「漂泊論」・43・やっぱり「鏡像段階」というのは嘘だと思う

   1・「ある」と「ない」
人間がこの世に生まれおちて最初に意識するのは、みずからの身体の「物性=ある」ということかもしれない。体内ではそんなことは意識していなかった。意識がなかったのではない。そこは、「ある」も「ない」もない世界だった。そういうかたちで「ない」という意識(の前提)を持っていた。
「ない」という前提を持っていたから「ある=物性」に気づいた。
そうしてもう一度、身体の外の「空気=空間」を「ない」と認識していった。
赤ん坊にとって身体の「ある=物性」を認識することが苦痛であれば、とうぜん意識は身体の外に向いてゆく。そのようにして、身体の「物性=ある」に対する苦痛の反作用として、身体の外の「空間=ない」に親密になってゆく。
「空間=ない」に対する親密さで、身体を動かそうとする。人間の赤ん坊は、身体の物性に対する苦痛が骨身にしみているぶん、ほかの動物以上に空間に対する親密さを持っている。だから、二本の足で立って歩こうとする。歩けもしないうちから歩こうとする。それは、より深く身体の外の空間と関わってゆこうとする行為である。
まわりの人間の真似してそうしようとしているのではない。ここのところは大事である。赤ん坊には自分のあるいている姿に対する監視などないし、それがどんな姿かということなどまったくわかっていない。赤ん坊は、自分の歩いている姿を実現しようとして歩こうとするのか。そんなことがあるはずないじゃないか。
赤ん坊には、自分の姿に対する関心などない。あれだけみずからの身体の物性の無力さとわずらわしさを思い知らされて生きてきて、自分の姿に対する関心など育つはずがないじゃないか。
空間に対する親密さなしに二本の足で立って歩こうとする衝動など生まれてくるはずがないし、それなしにその能力を獲得することは不可能なのだ。
それは、原初の人類が二本の足で立ち上がったことだって、まったく同じいきさつなのだ。それによって、生物としてのどんな能力を獲得したのでもない。
赤ん坊だって、四本足でハイハイしている方がずっと自由に動き回れるのである。
そのとき赤ん坊の関心は、あくまで身体の外の「空間=ない」に向けられている。自分の「身体=ある」に対する関心ではない。空間とより深くかかわって身体のことなど忘れたいから、二本の足で立って歩きはじめるのだ。
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   2・人間性の基礎としての空間感覚
意識にとって「わからない」とは、「ない=空間」を認識することでもある。
人間が二本の足で歩くことは、身体(足)の物性を忘れてゆくことである。立ってじっとしていた方が、はるかに足の物性を意識させられる。
そしてそのときの身体を「忘れる=ない」意識とは、身体を「空間」として把握しているということである。
身体を動かすことは、身体を「空間の輪郭」として取り扱うことである。われわれは、そのようにして歩いている。
目の前のコップに手を伸ばすことは、身体(腕)を「空間の輪郭」のスケールとして意識しているだけである。このとき身体が「物体」である必要なんか何もない。
家庭の主婦が包丁でまな板の上のキュウリを刻んでいることだって、刻み方が上手ければ上手いほど腕を「空間の輪郭」として扱っているだけである。
われわれの暮らしのほとんどの時間は、身体を「空間の輪郭」として扱うことの上に成り立っている。
身体の物性は、苦痛すなわち身体の危機において知らされるだけである。力を入れて物を持っているときだって、その身体にかかる負荷を、一種の苦痛として意識しているのだ。
身体は、「空間の輪郭」として扱うことによってスムーズに動くことができる。
この「空間感覚」こそ人間性の基礎であり、人と人の関係性の基礎であり、ここから人間的な文化が生まれてきた。
そしてそれは「わからない」という意識の問題である。
人間だけが「わからない」と自覚している。
哲学には、人間はどのようにして自分を知るのかとか、世界や他者を知るのかという問題があろうかと思うが、じつは「わからない=空間意識」こそ人間性の基礎になっているのではないだろうか。
人間は、「わからない」と自覚するからこそ、「何・なぜ?」と問うて文化や文明を生み出してきた。
「わかる」という心の動きなど、猿や猫でも持っている。
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   3・鏡像段階という嘘
J・ラカンの「鏡像段階」という概念は有名である。
