化していったことの説明はつかない。
南方型の身体形質であるアフリカ人が南の地域を素通りしていきなり極寒の北の地域にやってきて住み着いてゆくことなど、あるはずがない・
4〜3万年前ごろのヨーロッパに、南の「ホモ・サピエンス」の血が入ってきた。これは、アフリカから人がやってきたのではなく、人から人に伝えられて伝播してきたというだけのこと。で、この血をいち早く吸収し共有しながら集団全体でクロマニヨン人の身体形質になっていったのは北の地域であり、南の地域では最後までネアンデルタール人の形質を残したままでいた。
ネアンデルタール人の形質はひとまず「寒冷適応」であり、そのころはまだ氷河期で、南ヨーロッパでもその形質でないと生きにくいくらい寒かった。なのにもっと寒い北の地域のほうが先に南方型の「ホモ・サピエンス」の血を吸収していった。それは、北の方が防寒の文化が発達していたからだろう。
南のラテン民族は今でもそういうことに無防備で享楽的なところがあるし、北の方は防御が固く探求心が旺盛だ。おそらくそうやって防寒の文化が発達し、南方型の「ホモ・サピエンス」の血を吸収しても生き残ってゆくことができた。
また、北の方がずっと「死」が身近にあったから、一ヶ所にじっとしていられないようないたたまれなさも深く、それによってたえず集団の離合集散が起きていたのかもしれない。ともあれ、じっとしていたら凍死してしまうのだ。彼らにとって「別れ」はこの生の与件だった。
「別れのかなしみ」があるから「出会いのときめき」もある。そうやってネアンデルタール人の集団はたえず離合集散が起き、乱婚関係の社会になっていた。
乱婚関係であるということは、集団の離合集散が盛んで、人々はかんたんに集団を離れてゆき、どこに行っても歓待されていた、ということを意味する。そうやって血も文化も、どんどん広がっていった。人と人が無防備に他愛なくときめき合うというネアンデルタール人的メンタリティは、防御が固く探求心が旺盛な北の地域の方が豊かだった。フリーセックスの文化は、今でも北欧の伝統になっている。