「漂泊論」・42・本能とは、消えようとする衝動のこと

   1・「けがれ」の自覚とセックス
ついでだから、セックスのことも書いておこうと思う。
セックスのときの女の快感の深さは男の何倍だとか何十倍だとかとよくいわれる。
それは、女の方がそれだけ身体の物性に対する鬱陶しさを男よりもずっと深く抱えているからだろう。
男の快感なんか射精の瞬間だけのあっという間の出来事だ、などという。
しかし、男がセックスをしたがるのは、快感が欲しいからという理由だけではない。男にも男なりの「けがれ」の自覚がある。
しかしまあ、女ほどではない。
セックスは、自分の身体のことを忘れて相手の身体ばかり感じる体験である。
女にとって身体の鬱陶しさは、性器の中にいちばん深くたまっているのだろう。ペニスが入ってくれば、ペニスばかり感じて自分の性器のことは忘れていられる。そうやって身体が消えてゆくことの快感、そのときもう、性器だけではなく、体そのものが消えてゆくような快感があるのだろう。
なぜ女の性器の中に鬱陶しさがたまっているかといえば、思春期の初潮以来、毎月のその事態にさんざん痛めつけられ気持ちをかき乱されているからだろう。
女は、そのようにして身体の物性を自覚させられることの艱難辛苦を生きている。
セックスは女に大きな解放をもたらすが、同時に、セックスなんかなくてもいい、と思ってしまうことができるのも女である。その点男の方が、ずっとセックスに対する執着を捨てられない。
女は自分の性器に対する悪意が深い。性器のことを忘れてしまいたいのだ。だから、ある意味でセックスではないことの方がもっとラディカルに性器のことを忘れてしまえる場合はあるにちがいない。
そりゃあ、セックスのときだけセックスによってのみ忘れるよりも、つねに忘れていられる生き方ができればなおいいだろう。
セックスに執着する女も、どうでもいいという女も、いずれにせよ男よりずっと深く自分の性器や体の物性に対する悪意を抱えている。
まあ、セックスの快感がそういうところから湧いてくるのだとしたら、原始人の女は動物に近くて現代人の女よりもセックスに対する快感や執着は浅かったのだろうという推測は成り立たない。
セックスの快感そのものが原始的な感覚なのだ。
みずからの身体の物性に対する悪意は、直立二足歩行の開始いらいの人類の伝統である。
セックスの快感は、文明的な体験ではない。人間も生き物であるというそのことに根拠があるのだ。
したがって原始人だからたいして快感もなく犬猫のようにセックスしていた、ということなどはあり得ない。かえって原始人の方がもっと切実にセックスに執着し、セックスからもっと深い解放を汲み上げていた、ともいえる。なにしろ彼らは、現代人のような、身体の物性を忘れられるほかの娯楽や生き方があまりなかったのだから。
身体の物性に対する鬱陶しさや悪意をどう処理してゆくかということは、人類史はじまって以来ずっと抱えてきたもっとも大きな問題のひとつなのだ。人間の生は、その問題の上に成り立っているともいえる。
人間は、身体の物性に対する悪意を持っている。そうでなければ、人間はこんなにもセックスに執着しない。
そして、身体の物性に対する悪意を持っているということは、生きてあることに対する悪意を持っているということである。身体の物性を自覚することは、人間にとっては「けがれ」であり、消去したいことなのである。消去することが、人間の生きるいとなみなのだ。すなわち、人間にとって「生きてあること」は、すでに背負わされている事実であって、求めて得ようとしていることではない、ということだ。
人間にとっては、生きてあるという事態を消去することが、生きてある事態なのだ。
セックスであろうとあるまいと、われわれのこの生は、身体の物性に対する悪意と身体の消失感覚の上に成り立っている。そういう空間感覚を紡いでわれわれは生きている。
「わからない」という空間感覚。
「わからない」という恍惚、そうやってオルガスムスが体験されている。
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   2・身体と身体は共鳴などしない
男と女が抱き合うことは、たがいの身体が共鳴し合うことか?
共鳴し合って、一心同体になることか?
セックスの快感とは、ちんちんとおまんこが共鳴し合うことか?
