「漂泊論」・44・ミラーニューロン、だってさ

   1・それによって関係性の本質が解き明かせるか?
J・ラカンの「鏡像段階」という概念と、脳科学者が「ミラーニューロン」という言葉を使うのと、何か関係があるのだろうか、ないのだろうか。
ミラーニューロンとは、他者と「鏡像関係」になる神経細胞のことをいうのではないのか。
そういう「鏡像関係」のことを、世間では「愛」とか「共生」とかという言葉に結び付けている。
そういう制度的な思考がこの世の中にはびこっている。
僕はここまでずっと、人と人の関係の根源は「鏡像関係」ではなく「一方通行の関係」である、といってきた。
だから、「ミラーニューロン=鏡像関係」などという思考はしない。
ミラーニューロン」だなんて、なんだかいかがわしい命名の仕方だ。この言葉は好きになれない。
人間とは、模倣をする生き物であるのか。それによって人間的な「愛」や「連携」や「集団性」が成り立っているのか。こういう人間認識が疑う余地のないことのようにいわれると、何かいやあな感じがする。
そういうことにすれば、人を支配したりプロパガンダをすることだって人間の本性になり正義になってしまう。おまえらは、人の観念のはたらきをそういう思考の範疇に縛りつけておきたいのか。そういう範疇でしかものを考えられないのか。
そんな思考など、ただの制度性じゃないか。
まったく、おまえらの思考は薄っぺらすぎるんだよ、と言いたくなってしまう。
人間は、模倣をする生き物か?鏡を見るように、他人とは自分を知るための道具であり、人間とは自分を確認するために生きている存在なのか。
冗談じゃないよ。
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   2・人間は「わからない」と途方に暮れている存在である
人がクッキーを食べているのを見て自分もクッキーを食べたくなったら、クッキーを食べようとする衝動を他人から与えられたことになるのか。そうじゃない。もともと自分の中にクッキーを食べたい衝動があって、それを喚起されただけのことだろう。
普通、自分の嫌いなものを食べている人を見て、自分も食べたいとは思わないだろう。
「もらい泣き」は、相手の悲しみがわかって自分も悲しくなる行為か。
相手の悲しみなんかわからない。ただ、泣くという行為は悲しみから起こるということを経験的に知っていて、そういう自分の記憶を追体験しているだけだろう。
相手の悲しみに反応するんじゃない。そういうオカルトじみたことをいうなよ。相手の泣くという行為に反応しているだけであり、それはあくまで自分の悲しみを反芻しているだけのことだ。
悲しんだことのない人間が、人が泣くのを見て生まれてはじめて悲しみを体験するということが起きるのか。起きるはずないだろう。
小児科の診察室で赤ん坊の泣くという行為が伝染するのは、ほかの赤ん坊の痛みや悲しみがわかるわけでもないだろう。あくまで自分の泣くという習性が喚起されているだけのこと。泣いたことのない赤ん坊や、ふだんからあまり泣くことをしない赤ん坊は泣かない。いつも泣いてばかりいる赤ん坊から最初に泣きはじめる。いつも泣いてばかりいる赤ん坊が、一緒になって泣きたがる。
大人のもらい泣きだって、自分の悲しみが喚起されているだけだ。相手は嘘泣きだっていいのだ。相手が悲しんでいると思うのは、自分が勝手にそう思っているだけだ。
そのとき、相手の悲しみがわかったのではない。あくまで自分が勝手に悲しくなってしまったのだ。人間は、無意識のところで、相手の心は「わからない」という機制を持っている。「わからない」からこそ、自分が悲しくなってしまうことによってしかその悲しみは共有できない。
相手の気持ちが「わからない」から、もらい泣きをするのだ。相手の気持ちなんか、自分も悲しくなってみるしかわかりようがないのだ。
わかったから悲しくなる、ということなどあるはずがない。そんなことは、わかったつもりの詐欺師が嘘泣きをして見せる現場においてのみ起こっていることだ。
悲しみを共有するとは、おたがいの悲しみをわかり合うことではない。そんなことは原理的にできるはずがないことなのだ。おたがいが勝手に悲しくなっている状態において、はじめて共有される。
悲しみを共有できる人とは、相手の悲しみがわかる人ではなく、自分が悲しくなれる人のことだ。
人と人の関係は、つねに「一方通行」なのだ。一方通行だからこそ、愛し合い連携し合い、恋や友情が生まれてくるのだ。「鏡像関係」から生まれてくるのではない。
相手の気持ちがわかるとか、自分の気持ちを相手にわからせることができるとか、ミラーニューロンてなんなのさ?人を支配したり洗脳するための装置なのか?