赤ん坊の「わかる」という知恵のはじまりは、お母さんのすることがわかってそれを真似たり、鏡に映った自分の姿を見て自分だと認識して自我に目覚めるとか、まあそのような「わかる」という心の動きが芽生えるのだということらしい。
けっきょくみんな「わかる」という心の動きで人間性を考えようとしている。知識人なんてたいてい、「わかる」とか「知識」を持っているとか、そういうことが人間の人間たるゆえんだと思っている。それは、自分が人間のスタンダードだと思っているからだ。つまりおまえらの思考には、自意識をまさぐっているだけで、「他者」が存在していない。みんなそうじゃないか。それが、おまえらの思考の限界だ。
そんなステレオタイプの思考で人間のことがわかるのだろうか。
「わかる」という心の動きなど、ただの制度性であって、人間性の根源=自然ではない。言い換えれば、そんな心の動きなど、猿や猫でも持っている。
「わかる」という心の動きが人間を人間たらしめているのではない。僕は、その制度的な思考を疑っている。
人間性の芽生えは、「わからない=空間」に対する意識が特化してくることにある。
「わかる」という意識や「自我」など、生まれおちた時点で、すでにみずからの身体の物性を自覚するというかたちで芽生えているのだ。
赤ん坊が泣くのは「自我の苦しみ」なのだ。赤ん坊はそこから生きはじめるのであって、何ヶ月かたって、鏡を見て目覚めるのではない。
自分の姿を知ることが「自分を知る」ことではない。さらには、他人が自分のことをどのように見ているかということを知ることが「自分を知る」ということではない。
自分はどんな人間かということを知ることが「自分を知る」ことではない。そういうことが「自分を知る」ことなら、「自分を知る」ことは人によって優劣があることになる。
ラカンは、僕よりも自分のことをよく知っているのだろうか。
この世の中には、自分は人よりも自分のことをよく知っている、と自惚れている自意識過剰の人間がたくさんいる。
僕は、ラカンなんて自意識過剰のつまらない心理学者だと思っている。
そういうことではないのだ。「自分を知る」ことなど、猿や猫だってできている。
「自分を知る」とは、「自分の身体に気づく」ことだ。赤ん坊は生まれおちた瞬間からすでにそのことに気づいているのであり、そのことがわれわれの自意識となって終生ついてまわるのである。
人間にとって「自分の身体に気づく」ことがどれほど重く鬱陶しいことか、ラカンはなんにもわかっていない。その鬱陶しさは生まれた瞬間からはじまっているのであり、死ぬときまで続くのだ。
日本列島では、その鬱陶しさから「もの」という言葉が生まれてきた。そうしてその鬱陶しさが現代にまで引き継がれているから、今なおわれわれは、さまざまな場面で「もの」という言葉=音声を発せずにいられないのだ。
「だって私、女だもの」とか「さびしいんだもの」とか、それ自体、自分を知っている心の動きなのだ。
人間になることは「自分を知る=わかる」ことではない。われわれは、先験的に自分を知っているのであり、「自分を知る」のではなく、身体を通して避けがたく「知らされる」のだ。
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   4・赤ん坊とお母さんは「鏡像関係」にあるのではない
赤ん坊は「無力である」ということですでに人間的であるのだが、そこから人間として成長してゆくということは、「空間=わからない」という意識が発達してくることにある。
お母さんが手を叩くことを真似するとき、何が赤ん坊の関心を呼んだのだろう。
赤ん坊は、必ずお母さんと同じことをするのか。だったら、お母さんが変な顔をしたら、自分も変な顔をしようとするのか。そうじゃないだろう。その顔を見て、おもしろがって笑うだけだ。
「いないいないばあ」をされたら、もっとしてくれと思っても、自分もしようとは思わない。
赤ん坊はすでに、物をつかむとかして、自分の手を動かすことに対する関心を持っている。差し当たり手がいちばんうまく動かせる部分であり、身体をうまく動かして身体の鬱陶しさから解放されたいという願いを持っている。
お母さんの真似をして手を叩くのは、お母さんと同じことがしたいというよりも、手をうまく動かしたいという衝動なのだ。
お母さんが人差し指を立てて赤ん坊の前に差し出せば、赤ん坊も同じように人差し指を立てようとするのか。そうじゃないだろう。お母さんのその指を握ってくる。握れば、自分の手=身体に対する意識が消えて、お母さんの指ばかりを感じていられる。こういう反応は、生後すぐから始まっている。
それは、他者の身体ばかり感じて自分の身体を忘れている体験であり、これはこれですでにセックスの予行演習だともいえる。つまり、みずからの身体の物性から解放されようとする行為なのだ。