そういうことじゃない。
一心同体になることじゃない。
自分の身体を忘れて相手の身体ばかり感じることだ。
そのとき自分は、一心同体になるような身体も、共鳴し合う身体も持っていない。
抱き合って一心同体になるなんて、ただの幻想だし、そんなところにセックスの快感があるのではない。
一部の観念的な人間が一心同体なると幻想するだけのことであり、それがセックスのよろこびであるなどという理屈はただの絵に描いた餅で、現場のタッチではない。
われわれは、他者の身体に共鳴するような身体は持っていない。他者の身体を感じているかぎり自分の身体を意識することはできないのであり、そのとき自分の身体は存在しないのだ。
存在しない身体が、どうして共鳴することができよう。共鳴することが快感であるのではなく、「消えてゆく」ことが快感なのだ。
生き物の身体は、他の身体と共鳴するようにはなっていない。他の身体と関係することは、身体の危機である。危害を加えられる恐れがあるし、動くことができなくなることでもある。
われわれの身体は、他者の身体と共鳴するような装置など持っていない。それが「愛」の源泉である、てか?笑わせるんじゃないよ。俗物め。
共鳴し合うことの不可能性、すなわち「わからない」という自覚において、人と人はときめき合っているのだ。
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   3・身体の危機
イワシは、あんな大群で泳いでも、けっして身体がぶつかり合うことはない。それは、他の身体と関わるまいとする機能を持っているからだろう。共鳴し合っているのではない。離れていようとしているだけだ。同じように泳ごうとしているのではなく、同じように泳がないとぶつかってしまうだけのことだ。群れがカーブを切るとき、いちばん内側の個体といちばん外側の個体は、泳ぎ方はぜんぜん違うじゃないか。同じ泳ぎ方をしようと共鳴していないからそういうことが可能になる。厳密にいえば、そのときすべての個体の泳ぎ方が違うのである。そしてすべての個体が、他の個体とぶつかるまいとしている。
他の個体にぶつからないようにしているということは、他の個体に対して消えようとしている、ということだ。それが、ぶつかるまいとすることである。
人とぶつかりそうになって、思わずその場にしゃがみこんでしまう人がいる。それは、本能的に消えようとしているのであり、消えようとすることそ生き物の本能である。
イワシが他の個体とぶつかるまいとしていることだって、他の個体に体に対して自分の身体を消そうとしていることである。ぶつからなければ、他の個体は消えているのも同じである。
生き物は、他の個体がそばにあったりぶつかりそうになったりすると、本能的に消えようとする。よけるということだって、他の個体から自分の身体を消す行為なのだ。
生き物の体が動くということ自体が、「いまここ」から消えることにほかならない。
生き物は、消えようとする本能を持っている。なぜなら生き物の身体は死んでゆくようにできているのだから、意識も当然そのような運動性を持って発生する。
消えようとすることが生き物の本能であって、「生き延びようとする」ことではない。死んでしまう機能を持ってこの世界に発生してきた生き物に、「生き延びようとする」衝動がはたらいていることなど、原理的にあり得ないことだ。
そして、消えようとすることが、生き物が生きるいとなみになっている。消えようとすることが、生きることを可能にしている。この地球の自然は、そういう仕組みになっている。生き物の命は、死んでしまう(消えてしまう)機能としてはたらいているから、生きることが可能になっている。われわれの生は、そういうパラドックスの上に成り立っている。それはまったく皮肉といえば皮肉なことなのだが、ひとまずこの地球の自然との兼ね合いで、そういうことになってしまっている。
女のオルガスムスだって、たぶんそういう生き物の自然の上に体感されている。だからそのとき「死ぬ、死ぬ」などというし、誰もが、深い快感を体験したあとには「もう死んでもいい」という感慨を持つ。
「死ぬ=消える」ことが生きることになっている。そこがやっかいなところで、そこにおいて生きることの醍醐味が体験されている。
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   3.女の性器は鈍感か敏感か?