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   3・鏡像関係といういかがわしさ
他者がりんごに手を伸ばしているのを見たら、猿だったら、その他者はりんごを食べたがっている、と思うかもしれない。だから、さっと横取りしたりする。
しかしそれはただ触りたいだけかもしれないし、取って放り投げるつもりかもしれない。だから人間は「何するんだろう?」と思って見てしまう。とはいえそれは、そういうことを頭の中でシュミレーションするからではない。それ以前に、何をしようとしているのか「わからない」という自覚=機制を持っているからだ。
この「わからない」という自覚=機制を持っているかいないかが人間と猿の違いである。
だから、猿のミラーニューロンはかんたんに特定できるのに、人間の脳ではなかなか特定できないのだとか。だから近ごろでは、「ミラーニューロンシステム」とかなんとかいうらしい。笑っちゃうよね。科学者が、そんなあいまいなことをやっていていいのかね。
ミラーニューロンなどといっても、ようするに「わかる」という心の動きのことだろう。猿はかんたんにわかった気になってしまうから、その部位を特定しやすい。
しかし人間は、かんたんにわかったという気にならない。「わからない」という機制を持っている。だから、特定しにくい。
猿で特定できるなら、人間ならもっとはっきりと特定できるだろう。おまえら、人間はミラーニューロンのはたらきが発達している、と合唱しているのだから。
ミラーニューロン」という言葉の、なんと非科学的でいかがわしいことか。われわれからしたら、ものすごく制度的な匂いが付きまとっている言葉だと思う。
人間はほんとに真似し合う生き物か。
ミニスカートが流行することだって、「真似をする」という言葉だけでは説明がつかない。もともと誰の中にもミニスカートをはきたいという衝動が潜んでいて、その衝動が呼びさまさまされてゆく現象なのだ。それは、表面的には「真似をする」という現象だが、真似をするという心の動きがはたらいているのではない。
たぶん、根源的にはというか脳科学的にはというか、真似をしたいという衝動など存在しない。
脳科学者がなんといおうと、僕は、そういう「鏡像関係」になろうとする衝動の存在を疑っている。
ただの、わかった気になるかならないかという制度性の問題じゃないの。何がミラーニューロンか。20世紀の大発見のひとつなんだってさ、アホらし。
ミラーニューロンなるものがあってもなくても僕にとってはどうでもいいことで、そのミラーニューロンという言葉がいかがわしくてうんざりだ、といいたいのだ。ひとりの無知な文科系人間として。
そんな言葉をもてあそんでいい気になっている世間のオピニオンリーダーなど、僕は信用しない。アホか、と思う。
ただもう、「ミラーニューロン」などといういかがわしい言葉を生み出した現代社会の病理のことが気になる。
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   4・他者の愛も欲望もわからない
他者の衝動=欲望を模倣しようとする根源的な心の動きなどあるものか。
制度性としてそうした観念的なはたらきがあるというだけのこと。
人の心は、他者の衝動=欲望など「わからない」という前提の上に起きている。
だから、他人が泣いているのを見て、自分の中の悲しみを呼び覚ます。他人の悲しみなど「わからない」から、自分も悲しくなってみるしかない。
他人の悲しみがわかって自分も悲しくなるということなどない。
自分を悲しくさせるのは、自分の悲しみだ。他人の悲しみで悲しくなれるはずがない。
他人の悲しみは他人のものであって、私のものではない。
他人が悲しんで泣いていることは誰にもわかるが、自分の中に悲しみがないものは一緒に泣くことはできない。
他人の悲しみが自分に伝染するのではない、自分の中の悲しみが呼びさまされるのだ。
生き物にとって、他者の身体がそばにあることは「身体の危機」であり、そのときみずからの身体を消そうとする。消えようとする。身体を忘れようとする。