そこからさらに前進して、身体を動かして身体の物性から解放されようとする衝動が生後6カ月くらいから発達してくる。
身体を動かして身体の物性の鬱陶しさから解放されたいという赤ん坊の切実な願いが何もわからず、ただ赤ん坊は真似したがる存在だとか、「他者の欲望を欲望する」とかというような分析ばかりしているなんて、ほんとに愚劣だと思う。
赤ん坊は、お母さんと同じことをしようとしているのではない。ひたすら身体の物性の鬱陶しさから解放されたいのだ。そしてこれこそが、人間の生涯を通じての生のいとなみの根源のかたちなのだ。
赤ん坊の生のもっとも切実な課題というか達成は、凡庸な心理学者たちのいう「自我に目覚める」ことではなく、「身体の物性の鬱陶しさから解放される」ことだ。自意識(自我)なんか、生まれたときからすでに持っている。
ラカンのいっていることなんか、ほんとに愚劣で的外れだと思う。
赤ん坊にとっては、自我などというものより、身体をちゃんと動かせるようになることの方がずっと大事な差し迫った問題なのだ。そんなこと、あたりまえじゃないか。そういうことがわからないから、おまえらの発達心理学は間違いだらけになってしまうのだ。
何が「自我の目覚め」か、くだらない。
人間にとって「身体に気づく」ということがどれほど重く鬱陶しい問題かということを、おまえらはなんもわかっていない。
赤ん坊は、少しずつ少しずつ、身体を「空間の輪郭」として取り扱って身体を動かすことを覚えてゆく。そうしてそれは「わからない」という自覚に目覚めてゆくことであり、そこから「何・なぜ?」と問う作法を発達させてゆく。
身体の物性を忘れて身体を「空間の輪郭」として扱っているとき、意識は「(物性が)わからない」という状態に浸されている。
「わからない」という場に立つことこそ、人間の生のいとなみの作法なのだ。
人間は、「同じこと」をしようとする存在ではない。ある人は、「運動共鳴」などといって、そういう衝動が身体に組み込まれてある、などという。まったく、おまえらアホか、と言いたくなってしまう。
人間は、その情報に対して、「わからない」という場に立って、つねに新しい問いを加えてゆく。だから、「あなたが土を掘るなら、私はその土を運ぶ」という連携プレーが生まれてくる。
根源的には、同じことをしないのが、人間と人間の関係なのだ。人間は、つねに「わからない」という場に立って情報を上書きしてしまう。
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   5・「わからない」という空間意識
人間の赤ん坊は、歩けもしないくせに歩こうとする。はじめて立ち上がってからそれがなんとかさまになってくるまでには1年以上かかる。そのあいだ、数えきれないくらい転びまくるのだ。
猿は、できないことはけっしてしない。
人間は「できない=わからない」ことそれ自体を生きることができる。そこが、猿と人間の違いになっている。
そして赤ん坊が転びまくってでも二本の足で立って歩くということにトライし続けるのは、それほどに身体に気づかされることの鬱陶しさが骨身にしみているからだ。
二本の足で立って歩くことは、四本足で歩くことよりもはるかに身体を解放してくれる。そのことを赤ん坊は、はじめて立って歩いたときに発見するのだ。
よちよち歩きの赤ん坊は、歩けもしないくせに歩いては転んでばかりいるのである。それは、安定した四本足で歩くことの「わかる」という世界を捨てて、「わからない」という世界に旅立っている態度である。
親の真似をして二本の足で歩いているのではない。それが、よりダイナミックに身体を解放してくれる歩き方だからだ。
原初の人類だって、誰かひとりが立ちあがって、それをみんなが真似していったのではない。みんないっせいに立ち上がったのだ。誰も真似なんかしていない。誰もが、それによって身体が解放されていったのだ。誰もが「わからない」ということに身を浸していったのだ。
身体の物性を忘れること、その「わからない」という「空間性」、そこに人間性の基礎がある。
人間にとって「わかる」という場に立つことは、「けがれ」なのだ。人間は、身体や自分のことが「わかる」という状態から旅立ってゆこうとする。身体や自分のことがわかっても、人間はけっして解放されない。身体や自分のことがわかることは「けがれ」なのだ。
現代社会の制度性として真似て同じことをするという現象や心の動きが起きているとしても、それが人間性の根源のかたちだとはいえない。