女の性器はやわらかくてとてもデリケートにできているからやさしく扱ってやらないといけない、などという。
だったら大きく硬くなったペニスで中をひっかきまわすようなことをするな、という話である。あんな鈍感な場所もないのかもしれない。男からしたら、よくそんなことに耐えられるな、と思う。
ペニスが入ってきているとき、女は、それを受け入れている自分の性器それ自体が気持ちいのではない。そのとき、自分の性器のことはすっかり忘れて男のペニスばかりを感じている。それは、指の腹で机の表面をなぞれば机の表面ばかり感じるのと同じ感覚なのだろう。
まあ、ペニスが入ってくることは受難だからこそ、よりダイナミックに自分の性器のことを忘れることができるのかもしれない。
ダイナミックに自分の性器や体が消えてゆくことが快感なのだ。それが快感になるくらい女は、自分の性器に対する鬱陶しさや悪意を持っている。
自分の性器に対して敏感だからこそ、強く鬱陶しさや悪意を持っているともいえる。敏感だからこそ、よりダイナミックにペニスばかりを感じることができるともいえる。
そのとき愛液は、自分の性器を忘れさせてくれる機能になっているのかもしれない。
セックスであろうとあるまいと、人間が感じる体の気持ちよさとは、体が消えてゆく感覚である。
身体そのものの気持ちよさなどというものはない。他者の身体と共鳴している自分の体が気持ちいい、などという感覚はない。他者の身体を感じることが気持ちいいということも、根源的にはない。それはあくまで違和感なのだ。他者の身体を感じることによって自分の身体の物性を忘れている心地になっているところから「気持ちいい」という感覚が生まれてくる。
生き物の身体は、他者の身体に「共鳴」する装置など持っていない。根源的にはすべての他者の身体は違和感の対象であり、他者の身体と出会えば「消えようとする」のが生き物の本能なのだ。
見知らぬ人がそばに寄ってきて皮膚がざわざわするのは、他者の身体と共鳴していることか。そうじゃないだろう。消えようとして皮膚が収縮するからざわざわするのだ。
生き物の身体に組み込まれているのは、消えようとする装置である。
生き物は、「生きようとする」衝動で生きてあるのではない。「消えようとする」衝動によって生きてある。
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   5・男の苦労
生きてあることのダイナミズムは、消えようとする衝動によってもたらされる。
体を上手にダイナミックに動かすためには、体はリラックスしていなければならない。リラックスするとは、消えている状態のことだ。
自分の体を意識してこわばっていたら、体はうまく動かない。消えようとする衝動がはたらいている体において、ダイナミックな動きが起きる。
セックスだって、自分を捨ててリラックスすることは大切だろう。だから、経験を積むほど快感も深くなってゆく。
現代社会で勃起不全の男が増えているのは、自分を捨てられない社会だからだろう。
ペニスは、女の身体と「共鳴」して勃起するのではない。女の身体ばかりに関心がいってペニスの存在を忘れてしまっているときに勃起する。あんなものは勝手に勃起するのであって、自分の意思で勃起させるのではない。自分の意思で勃起させようとして、インポになるのだ。
勃起するには、女の裸を前にするよりも、ペニスを直接女の手に触られたり口にくわえられたりする方が有効らしい。なぜなら、それによって女の手のひらや口の中ばかり感じてペニスを忘れてしまえるからだ。
しかしこういうことを、「身体と身体が共鳴することによって……」という人がいるのだろうが、そうではないのだ。生物学的本能的には、触られた身体=ペニスは、危機を自覚して消えようとするあまり、逆説的に硬く大きくなってしまうのだ。
消えようとすることによって、そこに力がみなぎる。イチローがバットを振る瞬間も重量挙げの選手がバーベルを持ち上げる直前も、みな息を吐いて消えようとする体になっている。
仮性インポの人には、「フェラチオをされているときは息を吐いてリラックスしながらペニスのことを忘れるようにしましょう」とアドバイスした方がいいのかもしれない。
現代人の自意識過剰が、こういう病理を蔓延させている。
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   6・女の不満
人類の言葉=音声を発する行為だって、消えようとして息を吐く行為として生まれてきたのだ。猿が二本の足で立っているということは、つねに身体の危機に置かれているということだ。だから、消えようとする衝動も、ほかの猿よりももっとダイナミックだった。吐く息と一緒に音声が洩れてしまうくらい、消えようとする衝動がダイナミックだった。すなわち、それくらい身体の物性に対する鬱陶しさや悪意を深く抱えている存在だった、ということだ。
まあ、「愛」だとか「身体と身体は共鳴する」とか「一心同体になる」とか、そんなオカルトじみたことをいっていても、セックスの現場のタッチにはならないのではないだろうか。
いまどきは、「もっといいセックスがしたい」とか「もっと深く感じたい」とか、そんな作為的なスケベ根性をたぎらせている女がけっこう多いのだとか。しかし、無駄なことだ。おまえらみたいに自意識過剰な女はせいぜい、やりまくってその不満の埋め合わせをしていればいい。
おまえらのところには、そんなセックスは永久にやってこない。
セックスの快感なんて、感じたいと思って感じるものではなく、「感じてしまう」ものではないのか。まあそれだって、才能の問題かもしれない。
女も自意識過剰になっている社会らしい。しかし、おまえらのその作為的な知恵でセックスの深い快楽が得られるわけではない。
そんなものを欲しがることが病気なんだよ。
セックスなんか、やれりゃいいんだよ。その醍醐味は、そう思っているものが、もっとも深く体験している。
ただもう、生きてあることやこの身体の物性に深く幻滅しているものこそが、もっとも深く体験している。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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