ライオンがシマウマを捕食することだって、まあ自分の身体を消そうとする衝動である。そのときライオンは、食べているシマウマの身体ばかり感じて自分の身体を忘れている。われわれだって、ものを食っているときは、食い物の味や噛み心地にばかり意識がいって、自分の身体のことを忘れている。赤ん坊がお母さんのおっぱいにしゃぶりついていることだって同じであり、意識が身体の外に向いて自分の身体を忘れている状態である。
消えようとすることが、生き物の生きてあるかたちなのだ。
したがって、生き物の身体が他者の身体と「共鳴」するということはあり得ない。消えている身体が「共鳴」できるはずがない。
つまり、意識の根源においてはというか、脳科学的な脳のはたらきにおいては、他者の身体と「鏡像関係」になることなどあり得ないのだ。
人間は、相手の気持ちは「わからない」という機制を持っている存在だから、自分の中からより深く悲しみが込み上げてもらい泣きをする存在になったのだ。
祭りのときにみんなで浮かれているときだって、誰もが自分の中からこみあげてくるものを体験しているのであって、相手のよろこびを真似しているのではない。その集団のよろこびは個人個人で時間差があるのではない。みんないっせいによろこんでいるのだ。
人と人を根源において結びつけているのは、相手の気持ちが「わかる」という体験ではない。相手の気持ちが「わからない」という自覚=機制にある。
直立二足歩行する猿である人間は、たがいの身体のあいだに「わからない」という機制が生まれる「空間=すきま」をつくり合って存在している。
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   5・なんと制度的な響きの言葉であることか
人間はほかの動物以上に「鏡像関係」にならない生き物だから、ミラーニューロンが特定できないのだろう。そもそもミラーニューロンなるものが存在するのかどうかも疑わしい。まあ、僕は、勝手にそう思っている。
他者と鏡像関係になることがこの生を成り立たせているのだとは思えない。そのようにして「もらい泣き」という現象が起きてくるのだとは思わない。
他者の身体がそばにあれば消えようとして、「わからない」という心の機制がはたらく。だから、自分の悲しみを呼び覚まして「もらい泣き」ということをする。
猿は、「わからない」という心の機制を持っていないから、自分の中の悲しみを呼び覚ますことができない。だから、もらい泣きをしない。
脳のはたらきの根源のかたちは、「わかる」という認識にあるのではなく、「わからない」という機制にあるのではないだろうか。生き物の命は、そういうふうにはたらくようにできているのではないだろうか。なぜなら命の根源的な機能は「死んでゆく」ということにあるのだから。
「わかる=認識」というパラダイムで研究している脳科学なんか、僕は信じない。
どうしていまどきのインテリは、「ミラーニューロン」という言葉をあんなにもうれしそうに振り回したがるのだろう。「わかる=認識」という心の動きを人間の意識のはたらきの本質に据えれば、インテリの優位性が確認できるからだろうか。
ミラーニューロンという概念なんて、やつらのそういう自意識の上に成り立っているだけで、それが脳のはたらきの根源のかたちだとは僕は思わない。
現在の脳科学がどこまでこのことを解き明かしているのかということは、僕はまったく知らない。たとえ100パーセント解き明かしたといわれても、僕は「いかがわしい言葉だ」と思う。
おまえらの人間の見方のセンスなんか信用できない。おまえらよりも、「相手の心なんかわからない」という「この世のもっとも弱いものたち」の方が、ずっと深く切実に心を響かせ合い、ときめき合っている。
生き物の関係性は、ミラーニューロンの「わかる」というはたらきの上に成り立っているのだとは、僕は思わない。そういう「鏡像関係」なんか信じない。
そういう制度性こそ大切なのだと居直るのなら、まだ納得できる。それはたしかに、人を支配したり洗脳したりするには都合のいいネーミングだ。しかしそれが関係性の本質だとか自然だとか脳のはたらきだとかいわれると、俗物が何いってやがる、と僕はうんざりしてしまう。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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