根源的には、人間は、他者の真似をして同じことをすることによって「わかる」という場に立つことも「自分を確認する」ということもしようとはしない。それは、人間にとって「けがれ」なのだ。
人間は、「わかる」ということを目的化している存在ではない。「わかる」という場から旅立って「わからない」という問いを上書きしてゆく存在なのだ。
だから赤ん坊は、歩けもしないのに歩こうとトライしはじめる。
それは、親のすることを真似ているのではない。赤ん坊は、自分の歩く姿の画像なんかイメージしていない。親と同じことをしているという自覚などない。
親と同じことをするのが赤ん坊のよろこびであるのではない。そんなふうに分析したがるのは、大人たちの勝手な思い込みであり、この社会の制度性にすぎない。
赤ん坊が歩くことにトライするのは、純粋に身体の物性からから解放される場に立とうとしているからだ。赤ん坊のよろこびは、そこにこそある。ラカンのいうように「他者(=親)の欲望を欲望している」のではない。たとえ親からせかされてはじめたとしても、親と同じことをするのが赤ん坊のよろこびになっているのではない。そのとき赤ん坊には、親と同じことをしているという自覚などない。
赤ん坊が二本の足で立って歩こうとする契機は、彼がそれまでの人生をいかに深く身体の物性にわずらわされて生きてきたかということにある。そこからの解放として歩きはじめるのだ。
鏡像段階という定義で赤ん坊が二本の足で立って歩こうとする契機の説明はつかない。それはすなわち、発達心理学としてきわめていい加減だということである。こんな人間をなめたような愚劣な論理に感心している哲学者や心理学者の気が知れない。
鏡像段階という概念が役に立つのは、人間が人間を支配したりプロパガンダしたりすることだけであって、人間性の根源を問うことにおいてはじゃまになるだけである。
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   6・自分の知能や人格を解体して「わからない」という場に立つ
誰だって、街で自分と同じ服を着ている人間を見れば、あまりいい気もちはしないだろう。人間の根源に「他者の欲望を欲望する」というような衝動はない。そういうこの社会の制度性があるだけだ。
人と人とのあいだには「他者の欲望を欲望する」ことのできない「空間­=すきま」が横たわっている。だから、他者が土を掘っていたら、自分はその土を運ぶ側に立とうとする。そういう連携は、猿にはできない。
「他者の欲望を欲望する」ことの不可能性こそ、人間性の基礎になっている。人間は、そういう「わからない」という場に立とうとするのだ。
だから、人類の知識は、たえず上書きされ続けてきた。
おまえら、有名知識人の言説に激しく同意して自分も同じ人種になったつもりで浮かれてばかりいてもしょうがないだろう。この世の中にはそういう制度的観念性が機能しているが、それが人間の本性であるのではない。
僕は、たとえ相手がマルクスだろうと小林秀雄だろうと、ただそのまま同意するのではなく、そこから新しい「問い」を携えて知の荒野に旅立ってゆくことをせずにいられない。マルクス小林秀雄がそのようにして土を掘ったのなら、僕はその土を運ぶ人になる。人間なんて、普通はそういうふうにする生き物なんじゃないの?
「わかる」という自分の知能や人格(=自我)を解体して旅立ってゆくことにこそ、人が生きることの根源のかたちがある。いまどきのギャルが「かわいい」といってときめくのは、まさにそういう態度なのだ。いや東大出のインテリ女だって、自分の知能や人格を解体して馬鹿笑いしたりはにかんだりすることはあるにちがいない。
人間は、もともと「わかる」ということを誇って生きる生き物なのか。そういう人種をはびこらせている社会の状況や制度性があるだけじゃないか。
人は、「わからない」という場に立って、そこから「何・なぜ?」という問いを携えて旅立ってゆく。そうやって私は「土を運ぶ人」になる。
「わからない」という空間感覚、空間に対する親密さ、これが人間性の基礎である。生き物の身体と身体は共鳴しない。他者の身体を前にして、みずからの身体は消えてゆく……これが関係性の根源のかたちである。
鏡像段階」だなんて、やめてくれよ。世の中にはこんないかがわしい言説がうんざりするくらいはびこっていて、こちらが何をいってもはね返されたり無視されたりするだけだろうなと思うと、何度でも同じことをいいたくなって、なかなか前に進めない。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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